5話 慈悲。冷徹。豪胆。そして、個としての強さ ――セバス編――
私、チャン・セバスは、永きに渡りこのエゴイスト辺境伯家に仕えて参りました。
かつては王宮にて筆頭執事の座にあり、あるいは戦場にて軍師として大陸の地図を塗り替える一助を担っていたこともございます。
しかし、私の魂が真に求めていたのは、権力でも名声でもございません。
ただ、この命を懸けてお仕えするに相応しい「真の主君」に出会うこと。それだけでございました。
先代、そして先々代の主には、命を救われた大恩がございます。その御恩に報いるため、私は没落の影が忍び寄るこの辺境伯家に留まり続けて参りました。ですが、正直に告白いたしましょう。
若君――ユウ・エゴ・イースト様には、物足りなさを感じておりました。
若様は、あまりに優しく、あまりに脆い。人の顔色を窺い、常に何かに怯えているような……。
申し訳ないのですが、それは私が夢見た「主君」の器とは、程遠いものでございました。あまりに頼りなく、脆弱で、風に舞う木の葉のような若君――ユウ・エゴ・イースト様でした。
「若様の代で、この家も終わりかもしれんな……」
私は、窓の外を眺めながらそう独りごちるのを常としておりました。私の人生も、このまま静かに余生を終えるのだろう。そう、諦めていたのです。
あの日――若様が「覚醒」されるまでは。
「――セバス。……こんなものは下げてくれ」
食事中にユウさまが私に放った一言。
忘れもしません。あの日を境に、若様の瞳には底知れぬ深淵が宿りました。
無駄な挙動は消え失せ、その一挙手一投足には、大陸を統べる者だけが放つ圧倒的な威圧感が漂い始めたのです。
学園中の誰もが、若様を聖者だ、女たらしだと呼び、注目を集めております。ですが、側近中の側近であるこのセバスには分かります。
若様の本質は、そのような生温い言葉で表せるものではない。
あれは――すべてを灰に帰し、新たな理を創り上げる覇王のそれである、と。
私の物語は、そこから真に始まったのです。
◇
あの日、私はエゴイスト家が誇る最高の食材を揃え、晩餐会の準備をいたしました。
若様の回復を祝し、牛のフィレ肉にフォアグラを添え、トリュフの香りを纏わせた一皿。しかし、しかし、若様は食卓に着くや否や、並べられた料理を一瞥し、忌々しげに舌打ちをされたのです。
若様は、震える手でお皿を押し返されました。
その双眸には、深い憎しみ……いえ、世界に対する絶望のような色が宿っていました。そして、私の魂を揺さぶる言葉が紡がれたのです。
「――セバス。……こんなものは下げてくれ。……民の飢えを思えば、私だけが贅沢を享受することなどできない。……この一口が、彼らの一日を繋ぐかもしれないんだから」
「……っ!!」
私は、手に持っていた銀盆を落としそうになりました。
なんという……なんという深い慈愛か!
没落寸前の我が家の現状。そして、その外側に広がる貧しき民たちの生活。
ユウ様は、自らの空腹を耐え忍び、民と痛みを分かち合うことを選ばれた!
「若様……! 民を思うあまり、ご自身の健康を損ねては元も子もございません!」
「――構わない。俺の空腹なんて、この国の未来に比べれば小さなものさ」
私は物陰でハンカチを噛み締め、号泣いたしました。
ああ、これこそが上に立つ者が持つべき究極の慈悲。若様はあえて「不味い(家畜の餌)」と断じることで、贅沢に慣れきった自分自身を律しておられるのだ……!
◇
数日後。
我が家には長年、先代の縁故を傘に着て、まともに働きもせず給料だけを貪り食う不心得者の役人が数名おりました。
彼らは辺境伯家の財政を圧迫する、まさに「不良債権」とも呼ぶべき存在。
彼らはユウ様の「優しさ」を舐め、不敬な態度を隠そうともしませんでした。
以前のユウ様なら、それを見ても「仕方ないね」と微笑んでいたでしょう。
しかし、今の若様は違いました。
若様は、執務室で帳簿を捲りながら、その役人たちの名を指でなぞり、吐き捨てるように仰いました。
お
冷徹な死神のような眼差しで彼らを一瞥し、そして、その唇からは氷のような「福音」が漏れたのです。
「――腐敗の原因を放置することは、組織全体の壊滅を招く。……彼らは我が家の伝統という名の皮を被った寄生虫に過ぎない。……今、その鎖を断ち切ろう」
「……若様」
「今、この瞬間に断罪する。彼らの退職金をそのまま領民の救済資金へと回せ。異論は認めない」
……素晴らしい。
私は震えました。
情けをかけるのではなく、あえて追放という厳しい処置をとる。
それは、彼らを甘やかすことが結果的に彼らの魂を腐らせると見抜いての、冷徹にして完璧な判断!
