12:お隣さん
一人暮らしを始めたのは、社会人になって二年目の春だった。
駅から歩いて十分ほどの場所にある、古い二階建てのアパート。築年数はかなり経っていたけれど、家賃が手頃で、職場にも通いやすかった。
部屋は狭かったが、ひとつだけ気になることがあった。
壁が薄いのだ。
隣の部屋からは、思っていた以上に生活音が聞こえてきた。
朝は、何かを引きずるような音。夕方になると食器が触れ合う音や、テレビの音が聞こえてくる。
ときどき、子どもが走り回るような足音もした。
「ああ、小さい子がいる家なんだな」
最初は、その程度にしか思わなかった。
夜、仕事から帰ってきて食事をしていると、隣から笑い声が聞こえることがあった。大人の声に混じって、甲高い子どもの声が響く。
何を話しているのかまでは聞き取れない。それでも、家族で食卓を囲んでいる様子が目に浮かぶようだった。
一人暮らしを始めたばかりの頃は、帰宅しても部屋の中は静かだった。だから、壁の向こうから聞こえる生活音が、妙に安心できることもあった。
もちろん、うるさいと感じる日もあったけれど。
ある夜など、テレビの音が大きくて、少し困ったことがあった。
それでも、わざわざ苦情を言うほどではない。
お互いに暮らしていれば、多少の音は仕方がないのだろう。
私はそう思い、気にしないことにした。
隣の住人と顔を合わせたことは、一度もなかった。
玄関を出る時間が違うのか、廊下ですれ違うこともない。
それでも、壁の向こうから毎日のように音が聞こえてくるのだから、そこに誰かが住んでいることを疑う理由はなかった。
おかしなことが起きたのは、引っ越してから二か月ほど経った頃だった。
その日は、仕事が長引いて帰宅が遅くなった。
夕食を簡単に済ませ、シャワーを浴びようとしていたとき、隣から大きな声が聞こえた。
最初は、いつもの家族の話し声だと思った。
けれど、様子が違った。
男女が言い争っているようだった。
何を言っているのか、はっきりとは聞き取れない。ただ、いつもの穏やかな声とは違い、互いに強い口調で何かをぶつけ合っている。
私は、思わず手を止めた。
しばらくすると、椅子を引きずるような音がした。
続いて、何かが床に落ちる音。
ガシャン、とガラスの割れるような音が響いた。
「ちょっと……」
私は壁を見つめた。
夫婦喧嘩だろうか。
そう思ったものの、胸の奥に嫌な感覚が広がっていった。
言い争う声は、だんだん激しくなっていく。
何かを叫ぶ声。
もう一度、物がぶつかるような音。
そして、突然、女性の悲鳴が聞こえた。
私は息を呑んだ。
短い悲鳴だった。
その直後、ドン、と重いものが床に落ちたような音がした。
静かになった。
さっきまで聞こえていた声も、物音も、すべてが消えていた。
私はしばらく、その場から動けなかった。
テレビの音も聞こえない。
子どもの声もしない。
まるで、隣の部屋だけが切り取られてしまったかのようだった。
何かあったのだろうか。
私は玄関に向かい、そっとドアを開けた。
廊下は静まり返っていた。
隣のドアを見つめる。
表札はなかった。
けれど、そこに人が住んでいることは知っている。毎晩、あれだけの生活音が聞こえていたのだから。
私は隣のドアに近づいた。
「……大丈夫ですか?」
小さく声をかけてみた。
返事はなかった。
もう一度、ノックをした。
「すみません。何かあったんですか?」
やはり、何も聞こえない。
そのとき、さっきの悲鳴が頭の中によみがえった。
もし、本当に何か事件が起きていたら。
迷っている場合ではない気がした。
私は自室へ戻り、警察に電話をかけた。
警察が到着したのは、それから二十分ほど経ってからだった。
大家さんも呼ばれ、隣の部屋の前で話をしていた。
私は、自分が聞いたことを説明した。
言い争う声がして、物が落ちる音が聞こえたこと。ガラスが割れたような音のあと、女性の悲鳴が聞こえたこと。そして、突然、静かになったこと。
警察官は真剣な顔でうなずき、大家さんに鍵を開けるよう求めた。
私は、自分の部屋の前から、その様子を見守っていた。
大家さんが鍵を差し込み、ドアを開ける。
