第二章 ♦ 女主人 ⑤
〈ペトラム〉から〈帝国〉に出立する前日、バルデンはハサンの宿の応接間に足を踏み入れた。
昨日、バルデンが扱っている商品を内密に買いたいという、匿名の相手からの申し出を使者から受け取った。
興味を引かれて指定された時間に応接間の扉を開けると、顔をベールで隠した女が部屋の奥の衝立の前に座っていた。上等な仕立てのドレスからして、裕福な家の婦人だろうか。
バルデンは相手を品定めしながら挨拶する。
「初めまして、でよろしいでしょうか? どこで私の商品のことをお知りに?」
婦人は扇を揺らめかせながら答える。
「あなた、ククリクの店に商品を連れて行ったでしょう? それだけで伝わるところには伝わるのよ」
バルデンは苦笑しながら用意された椅子に座る。
「なるほど。しかし、あれはすでに予約した客がいましてね。そう簡単にはお譲りできかねまして……」
婦人は扇をついとバルデンに向けた。
「正確に言えば、買いたいのではなく交換したいのです」
「交換?」
突飛な話にバルデンが怪訝に思っていると、婦人は背後に声を掛ける。
「いらっしゃい」
すると、衝立の後ろから一人の少女が現れた。黒髪で東方の顔立ち。
ほっそりした体にデコルテの開いたドレスが倒錯的に目に映る。
「この子は私の下女の一人なのだけれど、辞めて〈帝国〉に行きたいとうるさいのですよ」
少女は口をとがらせる。
「だって、憧れなんです!今の世界の中心は〈帝国〉でしょ? あちらでお大尽に見初められればずっと裕福に暮らせますもの」
「そううまく行くかしらね……」
婦人は呆れたように言ってバルデンに向き直る。
「私としては下女が減るのは困るのだけれど、代わりの者を見つければ許可すると言いましたら、この子はあなたの商品に目をつけたましたのよ」
「ほう?」
少女は意気込んで言う。
「あなたは〈帝国〉の商人さんでしょう? どうか私を連れて行って!」
バルデンは頬を歪めて問う。
「……自ら売られたいと言っているのか?」
「そうよ」
少女は不敵に笑う。
「あなたは高い商品しか扱わないって聞いたわ。ということは、買い主はお金持ちでしょ? 私みたいな小娘が上流にのし上がるには絶好の機会よ」
「ふむ? 何倍も年上の男の愛人になるとしてもか?」
「覚悟の上よ。私、きっとうまくやるわ」
婦人はため息をつく。
「どうしてもと言うから、着飾って連れてきましたけど、どうかしら? 商品にするには見劣りするかしらねぇ……」
バルデンは顎髭を撫でながら、改めて少女を頭から爪先まで眺めた。
着せられているドレスはあまり似合っていないが、もう少し清楚な服に替えれば、〈帝国〉で待っている素人好みの下衆な買い主が気に入りそうな素朴な魅力がある。
それでいて、中身は女商人のように野心が強い。
今抱えている商品の娘は、明らかに〈帝国〉行きに乗り気でなく、見張りに気を遣うが、この少女なら逃亡の心配が多少は薄れる。
「……まぁいいでしょう。衣装代と道中の飲食代はそちらで持って頂けますね?」
婦人は仕方ないという風に頷いた。
「このじゃじゃ馬を引き取って頂けるなら、それくらいはお安い御用ですわ」
「代わりの娘は羊のように大人しいですので、御婦人のお気に召すかと」
「あら、それは嬉しいわね」
契約の成立として、バルデンと婦人は握手を交わした。
それを見て、黒髪の少女はにんまりと笑っていた。
♦
〈ペトラム〉から〈帝国〉の辺境の街までは、馬車で二週間かかる道のりだ。その道中には小さい村があったり、商隊が休めるような川が近い平地が点在している。
旅程を半分ほど過ぎた頃、日暮れにバルデンの商隊は無人の空き地に野宿をした。五台の荷馬車を並べて止め、人間たちと馬たちは食事をし、夜が深まれば焚き火を消して荷台で休む。
商品として馬車に載せられたスイは、鎖こそつけられなかったが、排泄の用以外では商品用の荷台から出してもらえず、奥に据えられた柔らかいクッションの上で寝起きしていた。
