その5 雨が降る日は天気も悪い
「ウォルターっ!!」
誰かが叫んでいる。どこかで聞き覚えのあるその声。声とともに何かに強く腕をつかまれた気がした。顔をあげると腕をつかんでいるのは、やはりマリオンだった。
向こう岸からまだだいぶあるのに、一体どうやってここにいるんだろう? いや、それよりいつのまにあの町からここへ、どうやって来たんだろう? そうか、もう魔法が使えるんだっけか? こんな近くにいたらカードが暴走しねぇかな? それにしてもこいつ、いつになく必死の顔をしてるな、などととりとめの無いことをすさまじい早さでぐるぐると考えていた。
「しっかりしろっ!」
耳元で再びマリオンが怒鳴っている。うるせぇな、気ぐらい失ってもいいだろ。はっきり目を開けると、腕をつかんでいるマリオンがすぐそばにいてその魔力が宿るという金色の左目が久々に見えた。そして、その後ろの大きな影は。視界のほとんどをさえぎる大きく広げた翼に獰猛な嘴、マリオンのとよく似た大きな金色の目。空の覇者、伝説の巨大な鷲。巨大さよりも獰猛さよりも、その翼を大きく広げた怖いほど美しい姿に、俺は一瞬見惚れた。
よく見ると、マリオンはその巨大な鷲の足にサッシュで自分を縛りつけているようだ。そこから身体を大きく乗り出して俺の腕をつかんでいる。今ごろ来やがって、という気もしないでもない。
「このまま飛んでいくから、気を失ってくれるなよ、ウォルター!」
有無を言わさずマリオンが大声で俺の思考をさえぎった。いつになく真剣な口調とまなざし。そうはいうけど今ごろになって俺は気が遠くなってきた。その前に言いたいことはしっかり言うぞ。
「うるせぇんだよ、この薄情者! 無責任魔術師め!」
そのあとも思いつく限りの罵詈雑言を並べて、どうやら俺は本当に意識を手放した。
最初に思ったのは、さらさらに乾いた清潔なリネンの感触が心地いい、だった。
穏やかに鼻腔をくすぐるのは、花の香りだろうか。どこだっけ、と思ってはっとする。落ちたんだよな、俺。助かったんだよな、たぶん。ここがどこか考える気も起きない。あの亀裂の底へ落ちてなきゃどうでもいいんだ。
思考はいまだに停止中だ。誰も俺を起こすな。目を開けるのがもったいない。瞼の裏にはすでに柔らかな光を感じていたけれど。
「ウォルター様。起きていらっしゃるのでしょう?」
光と同じくらい柔らかで暖かい女性の声に、俺はあせって目を開けた。視線の先に白い衣を纏った美女が座っていて微笑みながらこちらを見ている。
「なんだ、あんた、だれだ?」
気持ちいいところを起こされた不機嫌さと多少の照れもあってか、ことさら口調がきつくなった。
美女に向かってなんたる失礼な発言だ、と自分で突っ込む。せっかく常日頃縁の無い「様」までつけてもらったというのに。こんな美女に対してもうちっと言いようがあるだろう、お前、と自分で突っ込みつつゆっくりと起き上がった。
俺が着ていたものは白のゆるやかなローブだけだ。下着すらはいてない。いつ誰が着替えさせてくれたのか、考えると怖いのでやめておく。
しかし、そのさらりとした布地の感触は果てしなく気持ちいい。体中がきしんでいるかと思ったが、腹が減ってるだけでどこにも不都合なところは無かった。だがきっと、眉根にはしわがよって目つきが悪くなっているだろう。そっちの気分はあんまりよいとはいえない。
そんなことに動じた風も無い美女は、さらに妖艶に微笑んだ。
「わたくしはオパールと申します。ウォルター様のお世話を任されたものです」
柔らかい声が色っぽい。ついでに体つきも。
「あんたがここの主じゃないんだな?」
じろりと美女の全身を眺めた。透明な白い肌、切れ長の薄い水色の瞳、腰までありそうな癖の無いまっすぐなプラチナブロンド、白の薄いドレスではとうてい隠しきれないはちきれそうな胸と細くくびれた腰。オパールと名乗った美女は艶っぽい声でさらにこう続けた。
「主はクリスタルと申します。ウォルター様が目覚めるのをお待ちいたしております」
なんでだ? もう用はすんだだろう、と思う。もうカードは渡せたはずだ。しょうがない、ここの主のご機嫌伺いでもしておこうか。と、ベッドから降りようとしたとき、俺はあいかわらず胸に下がったままの太陽のカードの袋に気がつき、仰天した。シャツの隠しから、いつの間にか移動している。わざわざ誰かが、これを俺の首にかけ直したってことだ。
「何故これがまだここにあるんだ?」