中を見た警察官が、少しだけ眉をひそめた。
「……誰もいませんね」
その言葉に、私は思わず聞き返した。
「え?」
警察官は部屋の中を確認していた。
そこには家具も、荷物もなかった。
窓の前には何も置かれておらず、部屋の隅にも、誰かが生活しているような気配はなかった。
大家さんは、不思議そうに私を振り返った。
「こちらは、しばらく空室なんですが……」
私は、言葉が出なかった。
「そんなはず、ありません。毎晩、隣から音が聞こえていたんです。テレビとか、食器の音とか、子どもの声も……」
大家さんは困ったように笑った。
「いや、でも、誰も住んでいませんよ。前の入居者が出てから、ずっと空いています」
私はもう一度、部屋の中を見た。
確かに、誰もいない。
争った跡も、割れたガラスも見当たらなかった。
床には、ところどころ薄く埃が積もっている。
人が暮らしている部屋には見えなかった。
警察官は、念のため周囲も確認してくれたが、何も見つからなかった。
「音がどこか別の部屋から聞こえた可能性もあります。しばらく様子を見て、また何かあれば連絡してください」
そう言われ、私はうなずくしかなかった。
警察も大家さんも帰っていった。
私は、自分の部屋に戻り、ドアを閉めた。
何かの聞き間違いだったのだろうか。
疲れていたのかもしれない。
テレビの音を、隣の部屋の音と勘違いしたのだろうか。
そう考えようとした。
けれど、あの悲鳴は、どうしても聞き間違いだとは思えなかった。
その夜は、なかなか眠れなかった。
布団に入っても、耳が隣の部屋を気にしてしまう。
何も聞こえない。
当然だ。あそこには誰も住んでいないのだから。
そう自分に言い聞かせ、目を閉じた。
しばらくして、ようやく眠りかけた頃だった。
コトン。
隣から、小さな音が聞こえた。
私は、目を開けた。
続いて、食器が触れ合う音。
テレビの音。
子どもの笑い声。
いつもの生活音が、壁の向こうから聞こえてきた。
私は、布団の中で身体を固くした。
さっき警察が確認した部屋には、何もなかった。
誰もいなかった。
それなのに、今、確かに聞こえている。
私はゆっくりと起き上がり、壁に耳を近づけた。
大人の話し声が聞こえる。
子どもが何かを尋ねる声。それに答える、女性の声。
まるで、いつもの夜が戻ってきたみたいだった。
そして、しばらくしたあと。
壁の向こうから、かすかな声が聞こえた。
「……ごめんね」
私は、息を止めた。
その声が、妙に耳に残った。
なぜだろう。
聞いたことのある声だった。
誰の声なのか、すぐには分からない。
ただ、自分が何気なく言葉をこぼしたときの声に、ひどく似ている気がした。
私は、壁から離れた。
その夜は、朝まで一睡もできなかった。
翌日、大家さんにもう一度、隣の部屋について尋ねた。
空室になってから、かなり時間が経っていること。前の入居者が出て以来、誰も住んでいないこと。最近、入居の問い合わせもないこと。
大家さんの話は、昨日と変わらなかった。
「何かの音が、別の部屋から伝わってきたんじゃないですかね」
私は、そうなのかもしれないと思おうとした。
それでも、その夜も音は聞こえた。
食器の音。テレビの音。子どもの笑い声。
そして、最後に、あの声。
「……ごめんね」
私は、もう壁を確かめようとは思わなかった。
聞こえるたびに、胸の奥が冷たくなっていく。
あの部屋は空室だ。
そこには、誰もいない。
それなのに、誰かが確かに暮らしている。
私は、日に日に眠れなくなっていった。
仕事中も、ふと、あの声を思い出すことがあった。
あの声は、本当に私の声に似ていたのだろうか。
それとも、怖い思いをしたせいで、そう感じているだけなのか。
考えれば考えるほど、分からなくなった。
結局、私は引っ越すことにした。
大家さんには、仕事の都合だと伝えた。
本当のことを話しても、きっと信じてもらえないと思ったからだ。
荷物をまとめている間も、隣からは生活音が聞こえていた。
もう、確かめる気にはなれなかった。
私は最後に一度だけ、壁を見つめた。
「……さようなら」
小さく呟いて、部屋を出た。
それから、何年も経った。
私は結婚し、夫と二人で暮らしていた。
