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第二章 ♦ 女主人 ⑥



 馬車で運ばれた大道を小一時間ほど遡ると、打ち捨てられた廃村にたどり着いた。


 この場所に〈ペトラム〉へ帰るための馬を密かに用意してもらう手筈だった。

 崩れかけた家屋の一つに近づくと、木につながれた馬が二頭と外套を羽織った人物が一人いた。


「こんばんは、ライラさん?」


 スイが声をかけるとその人物が振り返った。


「こんばんは、あなたがスイね?」

「はい。お待たせしました?」

「それほどでもないよ」


 ライラは眼力の強い骨太な中年の女性だった。

 大道から見え難いよう小さく焚かれた焚き火を足で消しながらスイに問う。


「無事かい? お腹は空いてる?」

「はい。馬に乗りながら食べられるものあります?」

腸詰肉(ヴルスト)とパンがあるよ。じゃあ早速出発しようか」


 ライラは懐から小さなものを取り出した。よく見てみるとそれは生きているハヤブサだった。

 ライラが手を離すとハヤブサは颯爽と夜空に飛び立っていった。


「〈ペトラム〉で待ってる人達に報せを送ったよ。早く帰って顔を見せてやろう」


 それぞれの馬に乗って、とりとめもない話をしながら帰り道を進んだ。


 ライラは山羊や馬の管理をする家畜番達のまとめ役の一人だという。エリシュカに依頼されてスイの馬を運ぶ役目を引き受けてくれたそうだ。


「懐かしいな。アタシもこの道を走りながら〈ペトラム〉に逃げ込んだんだ。ずいぶん昔の話だけどね」

「〈帝国(ローマ)〉から?」

「そう、アタシはあそこで娼婦をしてた」


 スイはライラに問う。


「今の暮らしは楽しい?」

「もちろん。だからアタシは、〈ペトラム〉の娘達を守るためなら何だってやるよ」


 一週間ほど馬で歩き続けて、ついに〈ペトラム〉へ通じる岩道と大道の交差路までたどり着いた。

 日が暮れかけていて、地平線が赤く染まり、群青の夜空に溶け込み始めている。その夕闇の中に、こちらに手を降る人影があった。


「お館様!」

「アルベルト?」


 黒毛の馬を連れたアルベルトが岩道で待っていた。


「そろそろかと思ってね」


 ライラが馬を降りて会釈する。


「無事にお連れ致しました」

「ありがとう。疲れただろう?」

「私はそれほどでも。でも馬達はそろそろ荷を降ろさせたいですね……」


 スイも地面に降りて、感謝をこめて馬のたてがみを撫でた。


「ここからなら、曳いて歩いても日没までには着くでしょう。お館様はスイを連れて先にお戻り下さい」

「私もまだ疲れてないし、歩けるわよ?」


 アルベルトがスイにウインクした。


「お言葉に甘えよう。エリシュカが首を長くして待ってるから」

 

 ♦


 スイとアルベルト二人を乗せた牡馬は速歩で岩道を進んだ。


「寄りかかってもいい?」

「いいよ」


 スイは後ろのアルベルトの胸にそっと体を預けた。冷え始めた大気に対して背中に感じる体温が心地良い。ほっと息をつく。


「もっと力を抜いてもいいよ。落とさないから」

「優しいのね。お伽噺の騎士みたい」

「剣も鎧もないし、実際に君を守ったのは君自身で僕は何もしてないけどね」

「ふふふ、迎えに来てくれただけで十分よ」

「エリシュカに行けとせっつかれてね。ものすごく心配してたよ」

「そうなの?」


 見上げるスイにアルベルトは微笑む。


「ずっと母熊みたいに気が立ってたよ。言葉にはしないけど、自責の念でいっぱいなんだろうね……」

「私が言い出した計画なのに」

「許可したのはエリシュカと僕だから」

「そっか……」


 スイがにやけているのに気付いてアルベルトは尋ねる。


「呆れてる?」

「ううん、そんなに心配してくれるってことは、私がエリシュカの心にそれだけ入り込んでるってことでしょ? それが嬉しいの」


 悪びれなくそう言うスイにアルベルトは苦笑した。


「ともかく、無事で良かった」

「うん」


 ♦


 空の彼方で日が暮れかけている。

 通常なら〈ペトラム〉の櫓門を閉じる時間だが、今日はエリシュカの命で開けたままになっていた。その柱にもたれながら、エリシュカは待ち人の帰りを待っている。


「奥方様、どうぞ」


 フィオナが温かいお茶の椀を持ってやってきた。


「ありがとう。あの子の様子はどう?」


 バルデンから盗んだ流民の娘は、救い出されたと理解したとき、涙を流して安堵していた。そして家族の元に帰るよりも〈ペトラム〉で暮らすことを望んだ。

 相談の末、農場の働き手として受け入れることになった。


「名簿の登録も済みましたし、仕事も真面目にやっているようですよ。良い子を迎えられてよかったです」

「そうね」

「あの……改めて感謝致します。私のような者達の願いを聞いて頂いて……」


 フィオナが緊張した面持ちで頭を下げる。〈ペトラム〉の商店や工房で働く者達は、リンデン家の者に対して特に畏れを抱いている。なぜならリンデン家が彼らを支配しているも同然だからだ。

