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無名の国手  作者: よよよ
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8月23日

8月23日。

人手不足なので私達軍医は1人1人、もしくは2人ずつなどでそれぞれ少佐に言われた場所に行った。

川沿いの仮説治療所へ向かう途中、焼け残った家の影に親子3人が踞っていた。

母と息子が2人。兄は12、3だろうか。腕に巻いた手拭いらしき布切れは血で濡れていた。

「ああ、軍医さんですか…お願いしますお願いします診てやってください。」

私はしゃがみこんで兄の包帯をほどいた。

紫色の斑点が皮膚の内側から浮き出るように広がっていた。歯肉は暗赤色に腫れ、喉を見ようと頭を支えてやるとズルっと手が滑って髪がごっそり抜けた。私が唖然としていると母親が

「あぁ…大丈夫…大丈夫だからね…」

と言いながら落ちた髪の毛を集めて抱いて泣き始めてしまった。当の本人はもう泣く体力もないのかぼんやりしている。

私が固まっていると影がさした。後ろにY先生がいた。

「いつ街へ?」

Y先生は聞きながらも私の間に割り込み、兄の症状を見始めた。

「夫は工場に居て…家に戻ったんですけど居なくて…」

あらかた、ピカドンの後で夫と連絡がつかなくなり街に有る家に戻ってみたが見当たらず、ここまで来たところで兄が倒れてしまったんだろう。

弟の方が父ちゃんは…?と母にしがみついて聞いた。

「父ちゃんは強いけぇ、大丈夫」

私はなにも言えなかった。

Y先生は箱から注射器を取り出し、兄の腕に注射した。

「栄養剤です。今日はよぉ休んでください。疲労が1番の敵じゃけぇ」

母親は深く頭を下げてありがとうございますと繰り返し言って見送ってくれた。

私はY先生が親しみやすいように方言で答えてあげていたのでこの人はすごいなぁと思った。


「今君は失礼なことを考えてないかい」

「エッ…確かにまあ…こんなに優しい人だったとは思いました」

「それは見た目か」

そう言うとY先生は自嘲気味に笑った。

「まあこんなに伸び呆けて長髪の医者は珍しいか」

でも今、街にはY先生みたいに綺麗に伸び呆けている人は居ない。皆火傷するほどの熱風を食らい、チリチリに爆発しているような髪なのだ。その点では確かに珍しい。

「あの子は助からないでしょうね…」

「そうだろうね」

「でもY先生は栄養剤を打ってあげてましたね」

「出来る手を母親の前で尽くしただけですよ」

少し歩いた所で私はつい本音を漏らしてしまった。

「正しさ…ってなんでしょうね」

先を歩いていたY先生は振り返って此方を見た。

「君はますます哲学者のようなことを言い出すね」

「ハハ…職を変えるべきですかね」

Y先生も私も再び歩き始めた。

「…君は詩人になりそうだね」

「詩人ですか?小説家ではなく?」

「医者なら小説家の方が馴染みがあるかね」

そりゃそうだ、森鴎外の書を今でも医者は使っている人が多い。軍医が小説を書けるのかと思ったものだが『舞姫』を読んでなるほどやはり実体験なのかと思った。

「小説家の世界は閉じてるからね…芥川龍之介の最期を知っているだろう?小説家ってやつは自殺が多いのさ」

「私の世界は開いているって言うんですか?」

「その通り。君は閉じてる性分じゃあないね」

「じゃあY先生は小説家に向いているんですか?」

Y先生は少し吃驚したように目を細めて答えてくれた。

「自分に物書きは向いてないよ」

言われた後に気づいた。小説家は自殺が多いって話だったのに、貴方は小説家に向いているんですかという質問はかなり失礼だ。

これはまたやってしまったと思い話題を変えるため

「森鴎外の作についてどう思いますか」

と同じ医者として気になる質問をしてみた。

「『舞姫』は面白かったね。『ヰタ・セクスアリス』も含め医者に恋愛なんて書けるのかと思ったものだが。」

「やはり、経験がものを言うんですかね」

今まで私が質問責めだったのでY先生も質問を返した。

「君が豊太郎だったらどうする」

豊太郎は『舞姫』の主人公だ。ハッキリ言えば自分の将来を取って日本に帰るか、ドイツでできた恋人を取るかという話である。しかもその恋人は子持ちだ。