結婚生活は、最初のうちは穏やかだった。
休日には一緒に買い物へ出かけ、夕食を作り、夜にはテレビを見ながら笑った。やがて子どもも生まれ、慌ただしくも幸せな日々が続いていった。
もちろん、喧嘩をすることもあった。
けれど、そのたびに話し合い、仲直りをしてきた。
私は、あの古いアパートで暮らしていた頃のことを、ほとんど思い出さなくなっていた。
あの音も、あの空室も。
ときどき夢に出てくることはあったが、目を覚ませば、もう忘れてしまっていた。
そんなある日、私たちは新しい住まいを探すことになった。
今まで暮らしていた家を離れ、別の場所へ引っ越すことになったのだ。
不動産屋に案内されたのは、駅から歩いて十分ほどの、新しいマンションだった。
外観は明るく、エントランスもきれいに整備されていた。
部屋を見せてもらい、夫はすぐに気に入った様子だった。
「ここ、いいんじゃない?」
私も、悪くないと思った。
窓からの眺めもよく、部屋の広さもちょうどよかった。
住所を確認して、私は少し驚いた。
以前住んでいた古いアパートがあった場所に、よく似ていたのだ。
「あれ、ここって……」
「どうしたの?」
夫が尋ねた。
「昔、この辺りにあったアパートに住んでいたことがあるの。もう建て替えられたみたいだけど」
「へえ、そうなんだ」
私は、間取り図を見た。
今回、私たちが借りる部屋は、102号室だった。
「私が住んでいたのは、たしか101号室だったな」
何気なく言うと、夫が笑った。
「じゃあ、隣みたいなものだね」
私は、思わず間取り図を見つめた。
101号室。
102号室。
数字がひとつ違うだけ。
それだけのことなのに、胸の奥に、何か小さな引っかかりが残った。
けれど、私はそれ以上考えないことにした。
古いアパートは、もうない。
今あるのは、新しく建てられたマンションだ。
あのときのこととは関係ない。
そう思った。
引っ越してから、しばらくは何事もなかった。
部屋は静かだった。
隣の部屋からは、普通の生活音が聞こえることもあったが、以前のように気になることはなかった。
私は、あの古いアパートで聞いた音のことを、すっかり忘れかけていた。
夫との生活も、順調だった。
子どもは大きくなり、毎日忙しく過ごしていた。
けれど、いつからか、少しずつ変化が生まれた。
仕事が忙しい夫は、帰りが遅くなる日が増えた。会話が減り、互いに疲れているせいか、ちょっとしたことで言い争うようになった。
最初は、すぐに仲直りできた。
でも、同じような喧嘩が何度も繰り返されるうちに、少しずつ、言葉が荒くなっていった。
以前なら笑って済ませられたことも、そうはいかなくなった。
その日も、きっかけは些細なことだった。
私は、夫が何度も同じ約束を破ったことを責めた。
夫は疲れた様子で、もういいだろうと話を切り上げようとした。
「いつもそうやって、話を終わらせるのね」
「もういいって言ってるだろ」
「よくないから話してるんでしょう?」
夫は深く息を吐いた。
「頼むから、もうやめてくれ」
その言葉が、私の中で何かを切った。
「やめてほしいのは、こっちよ」
声が大きくなった。
夫も声を荒らげた。
いつの間にか、テーブルの上にあったものが床に落ちていた。
ガラスが割れる音がした。
私は、もう何を言われたのか、よく覚えていない。
ただ、感情が抑えられなくなっていた。
手を伸ばした。
夫が短く叫んだ。
次の瞬間、重いものが床にぶつかる音がした。
私は、息を止めた。
部屋の中が、静かになった。
何も聞こえない。
私は、目の前の光景を見つめたまま、しばらく動けなかった。
そして、気づけば、口から小さな声がこぼれていた。
「……ごめんね」
その声を聞いた瞬間、私は凍りついた。
さっきまでの出来事とは別の何かが、頭の中で鮮明によみがえってきた。
ガラスの割れる音。
短い悲鳴。
重いものが床にぶつかる音。
そのあとの静寂。
そして、最後に聞こえた、あの声。
私は、ゆっくりと口元に手を当てた。
さっき、自分の口からこぼれた声が、耳の奥で蘇る。
あの夜、壁の向こうから聞こえた声と、よく似ていた。




