その3 雨が多すぎる
この街道からアイゼンフラウはよく見えた。夜の今でも真っ暗な空を背景にして、黒く重く鋭い剣のような影が闇を塗りつぶしているのがわかる。標高からいえばさほど高くないとはいえ、見た目の美しい山だった。昼ならば、青い山のいただきに白い冠のような雪が見て取れるだろう。
ここしばらく誰も登ったことがないということだが、それなりに整備された道は何故かちゃんとある。正式な街道とは言えないだろうが、獣道というわけでもない。その道を辿れば誰でも割と簡単に登頂できるらしいのだが、登ったという人間に直接会ったことがない。
そのかわり噂だけは豊富に聞いた。『冬なのに綺麗な花が咲いていたそうだ』とか、『山中に深い谷があって向こう側こちら側をつなぐように吊橋が延々と続いていたらしい』だの『深い谷の向こう側に夢のように美しい女性がひらひら舞っていた』などなど、どこまでが本当でどこからが嘘なのかわからないようなまことしやかな噂が流れている。
最後のやつだけちょっと見てみたいとは思っていたが、今までなかなかそんな機会には恵まれなかった。今回はいやおうなく、そんなものに遭遇するのかもしれないな。
そんなわけで、急な山道を歩かなくてはならないのにはうんざりしているのだが、俺はあの山にちょっと興味があった。
アイゼンフラウの裾野は、町から四リーグほどのところから始まっている。本街道から更に北へそれていく北街道と呼ばれる道があって、それが山の入り口へ続いている。俺はとりあえず、その道へ向かわなければならない。
街道に人影もなくなり、民家もすっかりまばらになったころ、ふと空を見上げた俺は、北の空がいつもより明るいのに気がついた。空全体が、ほんのり白く明るんだ曇り空である。
「ああ、こりゃ雪が降るな」
これは雪が降るときの曇り具合だ。途中で野宿しようかと思っていたのだが、雪が降り出してしまうのであれば、街道沿いでそのまま寝るというわけにも行くまい。宿に泊まるにしても、もっと先まで行かないと宿場はない。ただ、ひとつだけいいことがあるとすれば、あまり寒さを感じないということだけだ。
俺はいつのまにか胸に下げた皮の袋に、無意識に手を当てていた。マリオンから放られたそれは、やつが自分の首から引きちぎったからだろう、鎖が切れた状態だったが、ここまで来る途中で鎖を繋ぎ直してあった。
薄い皮袋の上からさぐると、カードは少し厚みがあってでこぼこしている。そして、大きさの割にやたらに重い。さすがに皮袋から引き出す勇気はなかった。何が起きても、俺には責任は取れない。だったら見ないほうが、賢明というものさ。
そして手を当てたそれは、シャツと上着の上からでもわかるほどほんのりと暖かい。やつが言ってたほど熱いというわけではなく、春の日差し程度のふんわりした感じだ。さすがに太陽のカードというだけはある。マリオンがシャツだけでも大丈夫だったのがよくわかる。一枚のカードで体中がほかほかと温まっているのだ。 おかげで俺はすでに毛織物の外套を一枚脱いで荷物にくくりつけていた。頼むから気まぐれを出さずに、このままほんわり暖かいだけにしてほしいものだ。
俺は上着のボタンをきっちり上までしめてから、背中の鞄をゆすり上げた。できる限りカードが、自力で表に出てくるという事態は避けたい。
「さてと、これからどうしようか」
どうするべきか、足を止めてしばし考える。もうじき街道沿いには人家がまったくなくなり、両側に暗い森や原っぱが延々と広がるだけになる。その先には町の終わり、北の大門があるが、その門を出たらそのあとはアイゼンフラウへ一本道で、どこにも休めるようなところはない。晴れていたら夜通し歩き続けてもいいかとも思えるが、雪が降るなら危険はなるべく少ないほうがいい。寒さは感じなくても雪に足をとられる可能性がある。このへんは、一晩で三フィートくらい積もることも珍しくないのだ。腰まで雪に埋もれて歩くのは難しい。しかも行く手は山道だ。落ち着くまで待ったほうがいいのかもしれない。
