第四章 ♦ 領土 ⑦
男たちはエリシュカを連れて、ほとんど光のない道を進んでいった。
この道順は、脱出口に続く隠し通路と相違ない。おそらくこの男たちは、その脱出口から侵入してここまでやってきたのだ。
懸念した通り、この秘匿情報はとっくに敵に割れていた。
やがて、前方に明かりが見えた。そこは天井が高く空いた空間になっていて、奥へ続く隧道と、下へ続く縦穴が開いている。
その真中に、ランプを携えた人物が一人立っている。それは、見紛うことのない、エリシュカがよく知る人物――
「――エリシュカ」
彼は優しく彼女の名を呼んだ。
「……お兄様」
エリシュカは、声が震えそうになるのを内心叱咤しながら、そう応えた。
ヴィクトルは、眉尻を下げながらエリシュカの姿を眺めた。
「大丈夫かい? 彼らに怖い思いをさせられてないといいが」
傭兵の二人は、今はエリシュカの背後に並んで立っている。
「……いいえ。私は平気です」
「そうかな? 何だか蒼い顔をしているよ」
「……彼らが、シモナを殺すところを見ただけです」
そう聞いてヴィクトルは眉をひそめた。
「穏便にと指示したんだが……その子には可哀想なことをしたね」
口ではそう嘆いているが、悲しみも憤りもこめられていない空疎な口調だった。
「さぁ、君が来たなら長居は無用だ。さっそく出発しようか」
切り替えるようにヴィクトルは明るく言った。
「馬車を用意している地点まで少し歩くことになるけど……そこから先は僕が全て手配しているからね。安心して任せていいよ」
エリシュカは拳を握りしめた。
「お兄様……」
目を伏せながらエリシュカは答える。
「……私は、〈帝国〉には行きません」
そうなのではないかと、ずっと長い間恐れていた疑惑。
しかし、そんなことはあってはいけないと目を逸らしていた真相を目の前に突きつけられて、エリシュカは絶望をこらえるのに必死だった。
"龍の守護団"が近年勢力を増した理由。彼らに資金を提供し、政略の駒として扱うことができる存在。――それは大国の為政者たち。例えば〈帝国〉の元老院なら朝飯前だろう。
大きな利益を生むカレイズ鉱山を抱えた〈ペトラム〉が、〈帝国〉の庇護を求めるよう仕向けさせるために"守護団"の脅威を増強させたのか、それともはなから"守護団"に〈ペトラム〉を襲わせることは決定事項だったのか。
いずれにせよ、〈ペトラム〉内部に手引をする"協力者"は必要である。〈帝国〉側に親和性の高い者たちが。
リンデン家は、〈ペトラム〉の御三家の一角であると同時に、昔から〈帝国〉との橋渡し役をしていた。特に兄は、一年の半分は〈帝国〉で過ごしている。これ以上ふさわしい"協力者"はいない。
「なぜ? 助かりたくはないのかい?」
「……あそこには、二度と戻りたくないんです」
「どうして?」
ヴィクトルは妹の返答にきょとんとしている。
「思い出してみてくれ。僕ら三人で〈帝国〉に遊学に行った頃のことを」
うっとりとヴィクトルは続ける。
「あそこは美しい都市だったろう。〈ペトラム〉は故郷だから愛着もあるけれど……こんな岩だらけの素朴な街とは比べ物にならない。豊かで、荘厳で、先進的で……あそこに戻りたくないだなんて、信じられない」
確かに、〈帝国〉の首都は圧倒的だった。あそこには世界の全てがあるように感じられた。
けれど、その美しい部分だけを見ていた兄に対して、当時のエリシュカは影の部分ばかりに目が行っていた。〈帝国〉の市民の贅沢を支えるために、枷を嵌められて労働を強いられていた奴隷たちにこそ、共感と憐れみを感じていた。
……きっとアルベルトもそうだったからこそ、うんざりして先に帰っていってしまったのだろう。
「僕は忘れていないよ。君と二人で過ごしたあの日々を」
エリシュカの身体は、意志に反してびくりと震えた。
――全身の細胞が、それを思い出すことを拒絶している。
「楽しい思い出を沢山つくっただろう? 僕らは互いに、これ以上ないほど親密だった……」
「……それ以上はやめて」
エリシュカはなんとか声を絞り出した。うずくまりたくなるのを懸命に押し殺す。
「私は、あの国が、〈帝国〉が嫌いです」
刹那の間、沈黙が降りた。
「……もしかして、あの娘の影響かな」
ヴィクトルの声の温度が下がった。
「あの娘はよくないと僕はアルベルトに言ったんだけどね。まさか君まで懐柔されたのかい?」
呆れたようにため息をつく。
「彼女が言ってたみたいに、〈帝国〉の者たちに虐げられるんじゃないかと心配してるのかな? 大丈夫、僕たちがそんな目に遭うわけないだろう。彼らが〈ペトラム〉を手に入れたあとは、僕たちは市民権と、田園地帯の屋敷をひとつもらって、穏やかな暮らしをしよう。君に何不自由無い生活をさせるだけの財産は確保しているからね」
