その4 落ちる!
視線の先にいたのは、どうやって追いついたのかあの三流魔女、オウロラだった。
雨で派手な化粧はほとんど剥げ落ち、着ているマントやスカートもどろどろだ。それなのに、尊大な口調は変わらないのにだけは感心した。
「なんとかできるならとっくにしてるに決まってんだろ。お前こそ、魔女なんだからなんとかすりゃいいだろうが」
あおってから、しまったと思った。魔法を使ったら、カードが暴走する。
だが、そんな心配は要らなかった。
「そんなもん、あたしだってとっくにやってるっての! とっくにやったよ、雨を止ませる魔法を! でもできないんだってば」
どうやらすでに試してみてだめだったらしい。
それはそうか。雨が降っているのは雨雲があるせいではなく、たぶん創始の魔法がぶっ飛んでるせいだから、普通の魔法じゃ効かないよな。
「はぁ? お前、魔女なんだろうが」
安心して俺がからかうと、オウロラは癇癪を起こしてばしばしと音を立てて泥の道を踏み鳴らした。叫びながら、両腕をぶん回す。元気だなーと、また感心した。
「失敗したことがなかったのにできないの!」
丸めの輪郭と物言いからすると、どうもこいつは最初に俺が思ったより若いようだ。ほんとは、まだ少女といってもいい感じの年頃なんじゃないだろうか。それとも魔力を持つ者は、加齢が緩やかになるってあれか? でも、どう見ても態度もこどもっぽい。
「マリオンに向かってあんな生意気な口をきいときながら、役に立たない魔女だな、あんた。やつが誰だか知らんのか」
やな奴相手には、ついつい挑発的な口をきいてしまうのが、俺の悪い癖かも。
オウロラは腕を振りまわすのをやめて、きょとんとした顔になった。
「なに言ってんの、なによ、あのきどった優男のどこが偉いってのよ。そりゃ、見た目よりは喧嘩は強いかもしれないけどさ」
大魔術師もかたなしだな。思わず吹きそうになるが、むくれたオウロラににらまれた。
「なぁお前さ、魔術師のマリオンて聞いたことないわけ? 魔女なのに。同業者だろ」
「はぁ? 誰よ、それ」
オウロラは首をかしげる。それからしばらく考えて、何か思い当たったように目を大きく見開いた。
「じょ、冗談でしょ? あれがそうだっての? 女名前で半分魔族で、そんで湖を干上がらせたり城とか砂に変えちゃうって、あれが?」
大魔術師がアレ呼ばわりかい。まぁ面白いからいいけど。
俺が笑いをこらえてうむ、と重々しくうなずいて見せると、オウロラはべしゃっと音を立ててその場にへたりこんだ。ようやく、誰に喧嘩を売ったのかわかったようだ。
「詐欺じゃない、あんな軽いやつ。しかも若いじゃない、噂より。もっとこうなんていうか、すんごい爺さんで、どっしりと貫禄があんのかと思ってた」
俺はとうとう我慢できずに吹き出した。マリオンに聞かせてやりたいぞ。
ぎゃはぎゃは声をたてて笑う俺を見て、オウロラは恨めしそうな顔をした。
「早く言ってよ」
「まぁ、やつが軽いってのは俺も認めるけど。若いのは、魔力がその分強い証拠だろ。それにあんたが魔女なら、やつの魔力の気配くらい読めるもんじゃないのか?」
オウロラはへたりこんだまま、頭を左右にぶんぶん振った。
「読めなかったよ。ぜんぜん感じなかった、魔術師には見えないくらい」
それからオウロラは、きっと顔をあげた。
「ってことは嘘なんじゃないの、その話。そもそも魔術師じゃないんでしょ、あいつ」
「疑り深いな、嘘なもんか。だってお前、宿屋でマリオンが魔法の呪文唱えてたの聞いてたんだろ?」
そうとしか考えられない。あの場から走って去ったのは俺だけで、オウロラはあの場に残っていたはずだ。案の定、オウロラは、あっという顔になった。
「そうか、そうだった。それであたし、ここにいるんだった」
「宿屋はどうなった? やつはいったい何の呪文を唱えたんだよ」
オウロラは、かぶりを振った。
「宿がどうなったかはわかんないよ。移動の呪文に聞こえたけど、普通のとちょっと違ってた」
「移動の呪文?」
「そう。だから、あたし、自分も移動の呪文を唱えたの。あいつが宿の外へ出て行くなら、追っかけていこうと思って」
魔術師の瞬間移動呪文では、そもそもそんなに長い距離は飛べないものらしい。前に一流と呼ばれる魔術師で百ヤード(約90メートル)くらいだ、と聞いたことがある。ってことは、並の魔術師なら三十から五十くらい飛べたらいいほうだろう。それ以上の距離を魔法で移動するためには、別の長い呪文と、それなりの準備が必要なんだそうだ。
「ありえないよ。いつもなら、あたし十ヤード飛べればいいほうだもん。なのに気がついたら、北大門の前にいたんだよ」
なんと、こいつもカードの影響を受けたんだな。ってことは、マリオンもカードの影響を受けたんだろうな。さて、どこまですっ飛んで行っちゃったかね? ちょっと不安になる。単純計算すれば、百ヤード飛べるやつは十ヤード飛べるやつの十倍の距離行っちゃうわけで……。この小娘が四リーグくらい飛べたってことは、四十リーグ(約220キロ)?! 隣の町どころか、隣の国までひとっとびじゃないのか?