が、このまま待っても晴れることはないのだ、ということに俺は突然気がついた。俺が今ここに突っ立っている限り、これが、この太陽のカードがここにある限り。晴れることはないんじゃないのか? そうか、そうなんだよな? ため息をつき前へ進む。進むしかない。いろいろとあきらめて、俺はのろのろと歩き出した。
北の大門には番人はいない。門はいつも閉まっていて、出入りする者が自分で開け閉めするようになっている。門へ着いたとき、ちょうど町へ入ってくる馬車と出くわした。俺は御者台で馬をあやつっていた人のよさそうなおっさんを制して、門を開けてやった。馬車の屋根には溶けかけた雪がたくさんのっかっている。入れ替わりに門を出ようとしている俺に、おっさんが声をかけてきた。
「あんちゃん、どこいくだね? 見たとおり、こっから先は雪が降り始めていて、夜に歩くのは剣呑剣呑。やめといたほうがいいだよ?」
俺はおおげさに肩をすくめて見せた。
「ヤボ用さ。どうしてもいかなきゃなんねぇんだ」
おっさんはにやーっと笑って、小指を立てて見せた。
「あんちゃん、雪女でも待たしてるだか?」
おっさんの下世話で陽気なしゃべりに思わず苦笑する。
ある意味ではおっさんのいうとおりかもしれないけど、たぶん相手は雪女じゃないな。俺は首を横に振った。おっさんはそんな俺を見て、ちょっとだけ真剣な顔になった。
「だけども次の町までは、十リーグ(約55キロ)ほどもあるだよ。歩きじゃ行き着けないほうに俺なら賭けるけども」
俺もそっちに賭けるよ、普通なら。見たところ馬車の屋根には、ひざに届くほどの高さの雪が積もっているのだ。
「いや、俺はとりあえずアイゼンフラウの麓まで行きたいんだ」
そこまでなら二リーグ(約11キロ)ほどだ。だが、おっさんは答えを聞いて一層仰天したらしい。そりゃそうだ。
「あんなとこ、なんもないだよ? 山と野っぱらしかないべさ」
ああ、ないね。だが、うまい説明も思いつかない。
「だからさ、ヤボ用なんだって」
俺は言い張った。この気のいいおっさんにほんとの目的地をつい言ってしまったが、いつもの俺にしては口が軽すぎるんじゃないか? 旅の途中で人を信じるのは、それこそ賭けに近い。
「そっかー、んじゃしょうがない。俺があんちゃんをそこまで乗せていくだよ」
おっさんが、さして深く考えた風もなく気軽くそういうのを聞いて、今度は俺が仰天した。
雪道を二リーグ、歩くよりはマシでも馬車にとっても結構な距離だ。道端で出会っただけの他人に施す好意にしては、代償が大きすぎやしないか。俺が正直にそういうと、おっさんは御者台で明るく笑った。
「んなこといってもあんちゃんは、気が変わりそうにないしなぁ。行き倒れを見て見ぬ振りしたら、今夜の酒がまずくなるべ。かあちゃんにも怒られるわ。これもなんかの縁だがや。おれは明日休みだしなぁ」
まだ行き倒れてねぇよ、と言いながら俺は、笑って隣の席を指し示すおっさんに感謝しながら馬車に乗り込んだ。ついてる! これで歩かなくてすんだな、と少しほっとしていた。
馬車は、北の大門前で回れ右をしてアイゼンフラウの方へ向かった。おっさんはかなり手馴れた風に馬車を操りながら、今日の自分の仕事の話を面白おかしく話している。適当に相槌を打ちながら、おっさんにあれ以上詳しくたずねられなかったことを安堵していた。ほんとに俺はかなり運がいい。
ふいに宿屋でマリオンに無理やりはめられた腕輪が、ぽぅっと熱を帯びた気がした。そういえば、魔法が使えないはずのやつが『精霊の祝福』といったが、これは大丈夫だったのだろうか? うーん、いや、確かに精霊の祝福は、普通の魔術師が使う魔法とは違うのかもしれないけど。
精霊の祝福てのは、誰でも気軽に使う『日常のまじない』、『お守り』みたいな気休めの魔法みたいなものだ。『縁起かつぎ』ともいうかな。旅立つ者へ、勝負をかける者へ、新しいことをはじめる者へ、結婚式でと、ありとあらゆるときにいろいろな形で行う行為やら物をいう。
旅立つ者の背中に向けてまじない石の鈴を鳴らすとか、結婚式で花嫁と花婿に祝いの花とパンくずを振り掛けるとか、新しい店の扉に客寄せの猫の置物を置くとか、運がよくなるように水晶の腕輪をするとか。みんなただの形だけの気休め・・・・・・だと思ってた、いままでは。