思わずでかい声をだしてしまった。
美女が優雅に立ち上がり、つと俺に近寄ってきた。いい香りがしてうっとりする。よくみるとこの美女、影が薄い。この美女には普通の人間のような濃い影がなかった。光のほとんどが透過しているように見える。淡い水色の影だけがほんのりと彼女にさしている。
まぁ、この山にいるんだから人間ではないとは思っていたが。そこまで考えた時、彼女があのアイゼンフラウの噂の四つ目だとふいに気づいた。
「そのカードに気に入られたようでございますね、ウォルター様」
見上げるとオパールはそういいながらにこりと微笑んだ。
「気に入られた? あの気まぐれなカードに? なんで?」
少し声が震えているのが自分でもわかった。癪に障る。
透明な美女がうなずいた。
「カード自体が離れたがらなかったので、我主もマリオン様も、ウォルター様から無理にはずすのはやめたのでございます」
呆然としている俺にむかってまたうなずくと、オパールは先にたって浴室に案内してくれた。白い大理石の広い浴室にはすでにうっすらと湯気がこもっている。何人か泳げそうなくらい広い浴槽には端から小さな滝が落ち、たえず新しいお湯になるように縁からゆっくりとあふれ流れ出ていた。ほのかに花の香りがする。
「このお湯につかると、疲れも抜けます。お着替えはこちらへ用意しておきましたので。もしお望みなら、わたくしがお流しいたしますけれど、いかがいたしましょうか?」
オパールが悪戯っぽく笑い、俺はちょっと憮然としながら、いらねぇと断った。オパールはにっこりと笑い、では食事の支度をしてまいります、と告げて部屋を出ていった。
一人浴室に残された俺は、ローブを脱ぎ捨てた。重みに気づいて胸に下がったカードの袋に手をやる。だが、はずすのはためらわれた。俺の身から離してもいいものかわからない。考えても仕方がないので、結局そのまま湯につかることにする。頭から被っていたはずの泥は、すでに起きた時点でどこにもなく、顔も手足も綺麗にはなっていたが、自分の知らないところで綺麗にされるのと、お湯に自らつかって汚れを流すのはまた別だ。お湯につかると、だいぶ気分もよくなり、頭も身体もすっきりと目覚めた。気持ちよくなったところで胸のカードの袋に目をやった。不思議なことに袋はまるで濡れていない。
「カードに気に入られた、か」
指で鎖をつまみ、目の高さに上げてみた。特に変わった様子はない。湯を出てオパールが示した服に着替えた。どれもこれも俺に縁のない上質なものだ。
「無事でよかったね、ウォルター」
突然、後ろから声がかけられた。振り向くまでもなく誰の声だかわかっている。俺は上着を手にとったまま、ことさらゆっくりと振り向いた。
「これはこれは、薄情魔術師殿」
マリオンは顔をしかめた。
「ひどいなぁ、その物言い。僕はちゃんと間に合っただろう」
マリオンは口を尖らせた。ため息をついて、逆らうのはやめた。確かにね、間に合ったさ。ぎりぎりでな。
「さぁ、機嫌なおして、こっちにおいでよ。みんなで食事にしようよ。クリスタルも待ってるし」
マリオンが戸口で手招きをした。浴室を出ると、部屋の様子をはじめて観察する余裕ができた。見上げると、くらくらするほど天井が高い。いや、それよりもそもそも天井自体があるのだろうか。
目には自信がある俺でも、どこまでが壁でどこまでが天井かわからない。あの水滴の中にいるとしたら、天井は球形になっているんだろう。両側には透明で水晶のような煌きをもった壁が、何処までも高く上に続いている。影が美しい水の色をしていた。
通常の二倍ほどもありそうな大きい入り口には扉がなかった。淡い色彩の光が入り口をカーテンのように覆い、扉の代わりをしているようだ。扉から外の様子は見えない。たぶん逆もそうだろう。どんな構造になっているのか頭を悩ませるのはやめた。マリオンの後について通り抜ける時、微かに柔らかな抵抗を感じた。だが、決して不快ではない。ただ不思議な通り心地がする。興味を引かれて振り返ってみると、やはり外から中は覗けないようになっていた。扉を抜けるとさらにもうひとつの扉があって、そちらはさっきとは色の違う翡翠色の光のカーテンがかかっていた。
「こちらでお待ちです」
オパールが俺の後ろで控えめに告げる。ここを抜けると、クリスタルとか言うここの主に会えるわけだ。どんな美女だろう? おつきのパールでさえすごい美女なんだから、主ともなればまともに見られないほどのすごい美形かな?
