第3話 門の外は知らない匂い
朝、姉たちはいつも通り慌ただしく家を出ていった。
ひかりは教科書の入った重そうなバッグを肩にかけ、あおいは髪を結びながらパンをくわえ、みくはランドセルを背負って「行ってきまーす!」と元気に手を振った。
玄関のドアが閉まるたび、家の中の音がひとつずつ減っていく。
最後に残ったのは、真白がキッチンで立てる包丁の音と、煮物の鍋から立ちのぼる湯気の匂いだった。
昼近くになると、真白がエコバッグを二つ抱えて玄関に立った。
「ユウ、お昼は冷蔵庫のサンドイッチ食べてね。すぐ帰るから」
そう言って、買い物リストをポケットにしまい、ドアを開けた。
外から差し込む光が、廊下の床に四角い模様を作る。
ドアが閉まると、その光も少しだけ薄くなった。
家の中は、急に静かになった。
時計の針の音が、やけに大きく響く。
冷蔵庫の低い唸りと、遠くの道路を走る車の音が、かすかに混ざっていた。
ユウは自分の部屋に戻り、机の上の紙を見た。
そこには、昨日の夜に描いた自販機の落書きがある。
左下の“水”に丸、右上の“スポーツドリンク”に二重丸、真ん中の“お茶”に小さな星印。
横には矢印と数字――「水3秒長押し→スポドリ2回→お茶1回」と書かれていた。
昨日の夕飯時、あおいが笑いながら話していた「大人になるジュース」の噂。
「社会人ブレンド」
「責任感の味」
そして、あの押し方。
本当にあるのかどうかはわからない。
でも、もし本当にあったら――飲んだら、自分も外に出てもいいのかもしれない。
ユウは立ち上がった。
部屋の隅に置いてあるスニーカーを手に取り、玄関へ向かう。
廊下の壁に掛けられた家族写真が目に入る。
真白と三人の姉たちに囲まれて笑っている自分。
その笑顔は、今よりもずっと無邪気だった。
玄関に立つと、外の光がすりガラス越しに揺れていた。
靴を履き、紐を結ぶ。
手のひらが少し汗ばんでいる。
ドアノブに触れると、金属の冷たさが指先に伝わった。
――本当に、行くのか。
心の中で問いかける。
でも、答えはもう決まっていた。
昨日の夜から、ずっと決まっていた。
ドアを開けると、昼の光が一気に流れ込んできた。
外の空気は、家の中よりも乾いていて、遠くで自転車のベルが鳴っている。
門までの石畳を歩くと、足音が小さく響いた。
門の前に立ち、鍵に手をかける。
カチャリ――金属が外れる音が、やけに大きく感じられた。
門を押し開けると、視界が広がった。
家の前の道は、昼の光に照らされて白く輝き、街路樹の影がまだら模様を作っている。
風が頬を撫で、髪を揺らした。
ユウは一歩、外に踏み出した。
足の裏に伝わるアスファルトの感触は、家の床とはまるで違っていた。
少しざらついていて、硬くて、でも確かに“外”の匂いがした。
歩き出すと、道端の花壇に植えられたマリーゴールドが目に入った。
その向こうには、郵便受けの前で新聞を取っているおばあさんがいた。
ユウは軽く会釈をした。
おばあさんは少し驚いた顔をして、「あら、男の子?」とつぶやいた。
駅前までは、あと十五分。
その先に、自販機がある。
左下の“水”を3秒長押し、右上の“スポーツドリンク”を2回連打、最後に“お茶”を軽くタッチ。
頭の中で、その手順を何度も繰り返す。
――本当に出てくるのかな。
もし出てきたら、飲んでみよう。
飲んだら、何かが変わるかもしれない。
飲んだら、僕も――。
ユウは再び歩き出した。
昼の光が、背中を押してくれるようだった。