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無名の国手  作者: よよよ
6/10

8月27日

今日も外回りで街に出ていた。

昨日の闇市近くの広場で炊き出しを食べていたY先生と会った。

「おや、奇遇ですね。」

「……なに食べてるんです」

「見ての通り炊き出しですよ。」

ま、米兵の残飯かき集めただけですけどね、と付け加えた。

Y先生は平然と食べているし、周りもそうである。

「草花もみーんな燃えたけぇ、もう食べるものなんて無いんですよ。空腹は衛生観念を殺します。食べてみませんか。」

Y先生はニヤリと笑った。面白い時は意地悪く笑う人だ。私は一瞬躊躇ったが、医者として患者が食べそうな物は食べてみておかねば…と覚悟を決めて受け取った。

汁は温くて生臭くて塩気が異常に強かった。

しかし、こんな状況なら食べ物と認識して食べてしまう…生物の生存本能はすごいと思った。

しかし2口目で何か弾力の有るものが引っ掛かった。

「…?」

顔をしかめ、私がそれを箸で引き上げると…

ぶら下がっていたのは、先端のしぼんだ薄いゴム状の──

「!?!?…こ…コ…」

私が言葉に出す前にY先生が腹を抱えて笑い始めた。

「アハハハハハハ!!」

「Y先生!!」

ハッキリ言おう。使用済みのコンドームだった。

「これはまたっ…!ふふふっ…仕事に精が出ますよ…!ふふふっアハハハハ」

そんな上手いこと言っている場合か!と私は混乱した。涙まで浮かべて笑うY先生に周囲も目線を此方にやった。

「どうしたんだ兄ちゃん」

私の手元を見た瞬間、意味を察した男が吹き出した。

「ガハハハハ!そりゃ縁起が良いな!」

「米兵は元気だなあ!」

「運ついてるよ~!」

誰かが背中を叩き、笑って、口笛も聞こえた。

私は真っ赤になったまま嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。

勿論、そんなものが入っていた物を続けて食べる気にはなれず持ったまま座っていた。

「ふふっ…もういらないんですか?」

「…はい、充分です。」

「はぶてちゃいました?」

「?」

後から分かったが、『はぶてる』は所謂『拗ねる』といった方言らしかった。


「Y先生!」

いきなり子供数人に話しかけられた。

「ああ…貴方達ですか。……これ要る?」

「お腹空いた!欲しい!」

子供達はさっきコンドームが入っていたソレを普通に食べ始めた。私が呆気にとられていると

「炊き出しはね、相当長い間並ばなくちゃいけないんですよ。子供達には無理でしょうね。」

Y先生は相当並んでいたのか…と思うと少し申し訳なくなった。

「はい、これもどうぞ。見つからないように食べんさいよ。」

と言うと、Y先生は持っていたチョコレートや缶詰を子供達に渡した。よくもまあそんなに持っている物だ…。子供達の態度を見るにこんなにガラの悪そうな医者でも懐くのか…と思ってしまった。

