第6話「夫婦として、職場では“他人”として」
月曜日の朝――。
週の始まり、都内の通勤ラッシュとともに『ルクシア』本社も活気を取り戻していた。
社員たちが慌ただしく出勤してくる中、最上階の社長室では、ひと足早く結衣が秘書・理沙と向き合っていた。
白いファイルを机に差し出しながら、結衣はきっぱりと告げる。
「婚姻届、提出してきたわ」
理沙の瞳が一瞬、大きく見開かれる。
「……ついに、ですか。あの“交際0日婚”の」
「ええ。役所には私が一人で行ってきたの。……彼にはまだ実感ないかもしれないけど、もう法的にも、彼は私の“夫”よ」
ふっと微笑む結衣の横顔に、理沙は苦笑を浮かべる。
「まさか本当に社長が結婚するとは……しかも、あんなに真面目で年下の彼と。正直、驚きは隠せません」
「でもね、理沙。あの子は――誠実で、まっすぐで……私には、必要な人だったの」
その言葉に、理沙は静かに頷いたあと、確認するように問いかけた。
「では今後、陽翔くんが社長室に来る際は、通常対応で構いませんか?」
「ええ。ただし――」
結衣は、少しだけ目を細める。
「もし私が変に浮かれて彼にハグしようとしたら、あなた、私の耳元で“仕事中です”って囁いてちょうだい」
「……了解です、社長」
笑いをこらえながら、理沙は一礼した。
■
一方その頃、陽翔はいつも通り、総務部のオフィスで業務に向かっていた。
会議資料の印刷、備品の申請処理、電話応対――
新卒として覚えるべき仕事が山のようにあり、休日明けは特に忙しい。
そんな中、内線が鳴った。
「……はい、総務部・瀬川です」
『社長室の橘です。瀬川くん、社長から指示で、資料を直接お渡ししていただけますか?』
「あ、はい……すぐ向かいます」
受話器を置いた瞬間、周囲の空気が微妙に揺れた。
(また社長室……)
何気ない依頼のようでいて、部署の中では“異例”と映る。
周囲からの視線が刺さるように突き刺さる中、陽翔は慎重に資料を抱え、エレベーターへと向かった。
だが、彼が選んだのは――社長専用ではなく、一般社員用のエレベーター。
(社内では、俺たちは“他人”でいなきゃいけない。公私混同は、したくない)
たとえ誰よりも近い存在になったとしても、会社では“社員としての自分”を通すこと。
それが、陽翔なりに結衣への敬意を表す方法だった。
■
エレベーターを降り、社長室の前に立つ。
理沙が笑みを浮かべながら迎える。
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
扉の奥では、結衣がソファに腰掛けていた。
休日とは違い、髪を結い上げ、タイトスカートにパンプス。完全なる“社長”の顔だった。
陽翔が丁寧に一礼して、資料を差し出す。
「こちら、総務部で作成した企画報告書になります。ご確認をお願いいたします」
「ありがとう、陽翔くん――」
そう言いかけた結衣の手が、ふと陽翔の袖に触れそうになる。
だがその瞬間、陽翔は一歩後ろに下がり、小声で囁いた。
「結衣さん、キスも、ハグも……それは仕事が終わってから、家で、お願いします」
「……ふふっ」
結衣は思わず笑ってしまいそうになるのをこらえ、理沙に一瞬視線を送る。
理沙は目を伏せ、すっと紅茶を差し出しただけだった。
陽翔はもう一度、深く一礼してから社長室をあとにする。
その背中を見送りながら、結衣はそっと口にする。
「……ほんとに、真面目なんだから」
■
社長室から出てきた陽翔に対し、廊下ですれ違う社員たちが、無言で彼の表情や手元を観察していた。
中には、「また社長室……」とひそひそ囁く者もいたが、陽翔は気にも留めず、自分の部署へと戻っていった。
社内では、まだ何も“公表されていない”。
だが、ふたりの間にだけ確かな“信頼”があった。
家では夫婦、
会社では上司と部下。
――それが、ふたりが選んだ“秘密の愛し方”だった。
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