情に流されず、未来のために膿を出す。その冷徹な判断力こそ、国を導く者に不可欠な資質でございます。
「畏まりました、若様! このセバス、直ちに清掃を完了させますぞ!」
膿を出し、新風を吹き込む。それは王宮の権力争いでもなかなか見られぬ、鮮やかな手際でした。
◇
極めつけは、先代から受け継がれたエゴイスト家に伝わる『黄金の鎧』を巡る一件です。
それはエゴイスト家の栄華の象徴。しかし、同時に維持費ばかりを食う「過去の遺物」でもありました。
ユウ様は、その鎧をゴミを掃くような動作で指差されました。
その瞳に宿るのは、一切の未練を捨てた「開拓者」の意志。
「――セバス。過去の栄光という名の鎖は、今の俺には不要だ。……すべてを売却し、未来の礎に変えよう。……形あるものはいつか壊れるが、俺が創る未来は永遠だ」
「おお……おおお……っ!!」
「……今の俺が守るべきは、死んだ先祖の鎧ではなく、これからを生きる民の命なのだから」
……ぬおおおぉぉん!
若様ぁぁぁあああ!
私はその場で号泣し、石床に頭を打ち付けんばかりに平伏いたしました。
伝統に縛られぬ自由な魂。そして、実利を重んじ未来を創る豪胆な決断力。
慈悲。冷徹。豪胆。
三つの資質が、若様の中で一つに溶け合い、まばゆいばかりの覇光を放っておりました。
ですが……ですが、あと一つ。
あと一つだけ、私が確かめねばならないことがございました。
それは、真の覇王に不可欠な個としての強さにございます。
若様。不肖セバス、この老骨の最後のお役目として……。
貴方様がその覇王としての器に足る強さをお持ちかどうか、この命を賭して、試させていただく所存ですぞ。
◇
「……若様。不肖セバス、この老骨の最後のお願いにございます」
私は燕尾服を脱ぎ捨て、地下の稽古場で若様を待ち受けました。
手に持つのは、刃を潰したとはいえ、一撃で岩を砕く使い込まれた模擬刀。
「……若様。……貴方の覇王としての器、私の刃で確かめさせていただきたい……!」
もし、ここで若様が逃げるようなことがあれば、私はそのまま腹を切るつもりでした。
ですが、若様は……あろうことか、私を見て「ニヤリ」と、邪悪なまでに美しい笑みを浮かべたのです。
「――いいぞ、セバス。……来いよ、早く起きたかいがある。」
おお……! おおぉ……!
なんと快諾されるとは! 私の決闘という無礼極まりない願い。
その裏にある「死の淵を知ることで、真の王として完成していただきたい」という真意を、若様は一瞬にして、呼吸をするよりも自然に悟られたのです!
「感謝に堪えませぬ、若様……! もはや言葉は不要。この一戦、終われば私はこの命を絶つ覚悟。いざ、参るッ!」
……さあ、始めましょう。私の魂が、歓喜で震えています――。
◇
激突は一瞬でございました。
私は、伝説の軍師として、そして最強の執事として、手加減などという無礼は一切いたしません。
若様の未熟な正眼の構えを、目にも留まらぬ踏み込みで粉砕し、峰打ちでその脇腹を、肩を、膝を叩きました。
「ぐ、ああぁっ!? まだだ……! おい、そんなものかセバス……ッ!」
若様は無様に転がり、土にまみれました。その姿は一見すれば、ただの無力な少年のよう。
しかし、土を噛み、屈辱に顔を歪める若様の瞳は諦めておりません。
これはもはや「稽古」などという生ぬるいものではありません。私がかつて仕えた王たちが、その座に座る前に必ず潜り抜けてきた「死の淵」――。
(……もし若様がこの試練を乗り越えられぬなら、私はその喉を突き、直後に自らも腹を切ろう。未熟な主君を死なせた報いとして、地獄の先導役を務めるのが執事の務めというもの)
バキッ、ドカッ。
何度も鈍い音が響くたび、若様の身体は稽古場の壁に叩きつけられます。
しかし、何度倒れても若様は立ち上がりました。その瞳には、かつての弱々しさは微塵もありません。代わりに宿り始めたのは、ギラギラとした、野獣のような凶暴な光――。
若様の体から、凄まじい殺気が噴き出しました。
その瞬間、周囲の空気が一変いたしました。
パニックと怒りが綯い交ぜになった、純粋にして獰猛な殺意。
それが私の肌を刺したとき、それは伝説の戦場ですら見たことのない、世界を震撼させる覇王のプレッシャーとなって私を圧したのです。
「……くっ、これほどの圧を放たれるとは……! 若様、素晴らしいッ!」
私がさらに踏み込んだその時、若様は騎士道では考えられぬ行動に出ました。
「――くらえっ!」
若様は床の砂を掴むなり、私の目に叩き込んできたのです。
視界が遮られた一瞬、私は歓喜に打ち震えました。
(……おお! なんという合理性! 騎士の誇り(慢心)などという不確かなものを即座に捨て去り、勝利のみに執着するこの果断さ! 砂の一粒さえも武器に変える、これぞ戦場の理!)
