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無名の国手  作者: よよよ
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8月26日

なんとなく外回りはY先生と回る流れになっていた。

Y先生が少し寄りたい道があるといって、私が行ったことの無い道に進み始めた。

私は彼の後ろについていきながら、薄く立ち上る煙草の煙を見つめていた。

「前言っていた煙草の特殊な仕入れ道ってなんなんですか。」

「米兵ですよ」

Y先生はなんでもないように言ったが私は驚愕した。

市内には医薬品どころか煙草など嗜好品もほとんどない。まさかとは思ったがそのまさかとは。

「…米兵?」

「ええ。自分に1人、妙に気の合う黒人の兵が居ましてね。」

「こ、黒人…」

「ええ。背が高くてよく笑う男です。名前はジェームズ。煙草とチョコと、缶詰を融通してくれます。」

私は驚いた。米兵は恐ろしい存在のはずだった。少し前まで敵で、今は占領軍で、街のあちこちに居る見慣れない存在。しかし彼は知り合いのようにそれを言ってのけた。

「…随分親しいんですね。」

「煙草の本数が増える程度には。」

Y先生は煙を吐いた。

「向こうは自由の国で、我々を救ってやると誇らしげに言っています。人種も国も宗教も、彼等の誇りらしい。」

しかし、とY先生は続ける。

「実際は黒人は黒人というだけで、白人の後ろを歩かされる。店に入れない場所もある。」

私は黙り込んでしまった。

「日本人は外人が珍しいから、唯見ます。敵でも占領軍でも、物珍しさが先に立つ。でも、向こうでは"黒人"というだけで殴られる理由になる。いったい何処が自由なのかと思いましたよ。」

少し間を置いて、Y先生は言った。

「そして我々は"黄色人種"です。」

私はハッとした。

「白でも黒でもなく、便利な時は"東洋"と呼ばれ、都合が悪くなれば"猿"になる。戦争が終わっても序列は終わらない。結局我々は欧米列強に振り回されているんですよ。誰が始めた軍国主義なのやら…」


闇市の入り口が見えてきた。焼け跡に不自然なほどの活気が集まり、人と物が渦を巻いていた。

「ここは大抵の物は手に入りますよ。焼け野原になってしまったのに勇ましいもので笑い声も普通に有ります。」

闇市の店があるような場所なのに不自然に空間が空いている所があった。

そこには30代半ばと思われる闇市の商人が倒れていた。白い粉袋を抱えていた。

不自然に空間が有るのは、闇市で問題は御法度だから誰も近づきたくないのだろう。

診ると、ピカドンの症状がみられた。医者でなくてもこの症状で人がバタバタ死んでいるのを広島の人は理解しているのだ。感染症のように広がるソレは人々を遠ざけるのに充分であった。

「あらかた、家族を食べさせるために無茶してたんでしょうね。この体でようやりますね。」

「休まなくても死ぬ…休んでも餓死…ここは地獄ですね。」

私は唇を噛み締めた。

取り敢えず闇市の路地の手前まで遺体を移動した。

路地の前は開けた広場が有って炊き出しも行われていた。

そこに米兵の一団が通りかかり、その中の1人が此方に近づいてきた。黒人だったのでジェームズだ、と直感した。その米兵はY先生に話しかけると、ポケットから煙草を取り出し、渡した。

「サンキュー」

Y先生が受け取ると、ジェームズは我々の足元に有る遺体を見て眉を潜めた。

「…シック?」

「あー…Yes。ピカドンの、あと。もう死んでる。えぇとdeathだよ。」

ジェームズは黙りこくって暫く考えたような後、軍帽を取り、両手を胸の前で組み、祈り始めた。

英語だったが、恐らく御経のように死者に向けたキリスト教の祈りの言葉なのだろうとハッキリ思えた。

「ゴッド、ウィズ、ユー」

簡単な英語で私も理解できた。そんなにキリストを信じているのかと感心した。

Y先生は早速もらった煙草を吸っており、祈りの様子を遠目に見ていた。

ジェームズは祈り終わるとY先生に手を振って去っていった。


闇市を離れ、瓦礫の間を歩いた。

「ジェームズって人は信仰深い人ですね。」

「ええ。あの男は軍人である前にキリスト者です。」

遠い爆心地の方向を見ながらY先生は言った。

「長崎のピカドンは教会の上に落とされたらしいですけどね。」

「…え」

淡々と言われた台詞に足を止めてしまった。

「浦上の天主堂です。長崎は出島がありましたから日本では1番大きな規模のキリスト教会だったと思うんですがねぇ」

私は言葉を失った。

「じゃあ教会に居た人は…」

「ほぼ全滅でしょうね。ミサなんかが行われていたら尚更。元々数少ない日本のキリスト教徒を彼等は自らの手で殺してしまいました。」

Y先生の声は哀悼も怒りもなく、淡々と事実の報告をしていた。

「…ジェームズさんとか他の米兵もキリスト者でしょう。そんなことを許したんですか。」

「そもそもこんな規模の殺戮兵器を使うこと自体極秘だったでしょうし、知らないと思いますよ。」

「…もし知ったら…」

私が黙りこくっていると

「自分が好きなお話が有るんですけどしてもいいですか。」

「……どうぞ」

何処で聞いたかもう覚えていないんですけど、と付け加えてY先生は話し始めた。


開国当初、キリスト教熱心な人が布教をしに来たらしいです。

農村で貧しい百姓に布教をしました。

「神様に祈れば天国に行けます」

などという文言を熱心に伝えたらしいです。

「じゃあ祈らなかったら、何処に行くんだ」

百姓が聞くと

「地獄へ行きます」

と布教者は返しました。

「なら自分の両親は地獄に居るのか」

「はい」

「それならば自分は両親と同じところに行きたいから地獄でも良い」

と布教者を帰らせてしまったそうです。

結局、布教者は自分のキリスト教の信念が揺らいでしまったまま帰国したんだとか。


「どう思いますか」

Y先生に聞かれて、何かまともな返しをした方がいいなと思ったが

「キリスト教ってそんなに簡単に揺らぐ信念なんですか。」

と率直に思ったことを言ってしまった。

「ふふっ…日本人には分からんですよね…アハハ」

Y先生に笑われてしまった。でも私はY先生が笑うのが好きだ。私もなんだか可笑しくなって一緒に笑った。

「海外ではね、日本は『宣教師の墓場』なんて言われとるそうですよ。」

「そうなんですか。そりゃあ格好いい。」

それこそ昨日話していた夢野久作のドグラ・マグラの小見出しみたいな格好いい言葉だと思った。

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