だが、マリオンが行うと、あるいは太陽のカードがかかわると違うのだろうか? 俺の運のよさはこの腕輪の祝福のおかげなのかもしれないと思いながら、ひたすらおっさんの駄じゃれと愚痴につきあっていた。
町を出て幾らも行かないうちに雨雪が降ってきた。かなり水分を含んでいる雪で、服や髪に落ちるやいなやべちゃべちゃと溶け出す。
「さっきは雪だったのになぁ」
空を見上げておっさんがつぶやいた。明らかに雪曇りの空だったのに、今は普通に雨雲に変わっている。
もしかしたら、このカードのせいだろうか? 本来あってはいけない地上にあることによって、大気が温くなっているのかもしれない。アイゼンフラウへ近づくに連れて、雨雪はどんどん粒が小さくなる。そしてしばらくするとやはり完全に雨になった。
「おかしいなぁ。さっきまではこの辺も寒くてだいぶ積もってたんだが、なんでもう融けてんだ? なんだかあったけぇし」
御者台でおっさんは首をかしげ、俺は黙って空を見上げた。確かにひざまであっただろう雪は、すでに道をうっすら覆う程度まで融けて、道の端に掘られた溝に流れ込み、小さな川となっている。もともとは土が固く締まった街道だが、雪解け頃のようにぬかるんでいて轍がくっきりとついた。
アイゼンフラウへの登リ口にたどり着く頃には、すっかり夜中になっていて雨のほうは本降りになっていた。ぬかるんだ道は雪道よりはだいぶ歩きやすいが、この雨はいつまで続くのかわからない。
無事に分岐点へたどり着いた俺は、丁寧に礼を言って馬車を降りた。ポケットを探り銀貨と銅貨数枚をつかみ出す。
「世話になったな、おっさん。ありがとうよ。気持ちだけど受け取ってくれよ」
おっさんはなんのなんの、といいながら金は決して受け取らなかった。
「そんなことよりも兄ちゃん、行き倒れにならねぇように、ほんと気ぃつけるだよ。おれの夢見が悪くなんねぇようになぁ」
おっさんは笑いながら陽気に手を振ると、また回れ右をして町への道を戻っていった。俺はこっそり馬車の荷台にありったけの銀貨を投げ入れた。これで借りが返せたかどうかはわからないが、いつかどっかで会ったらエールくらいはおごらせてくれよ、おっさん。
馬車が行ってしまうと、辺りは真っ暗になってしまった。微かにでも感じられる光は、曇り空の白さしかない。灯り代わりになるはずだった雪は、すでに完全に融けているので、道はただ真っ黒に闇の中へ続いているだけだ。そして雨はただひたすら降り続く。もう、いやんなるほどに。
「さて行こうぜ、太陽のカードさんよ。頼むから悪さはしないでくれよ。俺はマリオンと違って普通の人間なんだからな」
意味はないと知りながら、懐のカードに向かって話しかけてみる。もちろん答えはない。あってたまるか。
雨よけのついた小さなランタンを出して燈し、俺は脱いでいた外套を着てマントをきっちり着なおした。濡れると体温が奪われていくはずだ。行き倒れたら、せっかく送ってくれたおっさんに申し訳ない。雨よけにフードを深く被り、前を固くしばった。
これから少しの間は緩やかに登る道が続く。そして、その後はきつい傾斜が待っている。雨がどれだけ障害になるかはわからないが、楽な旅にはなりそうもない。すっかり葉を落とした木々が両側で見守るアイゼンフラウ頂上へ向かう道を、俺はゆっくり歩きだした。 誰も歩く者のいるはずがないこの道は、思いのほか歩きやすかった。アイゼンフラウは確かに神聖な場所として入らずの山だが、この辺の道までは誰か立ち入る者がいてもいいはずだ。春には薬草や花が、秋には木の実や果実がたくさん実りそうな場所だ。
しかし、実際のとこ、さっき馬車と別れた北の町へ続く道と、この道との分岐点からこっちへは誰も立ち入らない、と聞いている。誰もそう取り決めたわけではないし、たたりがあるとかそういう言い伝えがあるわけでもないらしい。ここはあくまでも「神聖な場所」なのだ。
それなのに、平らに均された土が足下に固く感じられる。地面に轍のあとは無い。街道よりも固いということだ。馬車は無理だが、小さな荷車程度なら楽に通れそうなほどの広さのこの道をこんなに固くなるまでいったい誰が歩いているのだろう? 小さな疑問を抱きながら、俺は小さなランタンのわずかな灯りだけをたよりに緩やかな坂を登り始めた。