少し緊張しながら扉を抜けると、そこには鏡のように磨きぬかれた床がどこまでも続く広大な広間が待っていた。一瞬、足が止まる。広間、というにはあまりにも広すぎるかもしれない。遠く向こうの端は霞んでいる。端まで行くには馬でもないとたどりつけない、というのが冗談ではないかもしれない。
だが、俺はその広さよりも、広間の空間に浮かぶ美しい球に目を奪われた。しんと静まり返った広間の中央には、直径が百ヤード以上もありそうな美しい丸い水晶のようなものが、蒼白い光を放ちながらゆっくりゆっくり回っている。表面にはいろいろな形の模様が白く浮き上がっていて、それぞれが煌いていた。遠目にもそれがたくさんの種類の花の形、木の形、鳥の形、虫の形、動物の形、魚の形とさまざまな自然のものを形作っているのがわかった。その白金の模様自体が独自の美しさを持っている。それは形の整った美しさとかそういうものではなく、今にも動き出しそうな生命のあふれる輝きとしての美しさだった。
その巨大な球体はゆっくりと回ってはいるが、この建物――といっていいのかどうか――と同様に支え手がどこにも見えない。独りで宙に浮いて静かに回っている。もしかしたらあれがマリオンの言っていた地天球儀というものだろうか。目を凝らすとその澄みきった球の中には三分の二ほど水のような透明な流体が入っているのが見えた。水は球が回るリズムにあわせて緩やかにたゆたっている。時々表面の白い模様が光るのにつれて水も七色の煌きをあたりにこぼしていく。鏡のような床にそれは反射し、さらに光をあたり一面に広げていった。それは目に痛いまぶしさではなく、どこか懐かしい優しい光だった。まるで一面の真っ白な雪が太陽に輝くような、凪いだ海に青い空が反射したときのような若葉に緑の風が透けたような・・・・・・。
俺の周りをさわやかな風が通り抜けていく。俺はそのあまりの美しさに、球体のそばへ駆け寄ってみたい衝動にかられた。だがそうは思うものの、心と裏腹に足は動かない。広間のなめらかな床に縫いとめられてしまったように。
「どうじゃ、美しかろ?」
俺はしばらくぽかんと口をあけてきっと呆けていたに違いない。その聞き覚えのない声を聞いても不思議にも思わず、ただ素直にうなずいていた。
「この世界もまだまだ捨てたもんでもあるまいて」
満足そうな声にやっと驚いて、声のした自分の足元のほうへ視線を落とす。俺のやっと腰まで届くかどうかのところに、俺を見上げて満足そうににんまり笑う白髪頭に長い顎ひげを生やしたじいさんの顔が見えた。
「どうじゃウォルター。お前さんの住むこの世界は美しかろ?」
じいさんは短い両腕を精一杯広げて、球体を包み込むようなしぐさをしながら俺を見上げた。
「俺の住む世界?」
じいさんは小さな子供のように嬉しそうにくすくすと笑いながら、ひょいと顔の前に人差し指を立てて見せた。
「秘密の話じゃ。秘密のな」
俺はじいさんのほうへ腰をかがめた。じいさんが、そうしてほしそうに見えたからだ。俺がそうすると、じいさんはますます嬉しそうに声を立てて笑った。
「勘がよいの、ウォルター」
マリオンが苦笑しているのが目の端に入った。まぁ今更、秘密の話も何もないもんだよな。だが、じいさんはかまう風もなく自分と同じくらいの高さになった俺の耳に小さな手をあてて囁いた。
「あれはな、お前さんの住んでいる世界と同じ物でできておるのじゃ」
え? 俺は声をださずに目だけ見開いてみせる。
「だからあれは、お前さんの世界そのものといってもよいのじゃよ。どこかに小さいウォルター・ディバイスもおるかもしれんぞ」
おいおい、じいさん。冗談は髭だけにしてくれ。
「ついでにいうとな、あれを壊せばお前さんの世界は全部壊れるぞ?」
「えっ!?」
思わず声が出る。
「秘密の話じゃ。秘密のな」
じいさんは悪戯っぽく器用にウィンクして見せたが、俺はかがみ込んだまま、がっくり脱力した。それは全然、冗談には聞こえなかったからだ。
