8月25日
我々が宿舎にしている小学校は簡易的な病院と為っていた。黒板の前には寝ている患者、跳び箱は椅子となって点滴を打たれている人が座っている。職員室は軍医の医療器具が沢山置かれているため、脱脂綿と薬瓶の匂いが混ざっていた。
私は先輩に当たるF軍医中尉と2人でこの場所を回していた。
学校は医者と違って動けないので、治療を受けたい人がわざわざ歩いてくる。歩いてこられる人ばかりなので外回りと違ってかなり楽である。
しかし、死人は出るので運動場に並べて置いては、その日の夜に一気に焼いた。
「ここは外回りより楽か?」
F軍医に聞かれた。F軍医は広島に来てからずっと宿舎に当てられている。経験値的にも本当はF軍医が外回りに行くべきなのだが、私がY先生を探しに行ったついでにそのまま外回りが継続になったのだ。
「はい。楽ですね。座っているだけでいいので。」
F軍医は苦笑していた。
「その外回りは自分のせいですかね」
聞き覚えの有る声が後ろからした。Y先生だった。
どうやら物資を取りに来たようだ。人が少なく、医者同士は顔見知りなので平気で入ってきては物資を取っていくのだ。しかし、F軍医は初めてちゃんと会ったようで少し驚いた顔をしていた。
「Y先生、煙草止めてくださいよ。」
「次来るのが子供だったらね」
Y先生はそのまま煙草を加えて箱の中の薬瓶をカチャカチャ吟味し始めた。
「Y医師はいったい何処で煙草を入手してらっしゃるんです?」
F軍医がその質問をしたときアッと思った。私は煙草が臭いとばかり思っていたので、何処で手に入れるかなんて方向性で考える事がまるでなかった。そういえばF軍医も喫煙者で有った。
「特殊な仕入れ道が有りましてね。」
Y先生はフーっと煙をはいた。
「怪我人でーす!」
と部屋の外から受付係とも言える看護師の声が聞こえた。
お入り下さい、というと色褪せた軍服を着た男性が入ってきた。階級章こそ外したかなにかで分からないが、海兵なのは分かった。
「南方帰りですか」
Y先生が煙草を吸いながら私の後ろの壁にもたれかかりながら腕を組んで診察に参加してきた。
異様に痩せ細った体と日焼けから判断したのだろう。男は首を縦にふった。
診察してみると外傷もない、発熱もピカドンの症状もみられない。
「眠れていますか」
「……」
明らかに精神疾患だと思った。どうしようか、これは管轄外だ。
「皆…皆居るんです。」
「はい?」
「寝ると皆が…戦友が出てくるんです。いやあいつらは俺を戦友なんて思っちゃいねぇか…」
なるほど、幻覚…幻聴…とカルテに書き込む。
F軍医は紙が勿体無いというように此方を見た。
放射でもなんでもない唯の精神疾患に使う紙は贅沢だと思ったのだろう。しかしもう書き込んでしまった。
「皆…!皆特攻に行ったのに自分だけノコノコ帰ってきてしまった!!広島に帰ってきたと思ったらアレですよ。空が光ってまた回りの皆が死にました。俺だけ生き残ってしまった…また逃げてしまった」
「…レイテとかですか」
「…!!そうです…」
Y先生がぴったりと地名を当てた。
「なら別に貴方だけが生き残ったわけじゃあないじゃないですか」
私は絶句した。F軍医も口を開けている。
男も目を見開いてY先生を見つめた。
「他にも沢山の人が南方から帰ってきてますよ。別に貴方だけじゃあない。」
「で、でも…御国を守れなかったし、沢山の民間人が犠牲になってしまいました…到底許されない…」
Y先生は静かに男の言うことを聞いていた。
「…はあ。貴方は生きていることが罰だと思ってるんですね。否、罰にしたいと思っている。」
私は前にY先生と話した『高瀬舟』を思い出していた。殺して救う…死んで救われる…。
「…では、この人は安楽死を求めている弟と同じですか。」
突拍子もなく話が飛んだので、F軍医や男は此方を見た。
「…さあ、戦争による精神疾患も終わらない病気、と例えるならそうかもしれませんね。…我々が兄と同じ行動をするかはさておき。」