俺の内心の焦りには気づかず、オウロラはよっこらしょと、若い女にあるまじきかけ声で立ち上がった。ついでに、袖でぐりぐりと顔をぬぐう。化粧がすっかり取れてすっぴんになったら、ますます子供っぽくなった。
「どうしようかなと思ってぼんやりしてたら、あんたが来たの。そんでおじさんの馬車に乗るところが見えたから、後ろにこっそり便乗して、あたしもここに来れたんだ。山を登るの大変だったんだから」
気がつかなかった。あんときは後ろばかり見ていたから、まさか先にこいつが大門にたどり着いているなんてこれっぽっちも考えてなかった。オウロラは、不満げに唇をとがらせた。
「ひどい目にあったよ、ほんとに。あんたたちがおとなしくその袋をくれてたら、こんなことにならなかったのに」
あきれた。なんだこいつ、ずうずうしいにもほどがある。全部他人のせいかよ。
「はぁ? まだそんなこと言ってんのか。なんでそんなそんなことしなきゃいけないんだよ。だいたいお前、これがどんな性質なのかわかってないだろ。貴石を出す便利な袋じゃないんだぞ」
オウロラの目がきらっと光る。
「じゃあ、なにそれ」
俺は、うっと言葉に詰まった。
「話してやる義理はねぇよ」
「えー、ケチだね、あんた」
思わずむっとする。なんで俺がケチって言われなきゃなんねーの。
「だってぇケチじゃん。教えてくれればいいでしょ。別に減るもんじゃなし」
冗談じゃない。はっきり秘密だと言われたわけじゃないが、カードの話を漏らしたら、きっと俺はマリオンにどっか離れ小島にでも飛ばちまう。歩いて帰れる辺鄙な田舎ならまだしも、絶海の孤島なんぞに飛ばされたら、泣くしかないよな。
「一年経ったら迎えに来るねー」とか言われかねん。しかも、もしかしたら迎えに来る前に途中で忘れ去られるかも。
「減る! 絶対減るわ!」たぶん、俺の寿命が。
むーっ、とまたオウロラは唇をとがらせた。
「じゃあ、いいよ。腕ずくでもらうから」
オウロラは、いきなりぶんぶんと腕を振り回して俺を殴ろうとした。小娘の癖に乱暴な。油断してたらあやうく拳が当たりそうになって、思わずのけぞる。
「やめろって! こんなとこで暴れたら危ないだろうが」
道は滑りやすく傾斜しているのだから、この小さな広場からはみ出したら、ずるずるっとそのまま今登ってきた分を下まで落ちてしまうかもしれない。
そしてこいつは、俺が一番やってほしくなかったことをやろうとした。
「じゃ、いいよ。魔法でやっつけちゃうからね」
で、呪文を唱え始めたのだ。
まずい! こいつがどんなへっぽこな三流魔女だとしても、今このカードが近くにある状態なら力が増幅されてしまう。
「やめろ! 袋のそばで呪文を唱えたら危ないって言ってるだろう」
オウロラは、途中で呪文をとめると、にやっと笑った。
「つまりその袋があると、魔法が強力になるってことでしょ?」
うっと詰まる。意外と頭がいい。
「あたし、一度でいいからすっごいつよ―い魔女になってみたかったんだよ」
オウロラはうふふと含み笑うと、右手を大きく上にあげてさっきの呪文の続きをつぶやき始めた。
「じょ、冗談じゃねぇ!」
俺は、出来る限りオウロラから遠ざかろうとした。こんな危ないところで何かされて、間違って谷に落っこちたらどうすんだよ。濡れた大地に足をとられ難儀しながらも、俺は谷に背を向けて山道を上へ向った。
「出でよ魔剣よ、我が命に従い、我が手にすべての力を授けたまえ!」
甲高いオウロラの呪文の完成とともに、頭上で地鳴りするほどの雷鳴が轟く。びりっと空気が振動し、あたりに独特のオゾンの匂いが漂い始めた。それとともに、轟音をたてて傍にあった木が縦にまっぷたつに裂けてゆく。
振り向くと、びっくりした顔のオウロラの手の中から十フィートもありそうな真っ黒などでかいかたまりが――いや、あれは剣の形か? ――突きだしていた。
「すごい、すごいよ、あたし」
オウロラのびっくり顔はすぐに歓喜の表情になり、さらに邪悪な笑みを浮かべたずる賢い魔女の顔に変わった。
