第四章 ♦ 領土 ③
それから、〈ペトラム〉を包む空気は少しずつ緊張感を増していった。
岩で組み立てた堅牢な櫓門の上階に登ると、〈ペトラム〉の街を一望することができる。街を貫く大通りにアルベルトが目を向けると、物資を運ぶ荷車が行き来をしていた。
街の外部である反対側の岩道に目を向ければ、多少は蛇行しているが、かなり遠くまで見通すことができた。
岩山に四方を囲まれた〈ペトラム〉において、外敵に立ち向かう最善の戦法は籠城戦だ。
街に出入りする道は、交易路と繋がる切り通しの岩道を進んで櫓門を通るしかない。周囲を囲む岩山から〈ペトラム〉内部に降りることはできなくもないが、乱立する岩石で足場が悪く、敵が侵入できたとしても少人数だろう。
よって、唯一の玄関口である櫓門を守り切れれば勝ち、だが突破されればもう逃げ道はほとんどない。
カレイズの掘削作業は継続しているが、鉱夫の何割かはヤナタに率いられて防衛のための準備に人手を割かれていた。
元々警備隊に所属していた者たちに加えて、兵役の経験者や元傭兵をかき集めても百人にも満たないが、櫓門の防衛には必要十分だろう。武器を調達し、即席の部隊を組み上げる。
その他に、坑道を掘り進めるのに使っていた爆薬を、岩道を見下ろす崖の上に密かに設置して、敵が通過するときに岩崩れを起こせるような罠も仕掛けておく。
そして万が一、門を突破された事態を想定して、撤退戦の準備をしておく必要がある。
それについての指揮はヴィクトル率いる商工会の者たちと、エリシュカに任せていた。子どもや老人、病人などは坑道の奥に避難させるが、体力のある者たちは男女問わず、会敵したときのための訓練を施さねばならない。
剣や弓は使えなくとも、〈ペトラム〉にごろごろ転がっている石の塊を投げるだけでも威力がある。
各々の建物の上階や屋上に岩石を積んでおき、孤立しても戦えるように水や食料を備蓄しておく。自分の身は自分で守れるように、備えは万全にしなくてはならない。
今も櫓門の上階は人が忙しなく行き来し、剣や石弓が各所に配置されていた。アルベルトが祖父から受け継いだ鋼の剣は、街の鍛冶屋に急ぎ研磨させている。
人を殺すのは初めてではない。今度の戦いは、どれだけの命を奪い、どれだけの命を守れるだろうか。
♦♦♦♦
エリシュカはスイを連れて、古い坑道の中にいた。
ランプに火を灯し、エリシュカは告げる。
「今のうちにあなたに教えておくわ。――この道の先には、岩山の上に出られる避難道があるの。知っている者は一握りだけ」
スイは心得たように頷いた。
「秘密の抜け道ね」
「そうよ」
迷いのない足取りで、エリシュカはスイを先導する。
「防衛に失敗したときは、ここを使ってできる限りの住民を外に逃がす予定よ。……敵の間諜に悟られないために、この道はぎりぎりまで秘匿されるわ」
「分かった。誰にも言わないわ」
「……まぁ、もう無駄かもしれないけれど」
エリシュカは前を見つめたままそうつぶやく。
真っ暗で狭い道をしばらく進むと、ぽっかりと空いた小部屋に出た。寒々しい空気を感じる。
「ここは地下墓所よ。ここは最奥だから、あちらへ行けば地上に出られる」
よく見ると、小部屋はまた別の小部屋につながっているようだ。部屋の岩壁には三段の等間隔に穴が掘られていて、その中には布に包まれた人型の何かが安置されていた。
寒くて乾燥したこの穴蔵では、遺体は腐らずに木乃伊になるようだ。こんな集合墓室が向こうへ次々連なっているのだろう。
エリシュカはそちらは無視して、更に奥まった場所にある扉を開けて、その先の坑道らしき道を進んだ。
進むにつれて、坑道は古くなり、工具の類が落ちていることもなくなり、ランプがなければ真の闇の中だ。まるで地の底に向かっているように思えるが、実際は徐々に上方へ登っているのをスイは感じた。