 今ここでその是非について議論するつもりはないから、エリシュカは椀を返しながら平静に答える。


「〈ペトラム〉では駆込み女の保護を何度もやってきています。慣習通りにしたまでのこと。今後も何かあったらスイに伝えるといいわ」


 正確に言えば今回の件は過去の事例とは異なる難題だったが、舞台裏の葛藤をわざわざ伝えることはない。〈ペトラム〉は守られているのだと住人達に信じてもらわねば、秩序は成り立たない。


 フィオナはもう一度深くお辞儀をして帰っていった。肩に掛けたブランケットを胸元で合わせながら、エリシュカは再び岩道の向こう側に目をやる。小一時間ほど前にアルベルトを送り出してから、まだ人影は見えない。


 あの日、バルデンと交渉をした覆面の婦人を演じていたのは、もちろんエリシュカだ。

 極秘裏に実行するためにも無関係の人間に任せることはできず、かと言ってアルベルトでは例え顔を隠しても正体がバレる可能性がある。それに女が持ちかければ、この突拍子もない取引でも相手に呑ませる勝機がある、というのはスイの意見だ。


 あの応接間の一幕が全てが猿芝居だったとはいえ、スイを人身御供に差し出すようなことをするのは、エリシュカにとって重たい石でも飲み込んだような不快感があった。

 市場での一件からして、スイがただの娘ではないことは分かっていても、リスクが大きい計画だ。

 道中での脱出に万が一失敗すれば、〈帝国(ローマ)〉に売られる娘をただ入れ替えただけの結果になるかもしれない。殺される可能性もゼロではない。私が彼女を独りで行かせてしまったせいで。


 ――あるいは、あの交渉の場でスイが並べ立てたでまかせは、半分くらいは本音だったかもしれない。

 計画が成功したかどうかこちらがやきもきしている間に、スイは商人達に取り入って、〈帝国(ローマ)〉で新たな人生を始めるための彼女だけの計画を立てているのかも……とあらぬ方向へ思考が飛んでいく日もあった。

 好きだとか愛だとか、私の手足になるだとか、耳障りの良い言葉を並べ立てていたくせに、結局は気まぐれな女の戯言であったとしても不思議ではない。真に受けそうになった自分が愚かなのだ。


 そんな空想が堂々巡りに陥りそうになったとき、スイの帰還を報せるハヤブサは舞い戻ってきた。

 その報せを聞いたとき、胸中に湧いたのは深い安堵と、それを感じてしまった自分への照れ臭さだ。新たな侍女を雇うと決めたあのとき、こんな事態になるとは想像もしていなかった。


 やがて岩道の向こうから、馬に乗った人影が見えた。

 辺りは大分暗くなっていたけれど、こちらに気付いた少女が大きく手を振っているのが見えた。別れたときから変わりない姿。何の怪我もなさそうだ。

 馬がすぐそばまで来て、アルベルトとスイが降りるまで、エリシュカはその場から動かずじっと立っていた。スイが駆け寄ってきて、いつもの可愛らしい満面の笑顔を浮かべる。


「ただいま!」

「……おかえりなさい」


 本当に帰ってきた。それを実感しただけで目に涙の膜が張ってしまった。

 それをまばたきでごまかす前に、スイががばりと抱きついてきたので、涙の粒が大気に弾けて散っていった。


「エリシュカも迎えに来てくれたのね、ありがとう!」


 エリシュカはおずおずとスイの背に手を回す。


「……生きててよかった」

「もちろんよ、あなたを悲しませるようなことはしないわ」


 ささやくスイの吐息が温かかった。


「私はあなたの手足だもの、どこにいてもつながってるわ」


 その言葉は真実の響きがあって、信じてもいいと思った。彼女の全てを信じてもいいと。そんな心持になるのは初めてのことかもしれない。そんなに愚かで、神々しいような心持ちには――。


 スイの肩越しに、アルベルトと目が合った。微笑ましく見守っているような眼差しが少し腹立たしい。そんな思いを知ってか知らずか、アルベルトはからかうように言った。


「エリシュカに親友ができて嬉しいよ。今まで侍女はいても友達はいなかっただろう?」

「あら?」


 エリシュカに抱き着いたままスイはアルベルトを振り返って反論した。


「親友でもあるけど、それだけじゃないわよ。でしょ?」


 スイは瞳を輝かせながらエリシュカの目を覗き込んだ。


「……そうね」


 エリシュカはアルベルトに見せつけるように、スイの頬に自分の頬を擦り寄せた。

 直接肌を触れ合わせることに何の恐れもなく、素朴な心地よさがあった。


 きょとんとした顔のアルベルトを見て、してやったりとスイと二人でくすくすと笑い声を上げる。


 こんなに愉快で幸福な宵は今まであっただろうか。きっと一生忘れないだろう。



 第二章 ♦ 終





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