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世界の綻び

12:お隣さん

作者: コトリ
掲載日:2026/10/12

一人暮らしを始めたのは、社会人になって二年目の春だった。

駅から歩いて十分ほどの場所にある、古い二階建てのアパート。築年数はかなり経っていたけれど、家賃が手頃で、職場にも通いやすかった。

部屋は狭かったが、ひとつだけ気になることがあった。

壁が薄いのだ。

隣の部屋からは、思っていた以上に生活音が聞こえてきた。

朝は、何かを引きずるような音。夕方になると食器が触れ合う音や、テレビの音が聞こえてくる。

ときどき、子どもが走り回るような足音もした。

「ああ、小さい子がいる家なんだな」

最初は、その程度にしか思わなかった。

夜、仕事から帰ってきて食事をしていると、隣から笑い声が聞こえることがあった。大人の声に混じって、甲高い子どもの声が響く。

何を話しているのかまでは聞き取れない。それでも、家族で食卓を囲んでいる様子が目に浮かぶようだった。

一人暮らしを始めたばかりの頃は、帰宅しても部屋の中は静かだった。だから、壁の向こうから聞こえる生活音が、妙に安心できることもあった。

もちろん、うるさいと感じる日もあったけれど。

ある夜など、テレビの音が大きくて、少し困ったことがあった。

それでも、わざわざ苦情を言うほどではない。

お互いに暮らしていれば、多少の音は仕方がないのだろう。

私はそう思い、気にしないことにした。

隣の住人と顔を合わせたことは、一度もなかった。

玄関を出る時間が違うのか、廊下ですれ違うこともない。

それでも、壁の向こうから毎日のように音が聞こえてくるのだから、そこに誰かが住んでいることを疑う理由はなかった。


おかしなことが起きたのは、引っ越してから二か月ほど経った頃だった。

その日は、仕事が長引いて帰宅が遅くなった。

夕食を簡単に済ませ、シャワーを浴びようとしていたとき、隣から大きな声が聞こえた。

最初は、いつもの家族の話し声だと思った。

けれど、様子が違った。

男女が言い争っているようだった。

何を言っているのか、はっきりとは聞き取れない。ただ、いつもの穏やかな声とは違い、互いに強い口調で何かをぶつけ合っている。

私は、思わず手を止めた。

しばらくすると、椅子を引きずるような音がした。

続いて、何かが床に落ちる音。

ガシャン、とガラスの割れるような音が響いた。

「ちょっと……」

私は壁を見つめた。

夫婦喧嘩だろうか。

そう思ったものの、胸の奥に嫌な感覚が広がっていった。

言い争う声は、だんだん激しくなっていく。

何かを叫ぶ声。

もう一度、物がぶつかるような音。

そして、突然、女性の悲鳴が聞こえた。

私は息を呑んだ。

短い悲鳴だった。

その直後、ドン、と重いものが床に落ちたような音がした。

静かになった。

さっきまで聞こえていた声も、物音も、すべてが消えていた。

私はしばらく、その場から動けなかった。

テレビの音も聞こえない。

子どもの声もしない。

まるで、隣の部屋だけが切り取られてしまったかのようだった。

何かあったのだろうか。

私は玄関に向かい、そっとドアを開けた。

廊下は静まり返っていた。

隣のドアを見つめる。

表札はなかった。

けれど、そこに人が住んでいることは知っている。毎晩、あれだけの生活音が聞こえていたのだから。

私は隣のドアに近づいた。

「……大丈夫ですか?」

小さく声をかけてみた。

返事はなかった。

もう一度、ノックをした。

「すみません。何かあったんですか?」

やはり、何も聞こえない。

そのとき、さっきの悲鳴が頭の中によみがえった。

もし、本当に何か事件が起きていたら。

迷っている場合ではない気がした。

私は自室へ戻り、警察に電話をかけた。

警察が到着したのは、それから二十分ほど経ってからだった。

大家さんも呼ばれ、隣の部屋の前で話をしていた。

私は、自分が聞いたことを説明した。

言い争う声がして、物が落ちる音が聞こえたこと。ガラスが割れたような音のあと、女性の悲鳴が聞こえたこと。そして、突然、静かになったこと。

警察官は真剣な顔でうなずき、大家さんに鍵を開けるよう求めた。

私は、自分の部屋の前から、その様子を見守っていた。