「その袋があれば、あたし、ずっとこんな魔法が使えるんだね」
いやいやいや、そんなことに使うもんじゃないぞこれは、と言いたいところを飲み込んで俺はひたすら上に向かって走った。あの剣に狙われたら、俺の命が危ない。
いくらもいかないうちにぶぅんと音を立てて空気が揺れ、ばりばりばりっとまた左右の木が裂ける音がした。後ろでオウロラが、嬉々としてあの剣を左右にぶん回しているに違いない。だが、振り向いて確かめている暇はない。砕けた木っ端が背中にあたるが、よける余裕もない。まったくない。マントのおかげで致命傷にはならないが、それなりに痛い。当たり所が悪ければ、気を失うか最悪死ぬかもしれない。俺の身長ほどで太もも程の太い枝が目の前にどさりと落ちてきたときは、本気で肝が冷えた。
「こんなところで死にたくねーぞー!」
俺は必死で走りまくった。しかし、濡れた粘土がすべるせいで足がもつれて力が入らない。段差に足をとられつんのめると、思い切りばったりと前に倒れてしまった。すると、俺の頭があったあたりをでかい黒い塊が大きな音を立てて真横に木の枝をなぎ払っていくのが見えた。無数の木っ端が空に散る。俺は腕で顔を覆って直撃をよけた。
「あ、あぶねぇ」
まさに首が無くなるところだ。危機一髪だ。手首がまたぽうっと熱くなる。これもお守りの効き目か。
「なんでよけるのー、黙ってやられちゃいなよっ」
オウロラが叫んでいるのが聞こえたが、冗談じゃない。よけるに決まってんだろ。理不尽な言いように、むちゃくちゃ腹が立ってきた。何でこんな目に遭わなきゃいけないんだよ。
その間にもオウロラは雨も泥の山道もものともせず、高笑いしながら魔法の剣を繰り出しつつ俺に向かってくる。
「その袋をあたしに寄こしなさい。そしたら、許してあげるよー」
おいおい、許してあげるとは恐れ入ったぜ。誰がお前に許して欲しいって言ったよ、といいたかったがやめた。振り向いてみたときにちらっと見えたオウロラの目は、さっきよりもずっとつりあがり真っ赤に血走っていて、笑っている口元も大きく裂けて見えた。怖い。
こんな状態の女にまともにかかずらっていると、いらぬ怪我をするだけでいいことなんかない、と経験上知っていた――知りたくはなかったけど――が、残念ながら足元が悪くて、逃げるよりかわすだけで精いっぱいだ。
「魔法を使えないお前には、もったいないんだよ。あたしがうまく使ってやるから、早くよこせ」
冗談じゃない。お前にだけは絶対に渡さねぇ。ひとまず、亀裂からは離れることにして必死に上へと逃げる。足元が危ないが、それでもなんとか転ばずに剣の攻撃から逃げ切ると、大岩の陰に隠れてカードの入った袋を取り出した。
「この革の袋じゃなくてもいいよな、我慢してくれよ」
すぐにダミーを作らねばならないのだ。ポケットを探ると大きさの似た王都の木札型の通行証が出てきた。こちらも革の似たような袋に入っている。取り直すことになるのが面倒だ、とか考えている暇もない。急いで太陽のカードを取り出す。カードをまじまじと眺めている暇はなかった。そのまま二つの袋の中身を入れ替える。太陽のカードのほうは、貴重品を預かった時用のシャツの内側にある隠しに突っ込んだ。偽の袋のほうは少し軽いのが気になったので、近くにあった小石を一緒に詰め込む。こちらはきっちり袋の口をしめ、首にさげた。
岩の陰からのぞくと、オウロラがすぐ下のあたりで大剣をふるい、かたはしから木を切り刻んでいた。俺を探しているのか、大剣をふるうのが面白いのかわからない。歓喜のあまりか、すでに理性などかけらも見えなくなっている。
俺はそっと岩を回り込んで、彼女から見えないほうの小道を選んで下に降りることにした。慎重に少しずつ降りて、ようやく先ほどの危険な粘土の橋のそばにたどり着く。そのあたりで、ようやくオウロラが俺が下に降りたことに気が付いたらしい。顔色を変えて、うなり声をあげながら駆け下りてくる。よく滑って転ばないもんだな、と俺は妙なところに感心していた。「その袋をよこせ」と言っているように聞こえるが、もはや人の言葉としてなりたっていないほど獣よりになっている。大きく裂けたような唇の端からはよだれが伝い、まるで魔獣が吠えているようだ。