山道に入ると、木々がさえぎってくれるおかげで雨が少し小降りに感じられた。広葉樹はもうだいぶ葉っぱを落としてしまっていたが、それでもだいぶ違う。きつい防水を施してあるマントのおかげで体は濡れていないが、踏みしめる土がこころなしか柔らかくゆるみ始めてきた。粘土質の土なのか、雨が染み込んでいる感じはあまりしないのだが、そのかわり表面がつるつるとすべりやすくなってきたようだ。これが実に体力を削る。踏みしめると、足の裏が固定されずに下へ滑るので、転ばないように均衡を保たなければならない。これで山道となれば、歩き慣れている俺でもさすがにかなりつらくなってくる。朝まで待ったほうが賢明だったかもな、と独りごちながら泥道を踏みしめて歩いた。
やがて木立の中にひときわ目立つ大木を見つけた俺は、ためらいなくその根元で夜を明かすことに決めた。大きくくぼんだ木のうろがまだ湿っている程度で、雨も直接あたらない。マントを敷いて鞄をクッション代わりに腰に当てて座り込むと、ようやくほっとした。これなら少しは眠れるかもしれない。
星や月が出ていたら、夜歩くのも苦にはならない。もともと俺は、誰もいない夜の街道を歩くのが結構好きだったりする。しかし、雨の山道はだめだな。法外な金貨でもかかってなきゃ、絶対こんな仕事は引き受けない。マリオン自身がこんなとこへ魔法なしで来たくない、という気持ちもわからないでもない。疲れていた俺はそんなことも思いながらいつの間にか眠ってしまっていた。
目が覚めたとき、まだ夜が明けていないのかと思った。それほどあたりは暗い。だが、立ち上がって上を仰ぐと、木の枝の隙間から覗く空はすでに黒から灰色に変わっていた。少しでも眠れたことで疲れは幾分かとれていたが、まだ先は長い。これ以上眠れないということは、まださほど疲れてないよなと無理やり自分を納得させて、鞄の奥から出した塩気のきいた干し肉と干し杏と腰に下げていた水筒の水で、簡単に腹ごしらえだけをした。美味いはずだったが、口の中が苦くてあまり味がしなかった。
いつのまにか、あたりがただの闇からうっすらと形をとり始めた。降りしきるぶ厚い水の帳のせいで、遠くまで見通すことはできないが、明るさが多少増したことで気分もよくなった。そのうえ、雨が少しだけ小降りになってきたような気さえした。錯覚だろうけど。
ほの明るくなった道は、夜よりずっと歩きやすかった。もちろん、滑るし傾斜がきつくなった分、腰とひざに負担がかかるが、それでも暗闇を歩くよりはずっとましだ。歩くにつれて徐々にあたりの明るさも増す。
だが、相変わらず雨はひどい。しだいに雨粒が大きくなってきた。バタバタと泥の道を叩く雨の音がうるさく響く。被っているフードに当たる雨が、あまりにも強烈で痛いくらいだ。もうとうに防水は効かなくなっている。着ているものが水を含んで重くなっていき、足下がおぼつかなくなってくる。ランタンはとっくに消えて、役に立たなくなってしまっていたので捨ててしまった。
雨水は、道を細い小川のように下方へむかって流れている。これだけ降って山が溶け出さないのかと、ちょっと真面目に心配になった。これだけ降って、麓にはなんの影響も無いだろうか。この山は木がたくさん生えているから、ちっとやそっとでは崩れそうにはないけれど、鉄砲水とか土石流とか起きないとも限らない。麓には、街道は通っているが、近場には人家がないのは幸いだった。
そろそろアイゼンフラウの本体に向かっているようで、坂が急にきつくなる。体中の布地が纏わりついて歩きにくい。何度か足がすべり、こらえきれず泥道に膝をついてしまった。おかげで体中が粘土まみれになったが、表側は雨がすぐ流してくれる。だが、頭の先から足の先、いや服の中まで全てぐっしょり濡れて、それが泥のせいか雨のせいかはもうわからなくなっている。そのうえ、泥がどんどん柔らかくなっていて、ところどころでは足首までも泥に埋まり、引き抜くのにえらく手間取った。
歩き始めてから、もうだいぶたつというのにいっこうに、雨はやみそうもない。頭から雨水をでかい桶で、何百杯もかぶせられている気分だ。もういい加減にしてくれ、と天に向かって怒鳴りだしたい気持ちを俺はかろうじて押えた。