そしていつもは外で見張りをしている護衛の男たち数人が、今夜はにやにやしながら荷台へと入ってきた。
(そろそろか……予想通りね)
旅を始めた頃から、スイにちょっかいをかけたそうな目線を何度も向けていた五人だ。こっそり腰を触られたこともある。誰も彼も大柄で筋肉質で、眼の前の娘など絶対自分に逆らえないと思っている。
「こんばんは、お嬢ちゃん」
「……こんばんは、何か用?」
「『何か用?』だってよ、ハハ!」
男の一人が、木箱のひとつから酒の瓶を取り出して栓を開けた。
「まずは酌でもしてもらうか?」
大の男達が車座になればもうスイに逃げ場はない。スイはフンと一つ鼻を鳴らした。
「おためごかしは結構よ。バルデンさんはこんなこと許してるの?」
男の一人がやれやれと肩をすくめる。
「気にしやしねぇよ。傷物にさえしなきゃいいのさ」
スイの隣に座った年嵩の男が顔を近づけてくる。
「お嬢ちゃんだって、どっかの成金の愛妾になる前に、お勉強はしときたいだろ? 何だって教えてやるぞ。俺達全員でな」
「全員だなんて……もうちょっと丁重に扱ってもらわないとね」
スイは男達の顔を順繰りに見る。
「……で? あなた達の中で一番強いのは誰なの?」
「はぁ?」
「どの殿方が一番いい男?」
男達はきょとんとスイを見る。その隙にスイは男の手から酒瓶を奪って掲げた。
「私はそんなに安くないのよ。――この中で一番の男にだけなら、何だってしてあげてもいいわ」
そう言ってスイは嫣然と微笑んでから、酒瓶の冷たい肌に小さな音を立てて口付けた。
やにわに男達の顔色が変わり、互いに睨みを効かせ始める。
「……少なくともてめぇは俺より格下だな」
「あぁ? 今なんつった?」
「お前らはどっちも雑魚だろ」
「おい! やる気か!」
「いい機会だ。白黒つけようぜ!」
男達が狭い荷台の中で小競り合いを始めたのを横目に、スイはこっそり酒瓶の中に薬を入れる。そして声を上げた。
「ちょっと! こんなところで殴り合う気? やめてちょうだい!」
「だってお前、さっき……」
「もっとエレガントにやりましょ。丁度ここにお酒があるんだから」
スイはにっこり笑って瓶を差し出した。
「酒が強いのも男の甲斐性でしょ?」
♦
数時間後。最後に意識を保っていたのは年嵩の男だった。
「勝った……勝ったぞ……俺が一番、だな……」
ぐらんぐらんと体を揺らしながら、スイの方に手を伸ばす。慈愛に満ちた笑みを浮かべるスイにその手が届く前に、年嵩の男はどさりと倒れて意識を失った。
他の男達はとっくに薬が効いて、てんでに床に転がっている。
「そうね、あなたが勝者よ」
いびきをかいている年嵩の男の額にキスをしてやると、眠りながら男の顔がにやけた。きっと良い夢が見られるだろう。
「でもごめんなさいね。もう行かなきゃ」
転がった男達を踏みつけながら、スイはさっさと荷台を脱出した。
♦
外はすっかり夜更けだが、満天の星が出ていて方向は分かる。そろそろと荷馬車の列の脇を通り過ぎようとしたとき、一つの荷台から話し声が聞こえた。
荷台の窓は開いていたのでスイはそっと中を覗いた。
ランプの明かりで照らされた中には、バルデンと彼の相棒の商人とが酒を飲みながら話をしていた。漏れ聞こえる内容と、地図を広げているところを見ると、今後の旅程について話し合っているのだろうか。
「"龍の守護団"はまだ東方に留まっているだろうか」
不意に相棒の商人がそう言った。バルデンがにやりと笑う。
「そろそろ西に進出するという噂だな。今まで通った交易路はきな臭くなるだろう」
「〈首長国〉への販路はしばらく使えないな……ちっ、忌々しい山賊風情が」
「今回の仕入れで十分な利益は得られる算段だ。〈帝国〉に帰ったら数年は大人しい商売をすればいいさ」
それから話題は別の方向に移り、スイはその場を静かに離れた。




