第4話「緊急搬送と帝王切開」
――まさか、こんなにも突然にその時が来るなんて。
ルクシア本社、午前十時三十二分。
40階の社長室では、定例の経営会議が始まっていた。
橘理沙副社長の司会で、幹部陣の意見が飛び交い、陽翔も資料を整えながらその場にいた。
だが、社長席は空席のままだった。
「……そろそろ彼女の姿がないことに気づく人間も出始めるわね」
理沙は小声でそう言いながら、眉間に皺を寄せた。
そこへ――
「すみません! 社長室にいた氷室さんが……!」
慌てた秘書の声が、会議室の空気を凍らせた。
陽翔が最初に動いた。席を跳ねるように立ち上がり、資料を置いて駆け出す。
エレベーターを使わず、非常階段を三段飛ばしで駆け上がる。
40階のプライベートルーム。
開け放たれた扉の奥で、結衣はカーペットの上に膝をついていた。
「――っ! 結衣さん!」
すぐに駆け寄り、抱きとめる。
結衣の顔は青ざめ、額には汗が滲み、唇は小さく震えていた。
「……陽翔、破水……した、みたい……」
その声は、か細く、震えていた。
スーツのスカートにはすでに濡れが広がり、床にも赤黒い液体が滲んでいる。
「医療班! すぐに救急車を! いいから急げ!」
陽翔が怒鳴ると、理沙が既にスマートフォンを操作していた。
「最寄りの大学病院に搬送要請済み。個室確保してる。……陽翔、任せたわ」
彼女の声は冷静だった。副社長として、そして親友として。
結衣の人生の岐路に立ち会う覚悟は、すでに彼女にもあった。
***
――緊急搬送。
救急車のサイレンが都心を割き、午後一時すぎ、大学病院の高層棟へ。
病室では医師が駆け寄り、手術準備が進む。
年齢と多胎妊娠のため、自然分娩は危険と判断され、即時の帝王切開が決定された。
「ご本人、ご家族の承諾を……!」
陽翔はすぐにペンを握った。
緊急同意書に署名しながら、震える手を押さえ込むようにして言う。
「彼女は、僕の……大切な人です。
どうか、ふたりとも、絶対に助けてください……!」
手術室の扉が閉まり、赤いランプが灯る。
静まり返った待合スペースに、時計の針だけがカチリ、カチリと音を刻む。
永遠にも思える時間が過ぎた。
***
手術室の扉が開いたのは、午後二時四十五分。
「無事、終わりました」
その言葉に、陽翔は思わず深く息を吐いた。
手術着に身を包んだ医師が、穏やかに告げる。
「母子ともに、健康です。
出産は少し早めでしたが、体重も安定しています。
――女の子と、男の子。元気な双子ですよ」
「……本当に……よかった……」
陽翔はその場にへたり込むように座り込み、目頭を押さえた。
この命が、この手で守られたことに、心からの安堵が押し寄せていた。
***
午後四時すぎ。
回復室で、結衣はゆっくりとまぶたを開けた。
ぼんやりとした視界の中に、見慣れた顔がある。
「……陽翔……?」
「ここにいるよ。ずっと……そばにいたよ」
結衣は、震える手で彼の頬に触れた。
「……赤ちゃんたち……どう……?」
「元気。女の子と男の子、どっちも泣き声がうるさいくらいに。
お医者さんも、助産師さんも、全員笑ってた。――大成功だって」
その言葉に、結衣の瞳に涙が滲んだ。
「……よかった……この命が、生きていてくれて……」
陽翔は彼女の額にキスを落とし、そっと言った。
「ありがとう。あなたが産んでくれて、ありがとう」
手術室の照明ではなく、今の彼女を照らすのは――ひとつの命と、ふたつの鼓動。
そして、ずっと傍にいてくれた“たったひとりの男”。
――氷室結衣は、この日、“社長”ではなく、“母”になった。
(つづく)
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