今何処をどう歩いているのか、これ以上、歩き続けることができるか不安になり始めたとき、ふいに目の前が明るく開けた。 もくもくと歩き続けていると、やがて俺は目の前にありえないもの見た。思わず足が止まる。 少し小降りになった雨にけぶるその先に俺が見たもの、それは深い深い亀裂だった。谷、とは呼べないのかもしれない。あまりにも深く、あまりにも向こう岸が遠いからだ。第一、この山にこんな深い、こんなに大きい谷が存在するはずがない。アイゼンフラウは連山ではない。山自体の高さも幅もこの谷が存在するほどの大きさは無い筈だ。この谷がアイゼンフラウに存在する筈がない。
俺はゆっくりと慎重に前に進んでみた。亀裂に近づくに連れて雨音が弱くなるのがわかる。亀裂に雨が音もなく吸い込まれているのだ。そこで道が途切れているのかと思ったが、そうではなかった。左右の木々は途切れていたが、道は続いていた。空中へ。
『山に登ったら深い谷があって向こう側こちら側をつなぐように吊橋が延々と続いていたらしい』 なるほど、これがあの噂のひとつかと思う。どうやら吊橋ではない。つられているわけではなくただの細い橋のような道が延々と続いている。一番端の木の幹につかまると、おそるおそる亀裂を覗き込んでみた。 見えない。底がないほどに深い。深すぎる。すっぱりと縦に切り落とされたような土の壁は、下へ向かって続いているのに、底は見えない。気の遠くなりそうなほど深いところは、雲か霧かなにか白いものでかすんでいる。木につかまっていないと、くらりと体が勝手に底へ向かって落ちていきそうな錯覚を感じる。
雨は止みはしないが、いつのまにか小雨に近くなっていた。あたりが見えなくなるほどはけぶっていない。だから底が見えないのは、決して雨のせいではない。断崖の山肌は、限りなく深く底へ向かって続いていて、それがはっきり見える。そのそっけない削がれたような山肌が、亀裂の奥底までずっと続いている様子が見えるおかげで余計に深みを感じられた。何も高さを測ることが出来ない空中から下界を見下ろすより、たぶんずっと。強い風が底から吹き上げてきて、俺は思わず木にしがみつき目をつぶった。
冗談だろ? この先の道へ進めと言うのか? 嫌々、目を開けて道の先を確認する。街道は続いている。その亀裂を横断するように細い道が向こう岸へ向かって伸びている。切り落とした粘土のぐねぐねとうねった細い道が、雨にけぶる向こう岸へただひたすら無情に続いているだけだった。 とはいえ、道幅が極端に狭いわけではない。見たところ、三いや、四フィートくらいか。わりかし幅があるじゃないか、と思われるかもしれないが、両側には何も無いのだ。雨で滑りやすそうな粘土の道が、空中に複雑にうねりながら続いているのだ。その高さはどれくらいなのだろう? 俺には見当もつかない。そう、ちょうど高い高い、とてつもなく高い塀の上を歩くような感じ、なのかもしれない。噂にあったように、吊り橋のほうがなんぼかマシだったろうと思う。少なくともロープが張ってあり、それにすがることができるからだ。
どうしようか。これを進まなくてはならないのだろうか。俺にこの果てしない高みにある道を進む度胸があるだろうか?
しかし、戻って他の道を捜す、のは考えられなかった。
地図を説明したときにマリオンが最初に言ったのだ。イセンガルド本体へ辿りついたら、そこから道はひとつしかない。横道はないからそれを果てまで進め、と。
この空中の道を進むか、あるいは、ここですべてを投げ出してすごすご引き下がる「契約不履行」ーー契約を守れなかった屈辱ーーのどちらかしかない。
俺はため息をついた。自分の性格はわかってる。絶対引き下がるわけが無い。なにがあろうとも契約を反故にだけはしたくなかった。でも、だからってこれは・・・・・・。
俺は、虚ろな目で深い亀裂とそれを左右に分断している細い道へ目をやった。向こう岸はうっすらと見えているが、何処へどう続いているのかはわからなかった。この道の果てに目的地があるのだろうか。
「ちょっと、あんた、なんなの、この雨! なんとかしてよ」
突然の声に、俺は驚いて振り向いた。聞き覚えのあるこの声は……。