「よく分かんないですけど…私だったら豊太郎みたいに帰国しそうです。」

「へえ…」

「でも私があの話で真に読み解くべきは同僚と相沢だと思ってます。」

自分でも話している口が段々熱を持っていくのがわかった。

「同僚が密告しなければ済んだ話で…そりゃあ勿論相沢も豊太郎の名誉を回復しようも頑張ったのも分かりますけど、それでエリスがああなってしまった訳ですから…」

「…まあエリスの方には座頭とのイザコザも有ったしねぇ…運が悪かったんだよ」

「小説になると途端に冷たいですね」

Y先生はにっこり笑った。普段真顔で疲れきった顔なので不適な笑み、といった顔を初めて見た。

「自分はね、どうしても同情ができなくてね。小説ってのは誰かに何かを伝えたくて…考えて欲しくて書いてるって思ってるもんだから、作者の考えを1番に考えてしまって同情なんかよりも思考が上回っちゃうんだよ」

私とは真反対のような意見だった。私はどうしても感想が先に来てしまう。今思えばあまり私は医者に向いていないかもしれない。

「ま、小説を感情で楽しむってのが本来の在り方だとは思うけどね」

「Y先生は太宰治など好きそうですね」

「君は織田作之助かな」

返しに思わず笑ってしまった。

「今の時代の小説はみーんな男の視点で、しかも弱気の男しか居ない。自分は与謝野晶子のように自由に書くべきだと思うね。」

「戦争の度に女性の社会的地位が上がりましたし、もしかしたら今後そういったのも増えるかもしれませんね」

「そうだろうね。女性は強いからね。」

そう言ったY先生が遠い何処かを見ていた気がしたのは気のせいだろうか。誰を思っていたのだろうか。




診療所についてからは道中のお喋りが嘘のように忙しく働いた。沢山の怪我人や既に動かない人も居たが、存外皆大人しく、順番を待って治療を受けてくれた。数をこなしているうちに助かるか助からないかの分別がつくようになってしまったのにはため息をついた。




帰りの道中も同じになった。

行きと違って私はかなり疲れており、Y先生もそれを見越してか話しかけては来なかった。

あの例の親子がいた場所にまだ親子はいた。

しかし2人…であったが。

兄の方の体はゴザに包まれ動かなくなっていた。

「先生…有り難うございました…」

助からなかったのに母親は礼を言ってきた。

弟の方は涙も流さず、ただ震えて母親にしがみついていた。

私がどうも出来ず立っているとY先生はしゃがんで兄の脈を取り、瞳孔を確認した。

「死亡届書くんで、名前と生年月日を教えて下さい」

今死亡届を出すということがどれだけ大変かは母親も分かっていたようで、吃驚していた。

「今年17なので…」

母親が何年生まれか確認しながら話している時に、兄の年齢が12、3歳などではないことを知った。

ほとんど食べられず、痩せ細った結果だろうと思った。

Y先生は死亡届を書き終わるとそれを母親に渡した。

「これを持って軍営工場の診察所か役所に行きなさい。役所の近くなら貴方の夫も見つかるかもしれない。」

それから母親の後ろにいた弟の方には見たことない物を渡した。

「チョコレートと言う食べ物です。もし、米兵に会ったら『ギブミーチョコレート』と言いなさい。運が良ければもっと貰えますよ。」

そう言うと男の子に約束じゃけえ、と言って指切りげんまんして親子を見送った。

母親はギリギリまで礼をして去っていった。


「どうして死亡届書いたんですか…」

「じゃないといつまでもここに居ただろう」

合理的な答えだ。

「…なんで最初来たときに食料を渡してあげなかったんですか」

「母親も弟も食べず、きっと兄に食べさせていただろう」

それも合理的な答えだった。

「死ぬ人よりも生きる可能性のある人に分けてあげた方がよっぽど良いと思いませんか」

Y先生はどこまでも合理的で医者に向いていると思った。彼は正しい。正しいのだ…。

しかし、Y先生を少し冷たいと感じてしまった私の感情もきっと間違いではないのだろうと思った。

だってY先生ならきっとそう言うからだ。

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