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無名の国手  作者: よよよ
8/10

8月29日

最近少佐の姿を見ていない。

それこそY先生と少佐を会わせて以来だった。

私はF軍医に聞いてみた。彼はキョロキョロ周りを見てから声を潜めて教えてくれた。

「…巣鴨らしい」

巣鴨とは所謂『巣鴨プリズン』のことで戦犯が行くところだ。しかし軍医が戦犯とはどういうことだと思っていると

「少佐は東京で軍医見習いを教えていただろう。同時に捕虜施設の軍医でもあったらしい。」

教えていながらも捕虜施設の軍医でもあったとはどれほど人手不足であったか垣間見えた。

「死亡診断書を書いていたのが仇になったらしい。捕虜が死にすぎだとさ。実際は日本兵よりいい食事だったのにな。国からの配給も少ないし、少佐は出来る限りのことをしたと思う。」

真面目に仕事をしていた人から連れていかれる…。

全く酷い時代だ。

結局少佐のすぐ下のT軍医が我々の中の1番上となった。

「軍医の後の仕事…っていうのも考えていた方が良いかもな。」

F軍医はそういうと去っていってしまった。

考えたこともなかった。軍部は解体されるだろうし私は軍医でなくなったらどうすれば良いのだろう。

そもそも武装解除として軍刀は取られてしまっている。最早ただの医者ではないか。

1人で居ると不安で誰かと話したい気分だ。


暗い気持ちのまま街へ出た。街では未だに医者が求められている。どうせ軍医でなくても私は医者は続けるだろう。


暫く歩いていると人だかりがあった。怒声や英語が聞こえた。米兵が騒ぎを起こしているのか…とこれまた暗い気持ちになった。

怪我人がいては困ると思い、人混みに近づいた。

中心に居たのは頭や鼻から血を流していたY先生だった。

「Y先生!?」

Y先生は酷く怒っているようだった。目の前の米兵を膝をついたまま見上げている。

それを止めていたのはKさんだった。

「Stop!Enough!Listen to me!」

Kさんは怯むこともなく間に立ってY先生を庇っていた。米兵が怒鳴り散らすのをKさんは丁寧に一つ一つ言葉を返していた。

周囲の日本人はザワザワしつつも事態がよく分かっていないのか遠巻きに見ていた。しかし、米兵に対して良い視線ではない。

やがて、米兵は舌打ちし銃底を鳴らして去っていった。

KさんがY先生に駆け寄るのと同時に私も声をかけた。

「大丈夫ですか!?」

Y先生は立ち上がって白衣についた土を払いながら

「K…医師と言ったね。どうも有り難う。君はイギリス人なのかい?」

此方が心配して聞いているのに英語を聞いて一目でイギリス訛りと見抜き、質問をした…私はもはや呆れてしまった。

「あぁいや、私は日本とアメリカの血の混ざった人間ですけれど…そんなことはいいんですよ!貴方怪我は…」

「ハハ…日本人でもアメリカ人でも有り、紳士的な英語を話すとは!面白い方ですねぇ…」

言いながらも鼻血は止まっていない。Y先生が白衣で拭おうとするのでKさんと止め、ガーゼを詰めた。

暫くして落ち着くと、いつもすましてるY先生が鼻に詰め物をしているのはなんだか面白くなってきた。


「…それで何が有ったんです?」

私が聞くと

「いやぁなんでもないよ。彼とは分かりあえなかっただけだ。」

誤魔化しだ、と思った。

「誤魔化さないでください。仲裁した恩として何があったか答えて下さい。」

Kさんはいつもニコニコしていたので真剣な顔を初めて見て吃驚した。

「……女の子が襲われかけてたんだよ。米兵に。」

気まずい時間が流れた。

Kさんはこの中の誰よりも怒っているように見えた。

「すみません、Y医師…。」

「何故君が謝る。アメリカ人の血も入っているからか?」

確かに…戦勝国の人間でもあり敗戦国の人間でもあるKさんは今の状況をどう思っているんだろうか。

「兎に角…すみません。私がこの辺の師団の上の方の人にこの話は伝えておきます。」

Kさんは通訳として呼ばれると聞いていたが、そこまで自由な人間であったとは…私は面食らった。

「君はその訛りでなにも言われないのか?」

「イギリス訛りの英語のことですか…?」

「まあ、英語は文字通りイギリスのものだけれど」

「私は見た目がアメリカ人ですのでなにも言われませんね。」

とそう言った彼の顔は悲しそうだった。

「私は日本で生まれて、イギリスに留学しました。」

「へえ、アメリカではなく?」

「ええ、父の仕事がイギリス関係のものだったので」

それから彼は自分の人生について話し始めた。