「大丈夫、壊れないよ、そう簡単には。もういいだろ、クリスタル。ウォルターが困ってるよ」
マリオンが声をかけてきた。え? クリスタルって? このじいさんがここの主か? 名前がまるきり似合わねぇぞ。再び、俺は脱力した。そんな俺にはお構いなしに、じいさんは天真爛漫な笑顔を俺とマリオンに交互に向けた。
「なんのこれしきで、このウォルターがまいるもんかいの。あのウェルカムロードを、ものともせんかったやつじゃ」
「ウェルカムロード?」
脱力したまま思わずつぶやく。アイゼンフラウの山道、いや、あの亀裂を二分する細道のことか? マリオンが再び苦笑していたが、俺が物問いたげな目をで見たので追求を避けるように俯き、金の巻き毛で顔を隠した。
「あそこにはな、ルーン文字で『ウェルカム』って書いてあるんじゃよ。気がつかんかったか?」
得意げにじいさん、いやクリスタルが種明かしした。俺はあっけにとられた。
「来たれ我山へ。ようこそ!とな。なかなか粋じゃろ?」
どうりで無駄にぐねぐねと・・・・・・。ってこら、じじぃ、いったいどこが粋なんだよ。俺がどれだけ苦労したのかわかってんのか? 俺の剣呑な表情に気がついたのか、マリオンが咳払いをした。
「とりあえず、紹介くらいはしたほうがいいよね。ええと、こちらがこのアイゼンフラウと地天球儀の主、『クリスタル』殿」
「そうじゃ、わしがクリスタルじゃ」
短躯でふんぞりかえってにこにこ笑うじいさんに、思わず俺もひきつった笑いを浮かべてしまう。どうしても憎めない。愛らしいとまでは言わないが、なかなか愛嬌があるじいさん、いやクリスタル殿だ。
「こちらが僕の友人、ウォルター・ディバイス」
友人だと? いつのまにそんなものになったんだよ。だいたいあれが友人に対する仕打ちか? マリオンを横目で睨むが、やつはそれに気づかぬふりをしている。ほっほ、とクリスタルじいさんが笑って俺にウィンクした。
「そしてこちらが『嘘つきで薄情者で無責任な魔術師マリオン殿』じゃ」
「クリスタルーっ!」
マリオンが白い頬を上気させ、笑い転げるクリスタルじいさんにせまった。じいさんが言った言葉は気を失う寸前に、俺がマリオンに言ったことそのままじゃないか。
じいさんはさも愉快そうにマリオンの周りをぴょんぴょん飛びはねながら、「嘘つきな薄情者ー」と、何度も繰り返し、マリオンはますます拗ねた顔になっていく。じいさんがあんまり陽気にからかっているもんだから、「魔術師を怒らすな」という規律を破って俺は思わず吹き出していた。
「だからー、ウェルカムロードに着く前にちゃんと合流するはずだったんだよ。 会えるはずだったんだ」
マリオンが心外だとばかりに、さっきから熱弁を振るっている。
どうやら俺が意識を失っている間に、一晩以上たっていたらしい。俺たちは、いま地天球儀からさほど離れていないところで遅い昼飯をとっている。
といっても、まるでピクニックにでも行ったときみたいに床に敷物をしいて、その上にオパールが用意した食事を大量に並べただけだ。食卓はあっさりしているが、そこに並べられた料理はうまい。まるで気持ちのいい高原で本当にピクニックしているかのようだ。広大な広間にはどこからかずっと爽やかで優しい風が吹いているのだ。クリスタルじいさんはほっほと笑いながら赤葡萄酒を飲み、俺は料理を端から平らげている。マリオンは言い訳になるから嫌なんだけど、といいながら何も食わずに今までの経緯を一所懸命、俺に話しているところだ。料理を片付けるのに忙しい俺は、合いの手を入れる余裕もない。
「宿屋で人気のないところへいったん飛ぶつもりで魔法を使ったら、グラウフルゼンまで行っちゃって。そこで知り合いの魔術師に馬を借りて戻ってみたら、ウォルターはすでに山に登り始めていたんだ」
