子連れ狼
〈天に告ぐ雲雀咥へた男伊達 涙次〉
【ⅰ】
杵塚はホンダ・スペイシー100で、由香梨をフリースクール迄送つた。帰るさ、ケータイを見る。メールが溜まつてゐる。これも皆、有閑マダムたちの、やゝもすればグロテスクと云へる慾求への、入り口なのだ。
さう、杵塚はハスラーであつた。彼の事を、知的な靑年と踏む、マダムたちのお話相手。勢ひ、彼女たちは、その秘められた肉慾を露はにしてくる...。由香梨には打ち明けられない事であつた。
中野區野方の彼のぼろアパ(由香梨が同居人だ)の駐輪場から、カワサキZ-250を引つ張り出す。マダムたちは、ハーレーとかビッグバイクを彼に買つてやりたがるが、彼はピーキーな走りの特性を持つた、250ccクラスの輕量バイクが好きだつた。何事も、己れの道を、もうかうなれば、突き進むしかない。それは生活信条の吐露であつたけれども、何か諦めの言葉にも似てゐた。
今日はNさんの日だ。急ぎ、彼女指定の喫茶店、パティシエ某の經営になる、ケーキハウスへとバイクを飛ばす。Nさんとは、まだ寢てゐない。そのせゐか、彼女からの収入は少額であつたが、皆マダムたちは、そこから入つて次第に本性を現はすのだ。
【ⅱ】
酒場でカンテラに、また會つた。悦美を連れてゐる。アルコホル75%の火酒が、彼御用達の酒であつた。アンドロイド、火の精。彼の躰は、度數の低い酒では燃焼しきらぬ。だがそれは杵塚には預かり知らぬ事であつたけれども。
事實、彼の事は(テレビのワイドショウで取り上げられる以上には)知らない。「侍」の異装は目立つたが、それは髙圓寺の夜の、風物詩と化してゐた。
カンテラは、意外だが、にこやかに彼に話しかけてきた。「やあ、杵塚くんだつたよね。先日はどうも」杵塚は何故か吃つてしまつた。「ど、どうも」だうにも緊張する。この御仁と話す時は。
「映像関係の勉強をしてるんだつて?」「獨學ですが」
その他つらつらと、プライヴェートを彼に披露してしまつた。何ゆゑ、彼は俺に接近してくるのだらう? それすら摑めない。由香梨は多分、一人でゲームでもしてゐる...。
【ⅲ】
Nさんとの事に、話を戻さう。謎めいた靑年、と云ふのは、杵塚の専賣特許であつたが、謂ふなればNさんは、「謎めいた中年」であつた。詩を、書いてゐると云ふ。
美しい星には
美しい人しか要らない
と神は言う
だからわたしたちは
醜い星に棲んでいる
転向への可能性は
秘められている、即ち
醜悪さを捨てる
未来のわたしたち
なかなかに難しい
神の要求の下
エデンは広々と、誰も住まない
空き地になつている...
彼女のそんな詩が、詩誌に載つてゐた。旦那は、まあ(俺を相手にしてゐるからには)カネ持ちなんだらう。主に知的な(本物の知性とは何か、杵塚は知らなかつたけれども)會話で、彼女の豫約の時間は過ぎた。
⁂ ⁂ ⁂ ⁂
〈アダムのみふらりエデンに立ち戻る汚穢まみれのイヴは棄てられ 平手みき〉
【ⅳ】
若者同士のやうに、バイクにタンデムで吉祥寺まで行つた。Nさんは氣分が髙揚したのだらう、その儘初めて、ホテルの入り口に立つた。丁度サーヴィスタイムの時間帯(平日晝)で、事が濟んだ後、杵塚はうつらうつら眠つたかも知れない。時間かな、彼が薄目を開けると、毛むくぢやらの動物が彼の顔を覗き込んでゐる。「わ!」
「だうしたの?」瞼をこすると、やつぱり、NさんはNさんで、だうやら俺は目醒め際の夢をみたのだ- 杵塚は深くは考へなかつた。
その日以來、Nさんはその深い情慾を隠そうとはしなくなつた。嗚呼、女と云ふ者よ... それ程までに、肉體の罠は甘いのか。杵塚の心に、少しばかり落胆の影が差した。
【ⅴ】
さう、杵塚にとつて、Nさんは、ほんの僅かにだが、「大事な人」となつてゐた譯だ。しかし、その思ひも、爛れた肉慾の日々が蔽ひ隠してしまつたのだ。
杵塚は、やつれた。「この俺が、戀やつれ?」どの道、杵塚が戀したNさんは、過去の人である。今は、若い肉體を貪る、淺ましい中年女がひとり、ゐるだけだ。
或る夜、由香梨と錢湯の帰り、「あれ兄ちやん、その首の、何?」「首?」帰つて鏡を見た。二つ、牙でも当てられたかの如く、穴のやうな傷がある。杵塚はぞつとした。【魔】だ。Nさんは、魔道に墜ちたに違ひない!
教へられた、「カンテラ一燈齋事務所」の電話番號に掛けてみた。事情を説明すると、カンテラ「まあ事務所に來なよ」と云ふ。
【ⅵ】
カンテラ、杵塚の頸の傷痕を見て、「こりや年經た吸血蝙蝠、と云つたところか」杵「僕はだうすれば」カン「さうだな、そのN、と云ふ女と繋ぎ、取つてくれ」杵「謝礼金の問題が、あるのですが。僕の蓄へはそんなには、ない」カン「惡いが有り金そつくり持つてきてくれ。若いんだから、無一文になつても、だうにでもなるさ」杵塚は由香梨の將來の学資、と思ひ、少しばかりの貯金をしていた。いづれ、彼らは非人情の世界に棲む者ら、なのだ。さう自分に云ひ聞かせた。
と云ふ譯で、杵塚、N某を所定の場所、神田川沿ひの公園、に白晝呼び出した。誰もゐない公園。N某が「何の用?」と姿を現はす。と、
「ちと乱暴なやうだが」じろさん、こと此井功二郎、彼女の腕を捩ぢり上げ、ぐいぐい締め付けた。「ぐわつ、ぐえつ」見る見る内に、一人の女が、一體の魔物へと変貌した。例の、毛むくぢやらの。
と、カンテラ、腰の物を拔き、
「しええええええいつ!!」じろさんには傷一つ付けず、【魔】の首を刎ねた。
呆然とその様子を眺めてゐた杵塚、「俺、何やつてんだろ?」これこそが、彼の撮影すべきマターではないか!!
【ⅶ】
その日以降、杵塚と由香梨は、カンテラ事務所の「押し掛け居候」となつた。彼らの全てを、撮つて撮つて、撮りまくる。杵塚は己れのライフワークを、やうやく見付けたのだつた。
お仕舞ひ。
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〈剣とペンどちら重いか知らねども知らず生きるは容易なりけり 平手みき〉