ここでF軍医は森鴎外だと気付いたらしい。
「じゃあY医師、我々がすべきことはなんですか?」
Y先生は少しだるそうに灰皿に煙草を擦り付けた。
「軍医ってのは直ぐ聞いてきますね…」
ああ、私の事だ。と思って恥ずかしくなった。
Y先生は男に向き合って言った。
「いいですか。よぉく休んでください。役所の近く…人がいる場所に行けば男手なんて直ぐに求められますよ。鎮静剤打ちますから、軍人なら働いて下さい。」
昨日の対応に比べれば随分冷たいと思ったが、確かに精神疾患に100%効く薬なんて存在しない。
「それでいいですかね。H軍医。」
「…はい。」
Y先生の言った通りの処置しか手はなかった。
「Y医師は精神科医なんです?」
F軍医はかなりY先生に興味を持ったらしい。確かに、こんな明日も分からない世の中だ。話をする人が出来るのは心強い。しかもY先生は面白い。
「いいえ?逆に何処を見て精神科医だと?」
「お話が面白かったので、精神学を嗜んでいらっしゃるのかと。」
「ハハ…話が面白い医者は精神学やってそうなんですか。さながら話がつまらん人は哲学者、みたいな。」
ワッハッハと2人は笑い始めた。
まあ、Y先生は意識して笑ったような声だったが。
「…しかし、こんな世の中じゃあ私が狂っているのか世界が狂っているのか分からなくなりますね…」
少し真剣な声色でF軍医中尉がため息をついた。
「まさに『脳髄は物を考える処に非ず』ですね」
「Y医師は博識ですね。夢野久作も読んでいらっしゃるとは」
私は読んでいなかったので、気まずい気持ちだった。H君は読んでいないのかい、とF軍医中尉に聞かれ、私はまだ…と答える他なかった。
「もしかして、売り文句の『読めば1度は精神に異常をきたす』を信じたか?」
「まあアレを実際真剣に全部読めばおかしくはなるでしょうね。『キチガイ地獄外道祭文』なんて、アレまともに読もうとした人いるんでしょうかね。」
2人してニヤニヤしていて機会が有れば絶対読もうと思った。
「自分はあの小説は、小説と言うよりも小説の形を取った論文に思えますが、F軍医は何がお好きです?」
「私は小見出しが格好いいという理由ですけれど『絶対探偵小説 脳髄は物を考える処に非ず』と、『空前絶後の遺言書』ですかね。」
「良いですね。あの語呂は自分も好きです。」
「Y医師は何がお好きですか」
「私は『地球表面は狂人の一大解放治療場』ですね」
私はやけに長い小見出しばかりで困惑した。
「小見出しだけで、分かる通りの理論でしてね。全体的に夢野久作はコペルニクス的を普通に行ってくるのが面白いんですよ。」
コペルニクス的転回とは地球が『天動説』から『地動説』に変わったように180度物事の見方や考え方を根本的に転換してしまうことだ。
そんなことを当たり前に行える人はいない。
私は夢野久作に少し興味が出てきた。
「ありゃあ、小説の皮を被った精神医学と言う名の地獄を詰め込んだような作品ですよ。よくできている」
F軍医も同意した。
「先ほどの男性も、組み換えられたんですかね…」
「『脳髄は物を考える処に非ず』の理論で考えればそうなりますね。」
私は思わず2人の会話に口を挟んで聞いてしまった。
「彼は助かると思いますか」
「彼が"自分だけ助かった"という意識を捨てられれば助かるんじゃないかな」
F軍医は難しいが、1番助かったと言える手段を口にした。
「Y先生はどう思われますか…」
「……助かるって言うのは単に命が有るという状態を示さないし、人それぞれだと思うけど…」
「まあこの場合、彼が今後生きてくれている事が助かったと言える道では。」
F軍医中尉がY先生にそう言うとY先生は笑いだした。今度は作り笑いではない。
「ふふっ…いやぁ失敬。それこそドグラ・マグラ(堂々巡り)ですね。」
F軍医は口を開けて驚いた後、そのまま大笑いし始めた。
夢野久作を嗜んでいなかった私は置いてけぼりで、椅子に座って2人を見ているしか出来なかった。




