第2話 大人になるジュース
夕飯時、蒼月家の食卓は、いつもと同じようににぎやかで、あたたかかった。
真白が煮込みハンバーグをテーブルに置くと、みくが「わー!」と声を上げ、あおいは「ちょっと待って、写真撮るから!」とスマホを構える。
ひかりはサラダを取り分けながら、「食べる前に撮るの、ほんとに意味あるの?」とぼそり。
真白は笑って、「それが今の文化なのよ」と返す。
ユウは自分の席に座り、みくの隣でフォークを手に取った。
みくは牛乳を両手で抱えながら、ユウの皿にブロッコリーを移してくる。
「お兄ちゃん、野菜も食べなきゃだめだよ」
「うん……ありがとう」
今日の夕飯も、いつもと同じようににぎやかで、あたたかかった。
けれど、ユウの胸の奥には、朝からずっと消えない小さなざわめきがあった。
そのざわめきが形を持ったのは、あおいの何気ない一言からだった。
「ねえ、駅前の自販機にさ、変なジュースあるの知ってる?」
「また変な名前のやつ?」
ひかりがサラダのトングを止める。
「うん。“大人になるジュース”って名前で、缶に“社会人ブレンド”って書いてあるんだって。飲むと落ち着くとか、ブラックコーヒーが飲めるようになるとか。責任感の味って書いてあるらしいよ」
「責任感の味って何よ」
ひかりが笑う。
「しかも普通に買えないんだって。左下の“水”を3秒長押ししてから、右上の“スポーツドリンク”を2回連打。最後に“お茶”を軽くタッチすると出てくるらしい」
「それ、都市伝説じゃない?」
真白が鍋をかき混ぜながら言った。
「でも、友達が写真送ってきたの。缶の色がすごく地味で、なんか…飲んだら急に敬語使いそうな雰囲気だった」
みくがスプーンを止めて言った。
「それ飲んだら、ランドセル卒業できるの?」
「たぶん気分だけね」
あおいが笑う。
ユウは黙って聞いていたが、やがて口を開いた。
「……それ、飲んだら……僕も、大人になれるの?」
テーブルが一瞬静かになった。
あおいがスマホを置いて、ユウの顔を見た。
「え? 本気で言ってる?」
「うん……ちょっとだけ」
ひかりがサラダの皿を置いた。
「ユウ、それはただの名前だよ。ジュースで大人になれるわけじゃない」
ユウはフォークを握ったまま、少しうつむいた。
大人になれないなら、外に出られる日はいつ来るんだろう。
「……でも、みんなは外に出てる。僕は出ちゃだめって言われる。……それって、大人じゃないから?」
真白は少しだけ表情をやわらげて、静かに言った。
「ユウ、外に出ちゃだめって言ってるのは、あなたが大人じゃないからじゃなくて……あなたが、男の子だからよ」
その言葉は、ユウの胸にゆっくりと沈んでいった。
理由はわかった。でも、納得できたわけではなかった。
夕飯が終わると、食器を片付ける音がキッチンに響いた。
ひかりは洗い物をし、あおいはミラスタにハンバーグの写真を投稿している。
みくは明日の時間割を確認していた。
ユウは自分の部屋に戻った。
窓の外には、街の灯りがぽつぽつと浮かんでいる。
遠くのビルの明かり、車のライト、電柱の影。
それらは、ユウにとって“知らないもの”だった。
ベッドに横になりながら、ユウは天井を見つめた。
「大人になるジュース」――その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
左下の“水”を3秒長押し。
右上の“スポーツドリンク”を2回連打。
最後に“お茶”を軽くタッチ。
指先で空中にボタンの配置をなぞる。
駅前の自販機まで、歩いて十五分。
飲んだら、何かが変わるかもしれない。
飲んだら、外に出てもいいかもしれない。
飲んだら、僕も――。
ユウは目を閉じた。
布団の中はあたたかく、家の匂いがした。
でも、心の奥には、まだ知らない風の匂いが残っていた。
明日、行ってみよう。
誰にも言わずに。
ちょっとだけ、外の世界に触れてみよう。
ジュースを買うだけ。
それだけなら、きっと大丈夫。
ユウは、静かに眠りについた。
胸の中には、小さな決意と、少しのわくわくが灯っていた。