日本で生まれて…やはりこの見た目なので苦労はしました。でも、母の友人達やその子供は凄く仲良くしてくれて…良い子供時代を過ごさせていただきました。

子供は純粋で、見た目が違って1度は容姿について聞かれても仲良くしてくれました。

父はずっと海外で、私は会ったことがありません。

それでも父を追いかけたくて留学しました。

母を日本に残すのは寂しかったですけど、母は賛成してくれました。

イギリスに行って、分かったことがありました。

それは差別です。

差別が文化並みに根付いているんです。

これは多分、欧米列強…海外は皆そうだと思います。

私は初めての海外で不安でいっぱいだったんですが、運良く同じアジアからの留学生と会いました。

彼はイギリスの血が入っていて英語も私より上手くて、仲良くなれて安心しました。

しかし彼は差別を浮けました。私と違って見た目が完全にアジア人だったので…。

英語が上手くて会話できてもやはり、彼らにとって人間は見た目が重要らしいのです。

それから彼がどうなったか分かりません。

いつの間にか居なくなっていました。死んでいないことを祈るばかりです。


私は絶句した。そこまで酷いとは考えてもいなかった。彼にディケンズが好きでイギリスを旅行したいという話をしていた。彼がどういう気持ちで聞いていたか考えると申し訳なくなった。


「私はそれから日本に戻って留学時の経験を活かして医者になりました。母は戦時中に肺を悪くしてそのまま亡くなりました…」

「じゃあ…Kさんの父親はなにも知らず…?」

「ええ、知らないでしょうね…最も会ったこと無いですけれど。」

Y先生は黙って聞いていた。

「ふふ、差別が文化…面白い表現だ。」

とだけ言った。

「良い人も居るのは知っていますよ。じゃないと私は産まれてません。」

長話がすぎましたね、とKさんはY先生の顔の怪我を再び確認しようとした。

これでも医者だ、とY先生はするりと避けたが…。

「君みたいな人間が、これからの世界に重要になっていくんだろうねぇ。」

と言い、Y先生は去っていった。


「一緒に行かなくていいんですか?」

とKさんに声をかけられてハッとした。

そうだ、Y先生と一緒に私達が宿舎にしている所ではない学校に沢山いる患者を診に行く予定であった。

「すみません、失礼します!」

と私はKさんに頭を下げてY先生を追おうと向きを変えた。

しかし私は『イギリス』のことに関して気がかりで足を止めてしまった。

「…いつか海外に自由に旅行できますかね。」

私が話題を掘り返したのでKさんは驚いた表情だった。彼にはきっと私の言った『自由』が国境の移動だけではない事が理解できたはずだ。

「…ええ、きっといつか。…きっと自由に旅行できる日が来ますよ。」

それから私はY先生を追った。




私はY先生を校舎内で探した。

探そうと色々な教室や廊下を歩く度に呼び止められ、診察を求められた。

それが医者の役割なので私は皆に処置をしたが、ほとんどの人が助かりそうもない人だった。

Y先生はこの人達の間を颯爽と通り抜けたのだろうか。

まあ、Y先生ならしそうだが。

次に覗いた教室にY先生が居た。

今しがた亡くなった遺体の前に居た。遺体は服が爆風か熱線かでボロボロで、軍医だというのに気付いたのは一緒に遺体の目の前に居た妻の話からだった。隣には遺体の男の弟もいる。

「あぁ…広島に配属されなければ…」

妻はずっと泣いていた。

手元を見ると蜂蜜など恐らく都会の方から持ってきた荷物や治療の痕跡が見えた。恐らく蜂蜜は火傷の傷に塗る用で、遺体の男が手紙かなにか出したのだろう。

「私が来た時にはもう体が真っ黒で…蜂蜜を塗ったけどもう駄目で…」

私もここに来るまでに校舎の中でこのような人を沢山見てきた。

ガラスが突き刺さったままの遺体、目玉が飛び出した遺体、臓器が飛び出した遺体……

彼も軍医なら恐らくもう助からないことも自分が受けたものが普通の爆弾ではなかったことも分かっていただろう。

どうやらY先生がこの校舎まで彼を運んだらしく、妻は泣いていてそれどころではなかったが、代わりに弟がY先生にお礼を言っていた。

Y先生は死亡届を書いて渡した。もう医者ではなくこの書類を書くためにいるような気がした。

Y先生はなにも言わず、ただ手を合わせて教室を出ていった。

彼のように火傷で真っ黒の死んだ遺体が教室の隅に沢山並んでいたので、廊下を歩いて校舎を出ようとすると黒いものが視線だけ此方をジッと見ているようで背筋が凍った。8月の末なのに薄ら寒かった。

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