さすがに素人相手に攻撃魔法は使わなかったか。しかし、グラウフルゼンねぇ。そいつはまたすごいや。宿からゆうに四十リーグ――200キロ――は離れてる東方の町だ。 俺の単純計算は合ってたわけだよな。いくら大魔術師様でも普通ならそんな長い距離は飛べない――と思う――。やはり、魔法を使うには太陽のカードが近すぎたらしい。まぁ宿屋ごと移動したわけじゃないから、被害としては軽いほうだったのだろう。
「大体、あんなとこを大雨の夜に歩こうとするなんて思わないじゃないか。町の酒場で君を麓へ送っていったって人の話を聞いたときには驚いたなんてもんじゃなかったよ。 夜の間くらいは絶対どこかで休んでいるはずだと思って、宿屋や酒場を捜してたのに、すでにアイゼンフラウに登ってたなんて」
しまいにはマリオンはため息をつくと、恨めしそうな顔で俺を見た。
「休んでいたところで雨がやむわけもなし、歩かなきゃどこにも行きつかねぇだろ。ただ黙って待ってるのは俺の性にあわねぇんだ。 それにあれは契約したんだから『俺の仕事』だったしな。」
ようやく料理のあらかたを食って余裕が出来た俺が言うと、クリスタルじいさんがまた笑った。
「そういうところが太陽のカードに気に入られたんじゃろ」
じいさんの言葉にどきりとする。そういや、まだ胸にはカードが下がっていたんだっけ。
「このカード、どうすればいいんだ」
おそるおそる下げていた袋を引き出してみた。
「出して見たかの?そのカード」
じいさんの言葉に俺は首を横に振った。
「えーと、事情があって袋を替えるために一度出したけど、全然見る余裕なんてなかったよ」
じいさんは、おもしろそうにマリオンを見た。
「なんかやりおったか? このカード」
マリオンは、少し眉をひそめたまま、自嘲気味にふっと笑って俺を見た。
「そう、だいぶね。 出してみたら? ウォルター。ここでなら悪さもしないし、もしものときは僕は魔法が使える」
俺は、丁寧に袋をあけてゆっくりカードをつまみ出してみた。初めてじっくり見るカードは、暖かな金色をしていた。表側には太陽のレリーフが彫ってあり、それがでこぼこの正体だった。土台部分は半インチほどの厚みがあって、素材がつや消しを施した金のせいか金属なのにぽってりと柔らかい感じで持ち重りがする。裏を返すと、俺には読めない美しい書体で文字が彫ってあった。
「古代ルーン文字で『美しく輝けるもの』と書いてあるんだよ」
マリオンが教えてくれる。
「美しく輝けるもの。そうか、それが太陽か」
俺がつぶやくと、それに答えたかのようにふいにカードが輝き、暖かく熱を帯びはじめた。
「ほっ、やはりこのカード、ウォルターが気に入っているらしいぞ」
クリスタルじいさんが嬉しそうに笑う。
あまりに眩しくて、それでもカードを手から離せなくて、俺は腕を精一杯伸ばした。俺の指先につままれたまま、カードはどんどん白熱していく。指先はもちろん、顔も熱くなる。だが持っていられないほどではない。そのかわり光は強くなっていき、眩しさがどんどん増していった。かるく閉じた瞼の裏が赤から次第に明るい橙色、さらに黄色から黄金へと変化していく。カードを持っていないほうの腕で顔を隠して、俺はそれに耐えた。
「これはどうすればいいんだよ? あの地天球儀へ差し込むのか?」
クリスタルじいさんが、誇らしげに短い腕をまっすぐ上へあげて天を差した。
「上を見ろ、ウォルター。そこがそのカードの居場所じゃ」
天を見上げる。地天球儀の上には、この建物自体の天井があるはずだった。だが、いまその天井は、すでに宙――そら――に変わっていた。
いったいどういう造りになっているのだろう。下方は夏の空色、やや上方に向かってラベンダーの黄昏、やがて漆黒の闇に染まる遥かな高み。 終わりのない深い宙と全天に散りばめられた星々。しかしそこには真珠色の薄い雲がかかっているように見えた。星々よりも鮮明に光る細い銀の糸が天頂部から幾筋も尾を引いて流れている。
「外はまだ雨が降っておるのじゃ」