魔術師や魔女にとって、そんなにも強い力というものは、必要で大事なものなのか。いや、わかる、強いほうがいいのはもちろんわかるが、それは人間であることをやめてまで欲しがるものなのか、欲しがっていいものなのか、俺にはわからん。
どちらにしても、頭の先から足の先まで地の色がわからないほど泥まみれになりながら、吠えている女は怖い。俺の声は震えていなかったが、首から偽の革袋を外した手は少し震えていたかもしれない。
「わかった、これがほしいんだよな」
オウロラの吠える声が、ひときわ大きくなる。
「ほらやるよ」
俺は、大きく振りかぶって亀裂の深みめがけ勢いよく革の袋を投げた。偽物の袋は、雨を吸っていたせいか重くなっていて思ったより遠くへ飛んだ。それめがけて、オウロラも飛ぶ。オウロラの手が偽の革袋をひっつかむ。そしてその時に、足元に大地がなくなったことにようやく気が付いたようだ。そのまま鳥ならざる魔女は、袋と共に落下する。そこでようやく、ぎゃあという悲鳴があがった。俺には、その先を確かめる時間はない。なるたけ早く彼女から遠ざからないと、魔法が増幅されたままの彼女が戻ってくる。落ちていく限りは向こうも遠ざかっているわけだから、多分大丈夫とは思うが。どうなるかはわからない。魔女だから助かる可能性は高い。
非情と言われようとも、これが辺境の掟だ。けんかを売ったら、それ相応のものが返ってくる。俺は、頭を振って今のことはいったん忘れることにした。金をもらっても生きて帰れなきゃ意味がない。
「絶対、あんたを守に届けて無事に帰るぜ」
胸元に手を当てて、そうカードに誓ってみる。心なしか、カードがさっきより暖かくなったような気がした。とりあえず、俺は山道を少しだけ戻って木の陰に避難所を見つけた。もちろんここも濡れてはいるが、少なくとも雨が直接あたることはない。眠ろうかとも思ったが、体中が濡れた状態ではあまり眠る気になれない。本当に眠いときは何処でどんな状態でだって眠れる筈だ。そのまましばらく座り込んで、雨が降る様子をぼんやりと眺めていた。雨はその勢いがだいぶそがれたものの、まだ止んではいない。今は何時ごろなんだろう。あまり遅くなるとまた夜になってしまう。あたりがまるで見えない闇の中、あのくねった道を歩くのだけはごめんだった。
「しょうがねぇ。行くぞ」
俺はあまり気合の入らない掛け声を自分にかけて、のろのろと立ち上がった。恐る恐るその道へ一歩踏み出してみた。滑る。予想通りか。笑うしかない。油断するとずるりと滑って転んでしまいそうだ。俺は冷や汗をかいた。動悸が一気に激しくなる。転んでしまったら・・・・・・、その先のことは考えたくない。だからといって四つん這いで進んだら、いつになっても終点にたどり着くことはないだろう。
俺は呼吸を整え、「平常心平常心」と呪文のように唱えながら泥の道を歩き始めた。普通の道を歩くときは、その幅が四フィートどころか二フィートほどもあれば、迷わず幾らでも歩くことができる。しかし、そこに高さが加わっただけで何故こうも歩きにくくなるのだろう。落ちたらどうなる、とか転んだらこうなるとか余計なことを考えすぎるからなのだろうか? そう、それに加えてこんな高みでは風も強い。ときおり真横からふいに風の強襲を受けてよろめくと、そのたびに恐怖がきりりと心臓をつかむ。粘土の道も恐怖を倍加させる。粘土質の土には水がしみこみにくい。体重をかけると普通の泥のように深く沈み込まず、まず滑った。水に濡れてつるりとしているのが目でも感じられる。さらにあちこちに浅い水溜りがある。気をつけて歩いているつもりでも気を抜くと、そのつるりとした泥に足をとられ何度となく冷や汗をかいた。