「なんと高潔な砂かけ……! 続いて何をなされる、若様!」
さらに、若様は自らの剣を私に向かって投げつけました。
「――とどめだ!」
視界を奪われた私に対し、若様は次に、己の得物である剣を投擲いたしました!
投げ放たれた鋼の軌道に、私は息を呑みました。
ヒュンと風を切る音。
私は反射的にそれを弾き飛ばしましたが、驚愕に目を見開きました。
剣聖が魂とも呼ぶ武器を、囮として迷わず投げ捨てる大胆不敵! 道具に依存せず、己の肉体そのものを最終兵器とする、形に囚われぬその発想!
「……っ、見事! ですが、武器を捨ててどうされるのです!」
私が剣を弾いた隙、若様は獣のように私に飛びかかり、その細い腕で私の首を――頸動脈を全力で絞めました。そして首元に熱い感触がじわじわと這い上がりました。
「――っ、はぁ……はぁ……、捕まえた、ぞ……!」
ぐ、ぐう……っ。
喉が鳴り、意識が遠のきます。若様の必死な形相が、夕日の赤に染まって見える。
命のやり取りにおいて、最も効率的な「急所」を迷わず突く非情さ。
私は意識が遠のく中、違う意味での勝利を確信しました。ああ、これこそが私の求めていた主だと――。
しかし、次の瞬間。
私の首を締め付けていた力が、ふっと緩んだのです。
「……あ、……あぁ、……はぁ……」
若様は、ガクガクと震える手で私を解放しました。
私は床に膝をつき、大きく酸素を吸い込みながら、若様の御足を見上げました。
……若様……。
咳き込みながら地に手をつく私を見つめる、若様の潤んだ瞳。
それは、私への怒りでも、勝利の悦悦でもございませんでした。
(……ああ。……あああ……。やはり若様は、慈愛の化身なのだ。トドメを刺せる絶好の機会に、あえて情けをかける。……配下の命を救おうとする無意識の優しさ……!)
若様の震える手は、私には殺生を忌む気高い魂の葛藤にしか見えませんでした。
「……若様。……見事、見事でございます。……このセバス、もはや思い残すことはございません……」
私は、若様の真実に触れ、生涯二度と味わえぬであろう最上の悦びに浸り、静かに目を閉じたのでした。
若様への度重なる無礼、真剣を腹に刺して切腹をするために。
今、この場で首を刎ねられても文句は言えぬほどの不敬を、私は働いたのですから。
その瞬間――
「――セバス。二度と、俺の前で命を粗末にするな」
その声は、大地を震わせるほどに深く、重厚に響きわたった。
「……っ!!」
「君には、俺が創る新たな世界の目撃者になってもらわなければならない。……お前の人生のすべてを、俺が買い取った。死ぬまで俺の傍で、その忠義を捧げ続けろ!」
「……っ!?」
その瞬間、私の視界は白濁し、心臓が爆発せんばかりに跳ね上がりました。
「……ああ、あああああ……っ!」
私という一個の人生を、その重みごと全て買い取ると仰った。
この御方は目撃者であれと命じられた。私という存在を、唯一無二のパートナーとして、その覇道の特等席に縛り付けたのです!
「……若……若様ぁぁぁ!! このセバス、死のその瞬間まで……いえ、死してなお、貴方様の影として寄り添い続けますぞ!! 貴方様の歩む覇道の影として、どこまでもお供いたしましょうぞぉぉぉぉ!!」
鼻水と涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、私は絶叫に近い誓いを立てました。
私は子供のように声を上げ、嗚咽を漏らしながら、若様の汚れた靴先に額を擦り付けました。
ユウ・エゴ・イースト。
この御方こそが、私の探し求めていた真の主。
「さあ、参りましょう若様。貴方様の『覇王への道』に相応しき、至高の環境を整えてみせましょうぞ!」
伝説の忠誠が、今、ここに結ばれたのです。