大家さんが鍵を差し込み、ドアを開ける。

中を見た警察官が、少しだけ眉をひそめた。

「……誰もいませんね」

その言葉に、私は思わず聞き返した。

「え?」

警察官は部屋の中を確認していた。

そこには家具も、荷物もなかった。

窓の前には何も置かれておらず、部屋の隅にも、誰かが生活しているような気配はなかった。

大家さんは、不思議そうに私を振り返った。

「こちらは、しばらく空室なんですが……」

私は、言葉が出なかった。

「そんなはず、ありません。毎晩、隣から音が聞こえていたんです。テレビとか、食器の音とか、子どもの声も……」

大家さんは困ったように笑った。

「いや、でも、誰も住んでいませんよ。前の入居者が出てから、ずっと空いています」

私はもう一度、部屋の中を見た。

確かに、誰もいない。

争った跡も、割れたガラスも見当たらなかった。

床には、ところどころ薄く埃が積もっている。

人が暮らしている部屋には見えなかった。

警察官は、念のため周囲も確認してくれたが、何も見つからなかった。

「音がどこか別の部屋から聞こえた可能性もあります。しばらく様子を見て、また何かあれば連絡してください」

そう言われ、私はうなずくしかなかった。

警察も大家さんも帰っていった。

私は、自分の部屋に戻り、ドアを閉めた。

何かの聞き間違いだったのだろうか。

疲れていたのかもしれない。

テレビの音を、隣の部屋の音と勘違いしたのだろうか。

そう考えようとした。

けれど、あの悲鳴は、どうしても聞き間違いだとは思えなかった。


その夜は、なかなか眠れなかった。

布団に入っても、耳が隣の部屋を気にしてしまう。

何も聞こえない。

当然だ。あそこには誰も住んでいないのだから。

そう自分に言い聞かせ、目を閉じた。

しばらくして、ようやく眠りかけた頃だった。


コトン。


隣から、小さな音が聞こえた。

私は、目を開けた。

続いて、食器が触れ合う音。

テレビの音。

子どもの笑い声。

いつもの生活音が、壁の向こうから聞こえてきた。

私は、布団の中で身体を固くした。

さっき警察が確認した部屋には、何もなかった。

誰もいなかった。

それなのに、今、確かに聞こえている。

私はゆっくりと起き上がり、壁に耳を近づけた。

大人の話し声が聞こえる。

子どもが何かを尋ねる声。それに答える、女性の声。

まるで、いつもの夜が戻ってきたみたいだった。

そして、しばらくしたあと。

壁の向こうから、かすかな声が聞こえた。

「……ごめんね」

私は、息を止めた。

その声が、妙に耳に残った。

なぜだろう。

聞いたことのある声だった。

誰の声なのか、すぐには分からない。

ただ、自分が何気なく言葉をこぼしたときの声に、ひどく似ている気がした。

私は、壁から離れた。

その夜は、朝まで一睡もできなかった。


翌日、大家さんにもう一度、隣の部屋について尋ねた。

空室になってから、かなり時間が経っていること。前の入居者が出て以来、誰も住んでいないこと。最近、入居の問い合わせもないこと。

大家さんの話は、昨日と変わらなかった。

「何かの音が、別の部屋から伝わってきたんじゃないですかね」

私は、そうなのかもしれないと思おうとした。

それでも、その夜も音は聞こえた。

食器の音。テレビの音。子どもの笑い声。

そして、最後に、あの声。

「……ごめんね」

私は、もう壁を確かめようとは思わなかった。

聞こえるたびに、胸の奥が冷たくなっていく。

あの部屋は空室だ。

そこには、誰もいない。

それなのに、誰かが確かに暮らしている。

私は、日に日に眠れなくなっていった。

仕事中も、ふと、あの声を思い出すことがあった。

あの声は、本当に私の声に似ていたのだろうか。

それとも、怖い思いをしたせいで、そう感じているだけなのか。

考えれば考えるほど、分からなくなった。

結局、私は引っ越すことにした。

大家さんには、仕事の都合だと伝えた。

本当のことを話しても、きっと信じてもらえないと思ったからだ。

荷物をまとめている間も、隣からは生活音が聞こえていた。

もう、確かめる気にはなれなかった。

私は最後に一度だけ、壁を見つめた。

「……さようなら」

小さく呟いて、部屋を出た。


それから、何年も経った。

私は結婚し、夫と二人で暮らしていた。