そして、しばらく恐る恐る歩くうちに、すべることよりも、もっと怖いものがあることを俺は知る羽目になった。下を向いて歩きたくはない。だが、曲がりくねった道を足下を見ないで歩くことはできない。しかたなく視線を落とすと、嫌でも道の両側の切りたった深みが目に入る。目も眩むような千尋の深みが俺の中の何かをつかんでしまい、その高さから目が離せなくなる。『いっそ飛び降りてしまいたい』、そんな誘惑が何度も俺の足を止めさせる。怖い。だが、その恐怖の源を覗き込みたい。くらりと頭から飛び込みそうになって、慌ててしゃがみこむ。足がカクカクと震えている。俺は、歯を食いしばって誘惑に耐えた。
時折、道に座り込んで休んだ。疲れてくたくただが、眠ることはできない。道の端っこはナイフで切り落としたように垂直に切れていて、軽く体重をかけただけで脆く砕けていきそうだった。もはやなんのためにこんなところをこんな思いをして歩いているのかわからなくなってきた。もしも、この胸の奥に潜んでいる暖かなカードのぬくもりが感じられなければ。
ぐったりと座り込んで前にかがみこむと、ことさらカードが暖かく感じられる。それは春の日ざしのように穏やかな温もりで体中を包み込み、俺はそれに癒された。
「くそーっ! 絶対にたどりついてやるっ!」
ここまでくればもはや意地だった。
一体何時間歩いたのであろうか。始まりは朝だったが、どうもこの薄暗さは夕暮れに近づいている気がする。まずい。だが、どんな長い道にでも、苦しい旅にでも終わりがあるものさ。楽しい時間もいつかは終わってしまうように、苦しい時間もやはり終わってしまう。俺の行く手、道の終わりになるはずの向こう岸がだいぶ間近に見えてきていた。そしてそこに見えた奇妙なものが、俺に旅の終わりを予感させた。俺はふらつく足をゆっくりと止め、雨に濡れた顔を袖でこすった。向こう岸に見えるあれはなんだ? 巨大な光の塊か?
丸くて大きな水滴のような少し蒼みがかった半透明の奇妙なものが、向こう岸にかすんでいる。それは本当に大きなもので、今まで目に入らなかったのがいっそ不思議なくらいだ。下手をすると小さな村の一つくらいは簡単に飲み込まれそうな大きさだった。巨大な水滴のような『それ』はどこにも支え手がなく、どこが大地についているのかもわからない。ふわりと空中に浮かんでいるようにも見えた。
「もしかしたら、あれがここの主の城か?」
もちろんそこには自分の希望も含まれている。残りの道程はあとわずか。できれば、渡りきった所で終わりにしたい。俺の体力は、もう限界だ。すでに気力も使い果たそうとしている。しっかりした大地に足がついたら、そのまま倒れ込みたかった。
急激に夜が近づいていた。空気は薄鼠色から濃い藍色へ変わり、さらに深い暗黒になろうとしている。足下の道が、もうだいぶ見えにくくなっている。早く渡りきらねば、道が見えなくなる。
あまりにも目の前の巨大な水滴に気をとられていたせいか、闇が深くなったせいか、足元の道がもろくなっていることに気がつくのが一瞬遅れてしまった。いつのまにか道は壁のように下まで続くものではなく、途中から空中に張り出した薄い板状のものに変わっていたのだ。あまりの雨の勢いに溶けてしまったのかもしれない。向こう端に行くほどそれは薄くなっていて最後に一歩、踏み出したところには俺の体重が限界だったらしい。急激にがくっと落ちる感じに俺は声も出なかった。無意識に戻ろうと後ろへ下がったが、一度崩れはじめた土はもう止め処がなかった。さっきまで滑りはするものの硬かったはずの地面は、たよりなく空中で四散した。
落ちる。その瞬間、俺は一気に解放された気分と恐怖を同時に感じた。長い距離を落ちていくその時に、人間はちゃんと気を失えるものだろうか。あせっていて最後まで意識があったら嫌だな、とふとくだらないことが頭に浮かぶ。いや、くだらなくは無いな。今、この場で考えるにはふさわしいことだよな、うん。下へすごい力で引っ張られている身体とは逆に、半分浮遊した意識がいっそ気持ちいい。このまま意識が無くなれば楽なのに。