「……あなたに頼みがあるのだけれど」
しばらく黙っていたエリシュカが、不意にスイに言った。
「私にも扱えるような、武器はないかしら」
それにスイは尋ね返す。
「どんなものがいいの?」
「……あまり大きくない、服の下に隠し持てるもの。それから……いざというとき、私の尊厳を守るために使えるもの」
エリシュカの言葉は闇を伝ってスイに厳かに届く。
「短剣くらいなら自分で調達できるけど、実際に上手く扱えるかどうか……」
スイはエリシュカの袖を引っ張って足を止めさせた。
「これをあげるわ」
スイはいつも腰に提げてるポシェットから、小さなものを取り出してエリシュカに渡した。エリシュカの手のひらに乗ったそれは、万年筆のような筒状の形をしていた。
「刺して天辺を押してもいいし、中身をそのまま飲んでもいいわ。油断させやすいし、簡単でしょ?」
エリシュカはそれをそっと握る。
「女の武器といえば、これよね」
スイは悪戯っぽくそう言った。エリシュカは目を伏せる。
「私が、何と戦っているのか、分かってるのね」
「うん、きっとね」
「……アルベルトには、分かってもらえるかしら。全然気付いてないんだから……」
スイは苦笑した。
「男の人って、鈍いわよね」
エリシュカは、この場で何もかも吐き出してしまいたい衝動にかられた。一人で抱えてきた悲しみも不安も全て。
しかしかろうじてこらえた。そんなことで救われるほど、己は弱い人間ではないはずだ。
スイが分かっていてくれるなら、それでいい。
「戦になったら、そばにいてあげられるかどうか約束できないわ。アルベルトのことも助けなきゃだし。でも、私はいつだってあなたの味方よ」
スイはエリシュカの手を取ってそう告げた。
「……ええ。もし一人になっても私は戦うわ。あなたがくれたこれがあれば、きっと勇気を出せる。だから、私の代わりにあのお馬鹿さんを助けてあげて」
エリシュカは祈るようにスイの手を己の額に当てた。
闇に抵抗する健気なランプの灯が、寄り添う二人を黄金色に照らしていた。
♦♦♦♦
その婦人は、暮れかけた陽光が射す小さなテラスに、こじんまりと座っていた。
「こんにちは、大奥方様」
スイは彼女にそっと近づいて、跪いて顔を見上げた。声を掛けても反応がなく、目線も合うことはない。
彼女は先代の頭領アルヴィン・フヴァータルの妻、ミカエラだ。身なりは清潔できちんと整えられているが、まだ壮年であるはずなのにすっかり老女のような佇まいだ。
――でも、とスイは思う。愛する人を想いながらゆっくりと死に向かう人生は、哀しいけれど不幸とは思えない。
「私はスイといいます。今日は、アルヴィン様の御本をお持ちして来たんですよ」
スイはミカエラの膝に恭しく革の本を置いた。
「鉱物図鑑です。ご覧になったことがありますか?」
微動だにせず遠くを見ていた目が、不意に本の上へ投げかけられた。スイは彼女に代わってページをペラペラとめくる。
「わぁ、色が付いてて美しいわ。アルヴィン様はどんな石が好きだったんでしょう?」
しばらくの沈黙の後、ミカエラが何かをつぶやいた。スイは腰を上げて耳を寄せる。
「……あのひとがすきだったのは、いきもののいし」
聞き取ったスイは、微笑みながら彼女を見た。
「そうなんですか。もしかして、ここで見つけたんですか?」
ほんの刹那の間、ミカエラの沈んだ瞳に光が宿った。
「あのひとの、からだのかわりに、あそこにおいてきたわ……」
そのとき、街の鐘がけたたましく鳴らされて、スイははっとして身を起こした。常には時刻を報せるその鐘だが、この鳴らし方は緊急事態の合図だ。
「お話できて良かったです。また今度お会いましょう」
すでに再び心を閉ざしたミカエラにお辞儀して、スイは階下へ走り去った。