ヴィクトルはエリシュカに微笑んだ。
「僕たちは兄妹だ。君の兄が全てのことから君を守ってあげるから、もう何も恐れなくていいんだよ」
幼い頃から聞き馴染みのある、兄の優しい声音。
その声が昔から何度も何度も、エリシュカが無力で惨めであることを思い知らせてきた。
今こそ、その支配から脱却しなければならない。
「――〈ペトラム〉が私の居場所です。私が私でいられる唯一の場所です。ここを離れる気はありません」
そうきっぱりと、エリシュカは兄に告げた。
ヴィクトルは、無表情に妹の顔を眺めている。
しばし無言で見つめ合った後、ヴィクトルは二人の傭兵に目を向けた。
「最小限に頼むよ。失血死なんてされたら泣くに泣けない」
エリシュカが振り返るよりも先に、背後から大きな手で肩を捕まれ動きを封じられた。
瞬間、左の足首に熱を感じ、次いで鋭い痛みが神経を駆けあがってくる。
「……ッ!」
耐えきれずエリシュカはその場に膝をつく。左足がしびれて熱を持っている。じくじくと痛む箇所に手を触れると、出血していた。
――腱を切られた。
「悪いけど、馬車まで抱えて運んでくれるかな」
ヴィクトルは一切の動揺を見せずに、淡々と指示していた。
再び伸びてくる男の手を弱々しく振り払って、エリシュカは這いずる。もうどこにも逃げられないとみなされているからか、その足掻きを無理に止められはしなかった。
「エリシュカ、あまり動くと傷に障るよ」
兄の呼びかけを無視して、エリシュカは少しずつ縦穴の方へ近づいていく。
真っ暗な穴を覗ける場所まで来たとき、エリシュカは胸元の隠しから、震える手でそれを取り出した。この地点ならもう背後を取られない。一番近くにいるのは兄だけだ。
「……スイ、私に勇気を頂戴」
口の中だけでそうつぶやいて、エリシュカは兄のほうへ振り返る。
「――無理強いをするのなら、私はこれを飲んで死にます」
痛みをこらえながらそう言って、エリシュカは手の中にあるものを口元へ近づけた。
ここへ来る前に傭兵の男に身体検査はされたが、スイからもらったこれは一見武器に見えないから見逃されていた。
ヴィクトルははっとして数歩近寄る。
「まさか毒……? どうやってそんなものを……」
そう言いかけて、合点がいったように頷いた。
「スイか……つくづく忌々しい……」
「それ以上近づいたら、今すぐこれを飲みます。そしてすぐにここから飛び降ります」
それを聞いて、目の前の男たちは動きを止めた。だが、すぐに兄が言う。
「死にたいのなら、すぐ飲めばいい。……でも、ためらっているんだろう?」
エリシュカは黙って動かない。
「本気で死にたくなんてないはずだ。今は混乱してるだけ。冷静になれば、馬鹿なことをしていると分かるはずだよ。君は賢いんだから」
宥めるようにそう言って、兄はゆっくりと膝をついて目線を合わせた。
「……分かったよ、君の嫌がることはしないから。無理に連れて行ったりしない。だから、それを僕に渡してくれ」
白々しい虚言だ。
しかしエリシュカはその言葉に感極まったように、ぽろぽろと涙をこぼしてみせた。
「お兄様……」
幼い少女のように兄を呼ぶ。
「私……痛くて……怖くて……どうしたらいいのか分からなくて……」
「ああ、そうだね」
弱々しく手を伸ばす。
「ずっと見栄を張っていたの……でももう疲れたわ……助けてお兄様……」
ヴィクトルはほっとしたように微笑んだ。
「やっと素直になったね」
そっとエリシュカに近寄って、手のひらを差し出してきた。
エリシュカは落涙しながら、その上に手の中のものを乗せようとする。
そして素早く、筒状のそれの下辺をヴィクトルの手首に突き立て、天辺の突起を押し込んだ。
ぷつりと、何か針のようなものが突き刺さったような感触が、エリシュカの手にも伝わってきた。
「あ……!」
ヴィクトルが短い声を漏らして反射的に手を引っ込めた。
「……何をした……?」
役目を終えたエリシュカの武器が、カラカラと転がって縦穴の下に落ちていった。
ヴィクトルは手首を抑えて呆然としていた。傭兵たちもさすがに困惑して、次の行動をしあぐねている。
エリシュカも、ここから何が起こるのかもう分からない。やれることはやって、もう打つ手はない。
ヴィクトルは立ち上がろうとしたが、うまく身体が動かないのか、覚束ない足取りで岩壁に背を預けた。
兄と妹の視線が交錯する。
「あと少しで取り戻せたのに……本当に忌々しい娘だ……」
そうささやいて、ヴィクトルは力なく苦笑した。
痛みと涙と、悲しさと疲労でエリシュカの視界がぼやけてきた。そのとき、重いものが二つ倒れる音ではっと目を見開いた。




