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他者視点:ある従者の絶望


 アランは、ローゼンクランツ伯爵家の令嬢、エリザベートの執事だった。彼がその地位を得たのは、その整った顔立ちが、気まぐれな令嬢の目に留まったから。ただそれだけのこと。アランは、鏡を見るたびに、その事実を自嘲と共に噛みしめていた。


 彼には、病弱な妹がいた。高価な薬だけが、妹のか細い命を繋ぎ止めている。その薬代のために、アランは魂を削るような日々を送っていた。エリザベートの命令は、しばしば人の道を踏み外す汚れ仕事ばかりだった。令嬢の気まぐれで命じられる、秘密の処理、証拠の隠滅、時には……人の始末。


 エリザベートには、ぞっとするような悪癖があった。若い女性を攫っては、その血を根こそぎ抜き取り、浴槽に満たして入浴することを好んだのだ。

 血を抜かれ、徐々に命を失っていく女性の顔に浮かぶ絶望と苦悶の表情を眺めることは、彼女にとって至上の娯楽であり、その嗜虐性を満たすための儀式だった。

 そして、どこで聞きつけたのか、そうして集めた血を浴びることで、自らの若さと美しさが永遠に保たれ、生命力があふれてくると狂信していた。そのおぞましい儀式の「素材」としてアランが手配するのは、決まって平民で、身寄りのない若い女たちだった。そうすることで、事が露見する危険を最小限に抑えていた。

 犠牲者の亡骸を処理するのは、いつもアランの役目だった。罪悪感に心が軋む夜もあったが、妹の穏やかな寝顔を思えば、どんな泥にも手を染めることができた。彼は信じていた。この献身が、いつか報われる日が来るはずだと。少なくとも、妹が生きている限りは……。


 ある日、事件は起こった。エリザベートを恨む男が、彼女に襲いかかったのだ。男はローゼンクランツ家の元騎士で、エリザベートの非道な行いを伯爵本人に密告しようとしたが、アランの工作によって横領の罪を着せられ、追放された過去を持っていた。その恨みによるものだった。


 アランは咄嗟にエリザベートを庇い、男のナイフを受け止め、奪い取った。命に別状はなかったが、彼の顔には、一生消えることのない醜い傷跡が刻まれた。


「まあ、酷い! 私の大事なアランの顔に傷をつけるなんて! もう使えないじゃない!」


 エリザベートは、自分を襲った男のことよりも、アランの「美しい顔」が損なわれたことに激怒した。その言葉は、アランの心臓を冷たい手で鷲掴みにした。

 やはり、この令嬢にとって、自分は美しい置物、愛玩動物のようなものだったのだ。献身も、命懸けで守ったことさえ、この方にとっては顔の傷一つに劣る些事。アランは、顔の傷よりも深いところで、何かが決定的に壊れていくのを感じた。


「アラン、貴方、もうお役御免よ。だって、その顔じゃ、私の傍に置けないもの。目障りだわ」


 数日後、エリザベートは、まるで汚れたハンカチでも捨てるかのように、アランに解雇を言い渡した。妹の治療費? もちろん、もう出さないわ、と冷たく言い放って。


アランは、言葉を失った。絶望が、冷たい霧のように彼の全身を包み込む。妹はどうなる? 俺が今まで捧げてきたものは、一体何だったのだ?


「……最後に、一つだけ、仕事を頼むわ。いつもの『あれ』の処理よ。それが済んだら、とっとと出ていきなさい」


 エリザベートは、何の感情も見せずに命じた。いつもの、血を抜かれた犠牲者の後始末。これが、最後の仕事……。アランは、虚ろな目で頷いた。もはや、思考は麻痺していた。


 エリザベートは、ふと何かを思い出したように、アランに背を向けたまま、吐き捨てるように言った。


「今日の『あれ』だけど、なんだか質が悪かったわ。血の色も濁っていたし、量も少なかった。本当にハズレだったわ。……どうしたの、さっさと片付けなさい」


 その言葉は、アランの耳にはほとんど届いていなかった。ただ、令嬢の不機嫌そうな声だけが、遠くで響いているように感じられた。


 夜の闇に紛れ、アランは「それ」を運び出す。いつもより軽い気がした。月明かりの下、人気のない森の奥深く。途方に暮れながら、抱えた死体の包み布を剥ぎ取った。


そこに横たわっていたのは……妹だった。


 血の気を失い、冷たくなった、最愛の妹。エリザベートが「ハズレだった」と吐き捨てた「あれ」が、自分の妹だったという事実。


 アランの中で、何かがプツリと切れた。悲しみ? 怒り? いや、それらを超えた、もっと黒く、底なしの虚無。


「あ……ああ……あはは……あはははははは!」


 狂ったような笑い声が、静かな森に響き渡った。涙は出なかった。ただ、空っぽになった心が、乾いた笑いを吐き出し続ける。


 妹は死んだ。俺が守ろうとしたものは、跡形もなく消えた。そして、俺が捧げた全ては、この女にとっては、何の価値もなかった。顔に傷がついただけで、捨てられる程度のものだったのだ。


 何のために、俺は手を汚してきた?

 なるほど、確かに俺の行いには忠節など宿ってはいなかった。


 何のために、俺は悪魔へ魂を譲り渡してきた?

 それでも、誰よりもあの女を満たしてきたという、汚泥のような自負があった。


 全ては、無駄だった。

 全ては、虚構だった。


 狂気に支配されたアランの瞳に、ギラリと凶暴な光が宿った。


 翌日、アランはエリザベートの前に現れた。その形相は、もはや以前の彼ではなかった。虚ろでありながら、燃えるような憎悪を宿した目で、彼は令嬢に襲いかかった。ナイフを振りかざして。


 しかし、狂気に駆られただけの攻撃は、鍛えられた護衛騎士たちには通用しない。アランは、あっけなく取り押さえられた。


 床に押さえつけられながら、アランは、もはや焦点の合わない目でエリザベートを睨みつけ、呪詛のような言葉を吐き出した。


「エリザベート……貴様も、いずれ……俺のように……」


 そして、他の配下たちに向かって、壊れた人形のように笑いながら叫んだ。


「見ろ……これが、この女に尽くした者の末路だ……! お前たちも……いつか……!」


 その言葉は、他の者たちの心に、無視できない不安の影を落とした。


 次の瞬間、アランの口から血が溢れ出した。彼は懐に忍ばせていた毒を、既に呷っていたのだ。助かる気など、狂気に飲み込まれる前から、とうの昔に失せていたのかもしれない。


 アランは、顔だけの男として利用され、妹を無残な形で奪われ、己の献身と存在価値の全てを否定された絶望の果てに、狂気に身を任せて死んだ。彼の人生は、エリザベートという虚無が生み出した、歪んだ悲劇そのものだった。しかし、彼の狂気と最期の言葉は、確かに、悪の令嬢を取り巻く者たちの心に、破滅への亀裂を走らせ始めていたのである。



 アランの死が元になり、エリザベートの悪事の隠蔽が雑になったのでした。

 そして、王子の調査によって多くが明るみとなったのでした。

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