第3話「交際0日婚――その提案は突然に」
あの日、社長室のソファで交わした“あのキス”から、1ヶ月。
春から初夏へと季節が少しずつ移り変わる中で、陽翔は『ルクシア』の社員として、毎日を必死に駆け抜けていた。
配属先は総務部。電話応対、備品管理、書類の整理――地味で地道な仕事だったが、陽翔は一切手を抜かなかった。
そんなある日、部署のフロアに、突然空気が張り詰めた。
「本日は社長が各部署へご挨拶に伺いますので、皆さまよろしくお願いします」
そのアナウンスに社内が一瞬静まり返る。
間もなく、真っ白なパンツスーツに身を包んだ女性が、堂々と現れた。
――氷室結衣。
その姿に、多くの社員たちは緊張し、次々と立ち上がる。
陽翔も立ち、声を張った。
「お疲れ様です!」
すると、結衣は微かに笑って、視線を滑らせる。その視線が、ほんの一瞬だけ――陽翔の目と交差した。
そして結衣は、秘書の橘理沙に耳打ちをする。
「……お願い。連れてきて」
理沙は静かに頷き、陽翔のもとへ向かってきた。
「瀬川くん。社長からお話があるとのことです。すぐ社長室までご同行を」
「えっ……僕、ですか?」
周囲の上司や同僚、同期の新入社員たちの視線が一斉に陽翔へ集中した。
――その目線の圧が、半端じゃない。
(なんだこれ……まさか、クビ……?)
一瞬頭をよぎった最悪の想像を振り切りながら、陽翔は立ち上がり、理沙の後をついてエレベーターへと向かった。
■
そのエレベーターは、1ヶ月前と同じ“社長専用直通”。
閉まった扉の中、静寂を破ったのは――結衣自身だった。
「これ、見て」
そう言って彼女が差し出したのは――婚姻届。
そこにはすでに、結衣の名前、住所、捺印まで記されていた。
「私はもう書いたわ。あとは、君の名前と住所を書くだけ」
「……えっ?」
陽翔は絶句した。
まるで、回覧板でも渡すようなナチュラルな口ぶり。だが手にしているのは、れっきとした結婚届。
(冗談……じゃない。いや、でも……)
結衣はそのまま、何も言わずに優しく微笑んだ。
「突然でごめんなさい。でも……私は、もう決めてるの」
■
社長室に入ると、明らかに以前と違う雰囲気が漂っていた。
1ヶ月前の、重厚でどこか孤独を感じさせる空間ではない。
ソファの位置が変わり、ラグが敷かれ、何より――
「ベッドが……ダブルに?」
奥のパーテーションの隙間から見える寝室の光景に、陽翔は思わず声を漏らした。
さらに洗面台には、色違いのパジャマが2組。
歯ブラシも2本、食器もコップも、**すべてが“ふたり仕様”**に変わっていた。
「……明日から、ここで暮らして」
そう結衣は告げた。
「でも……僕、まだ……」
「困ってるのは分かってる。毎朝電車で2時間かけて来てるでしょう? 朝、君の部署の出勤時間見てるもの」
「……っ」
図星だった。毎朝5時起きで、通勤ラッシュに揉まれ、帰りは終電ギリギリ。社会人の洗礼を真正面から受けていた。
「ここなら、朝の通勤は30秒。寝坊しても間に合うわ」
「……確かに」
合理的すぎる提案に、陽翔は一瞬戸惑いながらも、心の中で妙に納得していた。
結衣はふわりと微笑む。
「でも……まずはご両親に話して。ちゃんと納得してもらってから。私はその順番、大事にしたい」
「……ありがとうございます」
陽翔は携帯を取り出し、母に電話することを決意した。
電話越しの母は、初めこそ驚いたが、息子の真剣な声に耳を傾けてくれた。
「……結衣さんと、ちゃんと話してみたいわ。あなたの口ぶりからして、相当な覚悟なんでしょう?」
「はい。母さんにだけは、ちゃんと伝えたかったから」
その会話を隣で聞いていた結衣は、ふと陽翔に尋ねた。
「お父様は……?」
陽翔は少しだけ、表情を和らげて答えた。
「高校2年の夏。バイトの帰りに……事故で、亡くなりました」
その言葉に、結衣は静かに目を伏せた。
「……あのコンビニに私がいなかったの、同じ理由よ。あの時、私も父を亡くして……会社を抜けてた。……奇跡のような、すれ違いだったのね」
ふたりの間に、また静かな時間が流れた。
そして結衣は、やわらかく言った。
「じゃあ、明日私が君の実家に行く。ご挨拶を兼ねて、必要な荷物も取りに行くから」
「え……社長が?」
「“結衣”でいいの。もう“社長”じゃなくて」
陽翔は小さく頷いた。
「……分かりました、“結衣”さん」
その瞬間、ふたりの関係は、“会社”という枠を越えて、確かな一歩を踏み出していた。
――交際0日婚。その提案は突然だった。
だが、そこに嘘はひとつもなかった。
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