9話 彼女の話4
「……駅前の喫茶店って」
声が、少し揺れた。頭の中で記憶を探る。
いつの雨の日?予定が狂って、仕方なく入った店かな?
ふっと記憶を掠める隣に座ってた、少し疲れた顔の人。
(……いた、かも?)
でもたった一回のほんの数分。そんな一瞬の出来事なんて……
「私、全然覚えてなくて」
正直に言うが胸が苦しくてぎゅっとする。
こんなに大事にされてたのに、自分は何も覚えてないなんて。
「覚えてなくて当然です」
彼は当たり前のようにそう言った。まったく責める色はない。
それが、余計に苦しい。
「僕が勝手に救われただけだから」
初めて見るオーナーさんのそんな顔。
いつも余裕で、穏やかで、完璧なオーナーの顔じゃない。
少しだけ不安そうで、少しだけ弱くって。
(……こんな顔するんだ)
なんか……ちょっと、可愛い。
心臓が大きく変な音を立てた。
重いよ。なんだか重いんだけど。
でも、ずっとそっと見守ってくれてたのも事実で。無理に踏み込まなかったのも事実で。
(怖いって思ったのは)
知らないからだ。
名前も。
年齢も。
この人がどんな時間を過ごしてきたのかも。
知ってるのは、コーヒーの味と、優しい視線だけ。
「……私」
座っていた椅子から降りると、カウンターに近づく。
「オーナーさんのこと、全然知らない」
彼が、わずかに目を上げる。
「だから、怖いって思ったのかも」
静かな店内はとっくに閉店してる時間。今は二人だけの空間。
私は呼吸を整えた。
「でも……知りたい」
もう一度深呼吸をする。
「知った上で、ちゃんと考えたい」
逃げない。逃げたくない。
彼の瞳が、ほんの少しだけ揺れる。
「……いいんですか」
少し掠れた低い声。私は、小さく笑った。
「うん、まずは」
こんな当たり前の事もやってなかったなんて。
「名前、教えてください」
一番最初にやらなきゃいけなかった。知らない人を知ってる人にする挨拶。
彼は一瞬だけ息を止め、それから、静かに笑う。
今までで一番、柔らかい顔。そして、ゆっくり名乗った。
「月白朔です」
初めて、“オーナーさん”じゃなくなる瞬間だ。
私も改めて名乗る。
「私、湖山澪です」
お互いの名前が空間に落ちる、ただそれだけなのに。
距離が、確かに縮まった気がした。
知らなかった人が、知っている人になる。
「コーヒー、もう一杯いります?」
彼が少しだけ照れ隠しみたいに言うものだから、私もつい笑ってしまう。
「じゃあ、名前で呼んでくれたら」
彼の目が、また少し揺れた。