結婚生活は、最初のうちは穏やかだった。

休日には一緒に買い物へ出かけ、夕食を作り、夜にはテレビを見ながら笑った。やがて子どもも生まれ、慌ただしくも幸せな日々が続いていった。

もちろん、喧嘩をすることもあった。

けれど、そのたびに話し合い、仲直りをしてきた。

私は、あの古いアパートで暮らしていた頃のことを、ほとんど思い出さなくなっていた。

あの音も、あの空室も。

ときどき夢に出てくることはあったが、目を覚ませば、もう忘れてしまっていた。

そんなある日、私たちは新しい住まいを探すことになった。

今まで暮らしていた家を離れ、別の場所へ引っ越すことになったのだ。

不動産屋に案内されたのは、駅から歩いて十分ほどの、新しいマンションだった。

外観は明るく、エントランスもきれいに整備されていた。

部屋を見せてもらい、夫はすぐに気に入った様子だった。

「ここ、いいんじゃない?」

私も、悪くないと思った。

窓からの眺めもよく、部屋の広さもちょうどよかった。

住所を確認して、私は少し驚いた。

以前住んでいた古いアパートがあった場所に、よく似ていたのだ。

「あれ、ここって……」

「どうしたの?」

夫が尋ねた。

「昔、この辺りにあったアパートに住んでいたことがあるの。もう建て替えられたみたいだけど」

「へえ、そうなんだ」

私は、間取り図を見た。

今回、私たちが借りる部屋は、102号室だった。

「私が住んでいたのは、たしか101号室だったな」

何気なく言うと、夫が笑った。

「じゃあ、隣みたいなものだね」

私は、思わず間取り図を見つめた。

101号室。

102号室。

数字がひとつ違うだけ。

それだけのことなのに、胸の奥に、何か小さな引っかかりが残った。

けれど、私はそれ以上考えないことにした。

古いアパートは、もうない。

今あるのは、新しく建てられたマンションだ。

あのときのこととは関係ない。

そう思った。

引っ越してから、しばらくは何事もなかった。

部屋は静かだった。

隣の部屋からは、普通の生活音が聞こえることもあったが、以前のように気になることはなかった。

私は、あの古いアパートで聞いた音のことを、すっかり忘れかけていた。

夫との生活も、順調だった。

子どもは大きくなり、毎日忙しく過ごしていた。

けれど、いつからか、少しずつ変化が生まれた。

仕事が忙しい夫は、帰りが遅くなる日が増えた。会話が減り、互いに疲れているせいか、ちょっとしたことで言い争うようになった。

最初は、すぐに仲直りできた。

でも、同じような喧嘩が何度も繰り返されるうちに、少しずつ、言葉が荒くなっていった。

以前なら笑って済ませられたことも、そうはいかなくなった。

その日も、きっかけは些細なことだった。

私は、夫が何度も同じ約束を破ったことを責めた。

夫は疲れた様子で、もういいだろうと話を切り上げようとした。

「いつもそうやって、話を終わらせるのね」

「もういいって言ってるだろ」

「よくないから話してるんでしょう?」

夫は深く息を吐いた。

「頼むから、もうやめてくれ」

その言葉が、私の中で何かを切った。

「やめてほしいのは、こっちよ」

声が大きくなった。

夫も声を荒らげた。

いつの間にか、テーブルの上にあったものが床に落ちていた。

ガラスが割れる音がした。

私は、もう何を言われたのか、よく覚えていない。

ただ、感情が抑えられなくなっていた。

手を伸ばした。

夫が短く叫んだ。

次の瞬間、重いものが床にぶつかる音がした。

私は、息を止めた。

部屋の中が、静かになった。

何も聞こえない。

私は、目の前の光景を見つめたまま、しばらく動けなかった。

そして、気づけば、口から小さな声がこぼれていた。

「……ごめんね」

その声を聞いた瞬間、私は凍りついた。

さっきまでの出来事とは別の何かが、頭の中で鮮明によみがえってきた。

ガラスの割れる音。

短い悲鳴。

重いものが床にぶつかる音。

そのあとの静寂。

そして、最後に聞こえた、あの声。

私は、ゆっくりと口元に手を当てた。

さっき、自分の口からこぼれた声が、耳の奥で蘇る。


あの夜、壁の向こうから聞こえた声と、よく似ていた。

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