「有り難う!」

「先生、左様なら~!」

と子供達は去っていった。見送るとき振った手首が白衣から出ているのを見た瞬間ハッとしてY先生の腕を掴んだ。

「……。H軍医。どうかしました?」

そう、あんなにもチョコレートや缶詰を持っているわけ無いのだ。しかし全部渡していたとしたら…。

「…Y先生のご飯は。」

「食べてますよ。」

「何処がですが!?」

私はY先生の手首が見えるように掴み、先生自身の目の前で見せた。骨が浮いていた。

「元々肉が付きにくいんですよ。こんなもんです。」

「嘘つかないで下さい。」

「H軍医は優しいですね。」

「そんな問題じゃありません!」

自分でも珍しく声を張り上げているのに気がついた。私はそのまま怒りのままY先生を置いてけぼりにして外回りへ行こうと知らない路地を突き進んだ。




「お兄さん、ちょっと、寄ってきませんか」

艶やかな声が聞こえてきた。

私は足を止めてしまった。女は芸者だった。

「見るだけでも良いんです。買うてくれとは言いませんから、ね。」

腕を掴まれた。私は完全に困惑して動けなくなってしまった。

「アレ、本当に精が出るようですね。」

後ろにY先生が居た。走って置いてけぼりにしてしまったのに追いかけてきてくれていたのだ。

「H軍医、女の趣味はないと思っていました。」

「あら…そうなんですの?」

お若いですものね、と言われようやく腕を離された。

「じゃあ、貴方には女の趣味、お有りで?」

と次はY先生の腕をとりはじめた。

「フフ…もう女は懲り懲りですよ。」

Y先生にも女の趣味が有ったのだろうか…否、無くても有ったようにあしらいそうだ…。しかし、この余裕な態度!差を見せつけられて少しムカついた。

「……貴方、体調悪いでしょう。」

とY先生がいきなり声色を変えた。流石医者である。こんな状況でも相手をよく見ている。ここでも差を見せつけられてしまった。

「よろしければ、診させてください。」


女が身を寄せていたのは声をかけられた通りの裏の半壊した家だった。鏡台のみが奇妙に置いてあった。

「ここね、わたくしの家じゃあないんですよ。」

「流石、芸者ですね。」

「でももう、道具も着物もみんな燃えてしまいましたから…」

「だから体を売るような真似を?まあ悪い事とは言いませんけど。」

貴方は、若いそこのコと違って冷たいのね。と女はからかった。

Y先生が診て、私がカルテを書いた。

「名前は言わないでおきます。もう、芸も身分も…分からなくなってしまったけぇね…」

Y先生が脈を取って、皮膚を観察し、喉を見た。

確実にピカドンの…放射の症状が進行していた。

Y先生はこの事を伝えるだろうか。

「先生、本当の事を仰って下さいね。日に日に酷うなっているのは、わたしが1番分かってます。」

診察では見なかった着物で隠れた腕を見せてきた。

紫斑が広がっていた。

「鏡…見とうないんです。でも、それから逃げたら本当に芸者として死んでしまう気がして…」

私が何も返せないでいると彼女は暗い話はお仕舞いにしましょ!と鏡台から1冊の本を取り出した。

──『痴人の愛』

「谷崎ですか。」

「先生はお好きで?」

「嫌いではないですよ。自分には少々、熱すぎましたが」

「先生は本当に奥手ですねぇ!」

と女はケラケラ笑った。

「うふふ、そちらのお若い先生は恥ずかしがりそうで可愛いですねぇ」

いきなり話を振られてハハハと笑い返すことしか出来なかった。話を振ってくるのは芸者の性だろうか…此方を楽しませようとしてくるのが感じられてなんだか申し訳なくなった。

カルテを書き終わってから私は女に言った。

「…もうこの商売辞めた方がいいですよ。」

「うふふ、存外無責任なこと仰るのね。」

悲しそうに笑った。

「…辞めた方がええのは分かってます…分かってますけど…」

「芸者として死にたいですか。」

Y先生が彼女の言わんとする事をハッキリ言ってしまった。

「先生は、わたくしを美しいまま殺してくださいますか。」

空気がピタリと止まった。

「それは医者に言わないで下さい…何て言えばいいか分からないですけど…私は…私は貴方を殺したくないです。」

彼女にかける最善の言葉を探したが薄っぺらい言葉しか出てこなかった。

「貴方、美しいまま死にたいのではなく、醜くなった自分を見せたくないだけじゃないですか。」

Y先生の言葉は相変わらず鋭かった。

「あら、いけないことかしら…」

「自分が言うのもキザかもしれませんがね。懸命に生きようとする女性は皆美しいですよ。」

Y先生は一つ間を置いた。言うのを躊躇っているようだった。

「…母も美しかったですから…。」

過去形だったのが恐らくもう亡くなったのだろうと感じさせた。


いつの間にか日が暮れていた。そこまで長く居たつもりはないのだが…。半壊した家を後にしようとしたとき女が一言だけ言った。

「わたくしは…まだ女でいられますか…。」

Y先生は振り返らずに

「ええ。貴方が生きるのを諦めない限りね。」

それだけを言ってさっさと歩き始めてしまった。

私は彼女に頭を下げてから走って追いかけた。

視界の端で、我々が見えなくなるまで手を振っているのが見えた。流石、芸者というべきであろうか。


追い付いてから、Y先生に言おうと思っていたことを言った。

「…Y先生、女性の趣味がないってのは酷くないですか。」

Y先生は煙草に火をつけて咥えた。

「アレ、有ったんですか。事実誤認は訂正する主義なんですがね。」

「……私、さっき人生で1番必死だったんですが。」

Y先生が煙を咳き込み、笑い始めた。

「今のが…ふふっ、人生で1番必死…って…本当にお若い!」

煙が夕焼けのなかに消えていった。

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