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無名の国手  作者: よよよ
3/9

8月24日

私は初めて爆心地近くの区域に行くこととなった。

鉄骨ばかりで建物がなく、悪い意味で視界良好である。

遺体がそこらじゅうに転がっており、道の脇に寄せられただけで放置されている。Y先生はこういう人にも死亡届を書いてあげたのだろうか、など思っていると

「おはようございます。此方に来るなんて珍しいですね」

Y先生に声をかけられた。確かに爆心地近くに来るのは初めてだったので、一緒に行くことにした。

「ここは酷いですよ。蠅まみれです。でも街の中心部側でもあるんで我々を待っている人もわんさかおります。」

暫く歩いていると道の真ん中に黒焦げの女性が踞っていた。何かを抱えている風だったので遺体を退けて地面を見てみると黒焦げの子供が居た。

「母親が必死に地面掘って、自分が覆い被さって助けたんでしょうねえ。何回か見ましたよ。」

そう言うとY先生は慣れた手付きで道の真ん中に居た2つの遺体を脇に寄せた。

服に名前でも残っていれば良かったんですけどね、ともはや医者というか死亡届を書き続けている現実を見たような気がした。


もっと歩くと人で賑わっている場所に来たらしかった。皆何をすればいいか分からないといった様子で座り込んだり、立って話している人もいる。

真隣に黒焦げの遺体が有っても全く気にせず大人と話している女生徒が、この惨状がもはや日常なのをよく物語っていた。

近くでは記者らしい人がカメラで写真を撮っていた。皆それぞれ頑張っているなあなど思った。


遺体で埋まったどす黒い川の橋を通った。

橋は座り込んでいる人が大勢居たが、ある1ヵ所は人が居なかった。奇妙に空いたそこを目で追ってしまったのは人間の性だろう。

橋に人の影のようなものが残っていた。

遺体すら見つからない惨状を伝える無言の証言のように思えた。

「爆心地に近ければ近いほど、遺体なんて残らず消し飛びましたからね」

Y先生は淡々と言って橋を渡りきってしまった。

この時の私は遺体が蒸発して黒い影に橋として残ったと思っていたが、どうやら勘違いらしかった。

爆弾の熱線により漂白された石に、人によって遮られた部分が残っているらしい。

まあしかし、石が一瞬で白くなるほどの熱線に人間が耐えられるとは思わない。メカニズムが如何にしろ、この橋の人影はあの恐ろしい爆弾の証明である。



「…み…ず…」

何処からかかすれた声が聞こえた。

浴槽に詰まっている遺体のすぐ横に少年が居た。

私は反射的に水筒に手を伸ばした。

「飲ませれば死にますよ」

鋭い声が後ろから私に刺さった。

よく見れば少年は唇は紫に腫れ、舌は白く乾いていた。

「輸送船に乗って撃沈され、泳いで助かった人が言ってました。皆救助船に乗って助かったと安堵し、寝た瞬間死ぬ、と。喉も腸ももう駄目でしょうし、水を飲めば安心して気力だけで繋いでいる命は消えるでしょうね。」

本人の目の前でなんてことを言うんだ、と思ったがY先生はこういう人である。生きている人には嘘でも希望を持ったことしか言わないが助からない人の前だと何でも言ってしまう。

しかし、先生の言うことも正しいのだ。既に少年の横には浴槽の水に辿り着いてそのまま突っ込んで死んだ人でいっぱいだ。結果は隣に有る。

「それでも、先生は昨日、あの子に栄養剤を打ってあげました。」

そう言って私は少年に水をやった。

それから少年は静かに死んでしまった。

「高瀬舟…みたいですね」

ボソッとY先生が言った。

「…なら私は喜助ですか。」

『高瀬舟』は森鴎外の短編だ。喜助は弟殺しの罪人である。しかし…

「喜助と弟しか知らない真実を見れば、弟を救うために喜助は弟を殺した。世間から見れば、殺した事実しか残らないが、殺された本人から見て、喜助は罪人だろうか。」

「……」

「今の君は死ぬと分かっていて少年に水を飲ませたけど、それは罪に問われると思うかい?」

「人によって違うと思いますね」

率直な意見だった。でもどうせ死んでしまうなら最期に願いを叶えてあげたいと思うのは悪なのだろうか。

「恐らく一生、医者が抱えていく問題だろうね」

私はこの広島でどれだけ悩めばいいのだろうかと思いながら、Y先生の後をついていった。



少し歩いた先に、焼け残った柱だけの家があった。

その前に若い女がただ1人、座り込んでいた。

「大丈夫ですか。御家族は…」

「……中におります。」

Y先生と2人で家の瓦礫を持ち上げると、夫と両親らしき老夫婦、幼い子供2人の黒焦げの遺体が出てきた。瓦礫の下の姿を見た瞬間女はわっと泣き出して謝りだしてしまった。

「みんな…下敷きなって、でも私では到底柱や瓦礫を退けられなくて…家に火が着いて…」

貴方のせいではない、となだめるが泣き止まない。

「助けて…って声が聞こえるんですよ。でも動かせないんです。生きたまま丸焼きですよ…夫が下敷きのまま早よ逃げぇ!って言うんで火から無我夢中で逃げたんです。私は臆病者です。ああ妻ならば一緒に死ぬべきだった…」

そんなことはない!と怒鳴りたい気持ちでいっぱいだったが、そんな無責任な言葉は吐けない。

Y先生なら…と期待をしたが、彼は遺体を1人ずつ診ていって

「名前と生年月日を。」

とだけ言った。

Y先生が書いている間、女性を診察した。

歯肉の出血と微熱が確認できた。ピカドンの症状だった。

Y先生が5人分書き終え、女性に渡した。

私は女性に水と乾パンを渡した。

「いいんですか…貴方のでしょう」

確かに私の食料ではあったが、私は軍医なので食料は手に入りやすい。

「役所か診療所に行きなさい。出来るだけ生きている人の多い方へ。乳が出るなら孤児にあげれば沢山助かります。」

Y先生がそう言うと女性の顔がハッとするのがわかった。彼女は有り難うございましたと言って去っていった。

明らかに生きる理由を見出だした顔だった。

「あの人は症状が軽いけえ、ここから離れてゆっくり休めば必ず助かります。」

この人はつくづく人を救うのがうまいと思った。


「先生はすごいですね、人を救うのがうまい。」

「医者にうまいも何もないですよ。」

うまいと言えば…とY先生は此方を見た。

「少年を救ってあげた貴方の方がうまいですよ。」

「それは貴方が昨日、やっていたことを真似ただけです。」

「殺しが救いになってしまうのも、考えものですね…あまり医者にそれを選択させてほしくないですけれどね…」

しかし、これからもきっとこの選択を迫られるのは目に見えていた。

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