クリスタルじいさんが俺が見たものを正確に読み取った。流星かと思ったが、よくみるとそれは丸い天井にあたり滑り落ちてくる水滴、雨だったのだ。
「太陽のカードにひびが入っておるのでな。雨のカードががんばっておるのだ。力というものはうまく拮抗しなければならん。バランスが崩れるとすべてが狂いおる」
クリスタルじいさんは、つま先立ちをするとその短い腕をひょいっと自分の頭上へ軽く振った。その腕が顔の前へ戻されたとき、そのしわだらけの手にはくすんだ金色のぼろぼろのカードが一枚、握られていた。
今、どこからどうやってそのカードを取り出したのだろう? あの高い天に、じいさんの腕が届くはずもない。
「これがひびの入った古い太陽のカードじゃ。マリオンがあんな無茶せんかったらまだ元気だったものを」
「人聞きが悪いな、クリスタル。僕のせいじゃないぞ」
マリオンが顔をしかめて抗議した。
「お前さんでなければ誰じゃというんじゃ? 光の回廊を通るのに何が何でもカードの力が必要だとごり押ししたじゃろが」
「あれは僕が通りたかったわけじゃない。黒龍が大きすぎてあそこを通らざるを得なかったんだよ。それにカードを使えといったのも僕じゃないよ」
どうやら、何か事件があってその際に使用した魔法が元でカードにひびがはいったらしい、 というのだけはわかった。他のこと――光の回廊だの黒龍だの――は俺の関知するところではない。というより関知したくない。
「なるほど」
俺の小さな呟きを聞き取って
「なるほどってなにがだい?」
と、振り向いたマリオンが尋ねた。
「自分が元凶だから太陽のカードが壊れたわけを話したがらなかったってわけだ」
俺はにやりと笑ってみせた。
「む……、だから僕じゃないって言ってるのに」
憮然とするマリオンを見て、くくくっとクリスタルじいさんが笑いながら言った。
「まぁ、おおかたそんなとこじゃろ。だが、その話はあとにせい。ウォルター、そのカードを高く天へ向かって突き出せ。そろそろ限界じゃ」
「こうか?」
言われたとおりできうる限り背伸びをし、腕を伸ばせるだけ伸ばし、俺はカードを高く宙へ向かって掲げた。自分の腕からずいっと何かが抜け出るような、宙へ飛ぼうとするような感覚が俺の中に沸き起こる。ふいに何フィート分も背が高く伸びたような不思議な感じがしてきた。体が天へ勝手に上昇しようとしている。
「今じゃ。カードを離せ、ウォルター」
カードを固く握り締めていた指先を静かに離してみる。俺の指が全部離れてしまっても、カードは落ちずにそのまま宙にしばしとどまっていた。金色の輝きはいまや白金となり、眩しくて俺は直接カードが見られなかった。腕で顔をかばいながら後退りする。
やがてカードは、白金の光の塊となって尾を引きながら勢いよく天へ向かって吸い込まれていった。しばしの沈黙。誰も何も言わず、何も起きない。
「なかなか着かんのぅ?」
ややあって、クリスタルじいさんが片手を額に当てて上を見上げながらのんびりとした声を出した。
「そろそろ着くよ」
同じく見上げていたマリオンが言うのと、閃光が巨大な広間を真っ白に染めるのがほぼ同時だった。あまりの眩しさに俺は両手で顔を覆い、膝をついた。目を開けると、あたりの様子が一変していた。
緑の木々、風にそよぐ草原、鳥がさえずり、花々が咲き乱れる。甘い香りと緑の香り。澄んだ清涼な空気が肺に吸い込まれる。静かだったはずの広間に、微かに聞こえるたくさんの自然の音色。広間はさっきよりずっと明るい。強くまっすぐな陽射し。地天球儀も前よりずっと青い。吸い込まれそうな夏の海の色。そんな幻があたりに漂った。そう、たぶんそれは幻。太陽のカードが見せてくれた一瞬の夏の記憶。やがて夏の幻は静かに薄れていった。
「よしよし、これで終わりじゃ、ウォルター」
満足そうにクリスタルじいさんがうなずき、俺はため息をついた。
「これで仕事は終わりだね。約束のものを払うよ、ウォルター」
