第二章 ♦ 女主人 ①
スイが最初に覚えた仕事は、女主人の身の回りの雑用だった。
朝になればエリシュカの身支度を手伝い、彼女とアルベルトとの朝食を給仕する。
夫妻の寝室は別だが、朝食の席は忙しい二人が顔を合わせる貴重な機会だ。スイにとっても三人で過ごせる嬉しい時間だ。
「今日は坑道を見てこようかな」
「飯場じゃなくて?」
「古い坑道をどうするかってヤナタに相談されてるんだ」
「そうなの。私は午前は役場にいるけど、午後は市場に行くから何かあったら伝言を残して」
「買い物でもするの?」
「そうじゃないけど、良いお酒が入荷してたら買っておく?」
いたずらっぽく言うエリシュカに、アルベルトがお茶のカップを軽く掲げる。
「大丈夫だよ。酒場に行けば飲めるから。何だかんだ皆がおごってくれるんだよね」
「甘やかされてるわねぇ……」
朝食が済めば役場へ出かけるエリシュカについて行く。彼女はそこで毎週のカレイズの採掘量の集計や、分配する利益の計算を監督している。
スイはインクと用紙の補充をしたりお茶を淹れたりするだけで、エリシュカが会計士たちと話すことや書きつけることはあまり理解できないが、ペンや算盤を流麗に操るエリシュカの格好いい姿を眺めるのはとても楽しい。
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昼になると一度館へ戻って昼食の給仕、しばし午睡を嗜むためにエリシュカが私室に入ったので、スイは洗い物を抱えて洗濯室に向かう。今日はその途上で声をかけられた。
「あなた、洗濯室に行くならこれも洗ってちょうだい」
呼び止めたのはベルナルトの世話をしている侍女二人、テレザとシモナだった。スイは子供用の下着が入った籠を押し付けられる。
「あと、このお召し物の染み抜きは大急ぎでやってちょうだい」
「それはいいけど……」
これはあなた達の仕事では?とスイは首を傾げる。
「私達は、これからベルナルト様をバルコニーで日光浴させなきゃいけなくて、忙しいのよ」
「雑用のために雇われたんでしょ? それくらいはできるわよね?」
言葉にちくちくとしたトゲを感じたが、彼女達のうしろに立つ小さなベルナルトに微笑んでから、スイはそれを引き受けた。
スイは手先が器用なのが取り柄だ。だから大量の洗濯物があっても大した時間をかけずに全てきれいに洗って干して、染み抜きも手早く完璧に仕上げることができた。
「え……もう……?」
満面の笑みで染み抜き済の服を持ってきたスイに、バルコニーでくつろいでいた侍女たちは困惑している。
「もう御用はないかしら?」
「え?ええ……」
「よかった!じゃあそろそろ戻らなくちゃ……」
踵を返しかけたスイは、テレザがベルナルトに見せているものに目を留める。
額縁に入った小さな肖像画で、後光を背景に白ひげを蓄えた老人が描かれている。
「そのおじさん誰なの?」
「あら、知らないの? 最近流行ってるのよ」
シモナが得意げに顎を上げる。
「〈帝国〉では聖人の肖像画にご利益を祈るでしょ。この聖ニコラウスは今一番有名な聖人よ」
「でも、〈ペトラム〉にはメルクリウス様がいるでしょ?」
メルクリウスは商人や旅人、そして盗賊の守護神である。〈ペトラム〉の街を興した元盗賊たちが岩石から掘り出した彫像は街の大通りの真ん中にある。
そんな素朴な疑問を呈したスイに侍女たちは鼻で笑った。
「そんなの信じてるのは古い世代だけよ。今の流行は〈帝国〉の聖人たち。〈ペトラム〉にも信心している人がたくさんいるわ」
テレザがベルナルトに肖像画を見せる。
「この方は良い子にしていた子供達に贈物をくれるのよ。だからベルナルト様も、大人の言うことをきちんと聞いて、お利口にしていましょうね」
ベルナルトは目を輝かせて肖像画を見つめる。
首を傾げながらそれを聞いていたスイは、ベルナルトと目の高さを合わせて言う。
「良い子にならなきゃいけないのは、何かご褒美をもらうためじゃないのよ。周りの皆のためになるの」
スイはぴっと人差し指を立てる。
「それに、対価も払ってないのに何かをくれる人なんて信じちゃ駄目よ。この世に無料のパンなんて無いもの」
ベルナルトはぽかんとした顔で聞いていた。侍女たちは厄介者を見るような顔でスイを睨んでいる。
そのとき、スイの後ろから呼ばわる声が聞こえた。
「スイ、こんなところにいたの」
エリシュカが指を振ってスイを促す。
「市場に行くわよ、付いてきなさい」
♦
スイとエリシュカは大通りをぐんぐん下っていく。午後のこの時間、多くの男たちは鉱夫として坑道で働いているから、通りにいるのは女たちがほとんどだった。エリシュカが雑踏を歩けば、彼女たちは恭しく道を開け、恐れ多いといったように黙して会釈する。
歩くスピードを落とさないまま、エリシュカは道の端に鎮座する古いメルクリウス像の台座をさり気なく撫でていった。像の周りには水の入った器や小銭、つるはし、やっとこ、賽子、山羊の蹄や雑多なものが供えられている。
スイはエリシュカの斜め後ろを歩きながら声をかけた。
「ねぇ、エリシュカもアルベルトも、いわゆる御三家の生まれなのよね」
エリシュカはちらりとスイを見る。
「半年も暮らしていれば、ここの歴史も多少は知ってるようね」
「もちろん。"悪知恵"フヴァータル、"守銭奴"リンデン、"乱暴者"レイゼク。――〈ペトラム〉開鉱の祖の三人」
エリシュカはわずかに口角を上げる。
「その褒めてない二つ名は自称なんだから、尚たちが悪いわよね。そしてその"悪知恵"はアルベルトの祖父、"守銭奴"は私の祖父よ」
三人組の頭目だったフヴァータルはそのまま〈ペトラム〉の頭領になり、リンデンは街を出入りする商人や職人のまとめ役になり、レイゼクは最も数が多い鉱夫たちを統括している。この三つの家で〈ペトラム〉の全てを采配しているといっていい。
「じゃあ、二人は幼馴染ってことよね」
「まぁ、そうね。アルベルトは私の兄の友人だから」
「やっぱり。二人を見てると、気のおけない間柄って感じ」
「……私達の結婚は、戦略上必要だっただけよ」
「でも、嫌ってはいないでしょ?」
スイがにんまり笑う。
エリシュカはつんとして振り返らずに答える。
「共同経営者としては、申し分ないわね」
やがて二人は大通りの反対端にたどり着いた。