マリオンがにっこり笑って、金貨の入ったずっしりと重い袋を手渡してくれた。
「ここまで着てきた服も返してくれ」
受け取って中身を確認しながら俺がいうと、マリオンは肩をすくめた。
「ああ、わかった。でもそれも似合うのに」
と、残念そうに付け加えた。くれると言うなら町で売っぱらうよ。だが、着る気はないぞ。
「帰りはあの大鷲で送っていくからね」
「まぁゆっくりしていくんじゃな」
と、言う魔術師殿とクリスタルじいさんに礼を言う。
と、その時。 ばきーん。
高く鋭い音が、あたりに響き渡った。クリスタルじいさんとマリオンの顔が固まる。
「今のあれは、まさか?」
訳がわからないが、二人の様子に俺も緊張する。
「どれ?」
顔をしかめたマリオンが天を仰ぐ。
「きまっとるわい」
じいさんが珍しく渋い顔をしている。
「・・・・・・雨のカードか」
いやいや、という感じでマリオンが口にする。
「今度は雨のカードがこわれたのかい?」
おそるおそる口にしてみる。 クリスタルじいさんはうんうん、とうなずいた。
「ひびが入ったようじゃな。何事もバランスじゃ。今回、雨のカードはだいぶ無理したわけじゃからな。しょうがあるまいよ。責任を持ってマリオンが作り直すじゃろ」
じいさんが後半の発言に力をこめ、はーっとマリオンがため息をついた。
「責任は僕なの?」
「そう、責任は『僕』じゃ。大方、お前さんの作ったカードが強すぎたんじゃろ」
うむうむ、とクリスタルじいさんが重々しくうなずいて見せた。
「水の魔術師殿なんだし、雨のカードなら、ふた月もあれば作れるじゃろ?」
「・・・・・・まぁね」
うんざりといった風に、マリオンが小さくうなずく。
「作るのはいいんだけど、それをここまで運ぶのがなぁ。魔法が使えないと、ものすごくいらいらして疲れるんだよね」
そうだろうともさ。見てりゃわかるよ。そこでマリオンの視線がこちらへ向いたのを感じる。おいおい。やな予感がするぜ。
「ねぇ、ウォルター。悪いんだけどさ」
聞こえない、聞こえないぞ。
「ふた月後に僕のところへきて」
なんにも聞こえない。
「カードをここへ運んでくれるかな?」
冗談じゃねぇぞ。
「百五十でどうかな?」
自分で運べ。
「帰り道、ウェルカムロードを自力で歩いて逆戻りってのはいやだよね?」
はぁ? それは脅しか?
「ふざけんな。やなこった」
マリオンは、肩をすくめた。
「じゃあ、しかたないな、ギルドに話を通しておくよ。百五十っていったけど、もっと安く済むだろうしねぇ」
ギルドを通したら、安くなった上にさらに仲介料を取られるじゃねぇか。やるこた一緒なのに。
「なんだよ、それ。ふざけんな。なら俺に百五十よこせや」
「ありがとう! ウォルター!」
満面の笑みで答えられ、しまったと臍を噛むがもう遅い。
なんだか俺と雨の日ってのは、相性が悪いのかな? 雨が降る日は、天気ばかりかあんまり運もよくない。
「大丈夫だよ。今度は雨は降らないから」
がっくりきている俺に、マリオンが心のこもらない慰めをくれる。
それで? 真冬に真夏並みに太陽カンカン照りの埃っぽい山道を歩くのか? 乾燥しきってひび割れて、端っこがぼろぼろのウェルカムロードを歩くのか? やめてくれー!
【ささやかなエピローグ】
「そういえば、ウォルター。オウロラって魔女の卵がいただろ?」
と、マリオンが首を傾げた。どきりとする。忘れてた。
「君を迎えに行く途中で、彼女が木に引っかかってるのを見かけたから、助けて下におろしたんだけどさ」
おお、助かってたか、ちょっとほっとする。よかったな、三流魔術師。
「事情を聴いてる暇はなくて。代わりに『あんたの相棒に――君のことだよね?――今度会ったら覚えとけって言っといてよ』って伝言を預かったけど。君、いったい何したの、ウォルター」
……もう二度と、あいつに会わないことを心の底から祈る!
END




