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私の恋人

作者: あまだれ24


今日はバレンタインだから、君に似合うマニキュアを買っておいた。


淡いピンク色の、男の僕が見ても可愛いと思うフランスの有名ブランドのもの。


自分よりだいぶん若い、たぶん大学を卒業してすぐくらいのはじめて見る女性の店員さんに女性用化粧品のことをあれこれ尋ねるのは、ちょっと恥ずかしいというか、今年30になる男の僕がブランド化粧品店の売り場にいること自体なんだか場違いな気がして、しょうじき気詰まりだった。


けど毎年そうしてきたんだ。


僕が17歳のバレンタインデーに君にマニキュアをはじめて買って以来ずっと同じ店でそうしてきた。

だから今さら恥ずかしがるのも変な話だよね。自分にそう言い聞かせて、この切りたての鮭の身のような色鮮やかなマニキュアに決めた。


あの若い店員さんにモジモジする変な客だった、なんて思われてなければいいけど、でも君が気に入ってくれるなら僕は何だっていい。


君を待つあいだ、僕は何度も袋からマニキュアの収まった小さなケースを取り出しては、君が喜ぶ顔を想像して、僕もつい頬が緩んだ。


あの店員さんの手で、品のいい小ぶりな白い紙製のケースが、それと同じブランドのロゴが印刷されたコンパクトな黒い紙袋に入れられて渡された。


毎年同じ店で買ってるはずなのに、昨日はじめて気づいたよ。店員さんがつけてるマニキュアは必ずしもその店のものとは限らないんだ。


あの親切な若い店員さんがつけてたのは、たぶん、違うブランドのものだよ。

毎年同じブランドの色違いを買ってるから、いつの間にか表面の光沢の具合で直感的に分かるようになったんだ。


本当だよ。


じっさいこの前、テレビに出てた若手役者の女性の手元が数秒アップになった時、その時はアルコール消毒が増えて乾燥しがちな手のスキンケアっていう話題でその人の手がズームアップされたんだけど、あれ、って思ったんだ。


自分でも何に対してそう思ったのかすぐにわからなかったけど、ちょっと昔話題になったクオリアってやつかな、よく見たらマニキュアの光沢の具合に見覚えがあったんだよ。


番組が終わってから検索してみると、やっぱりそうだった。コスメに詳しいことで有名だというインスタグラマーの若い女性が、さっそくさっきの番組で役者の子がつけてたマニキュアの解説をしてたんだ。


色は暗い色の、君には絶対に似合わないやつだったけど、光沢の、照明の光を反射する感じがそっくりだった。

なんだか自分が彼女の他のファン達全員に勝ったみたいな、変な満足感を味わったよ。


僕には女のことがわかるぞみたいな安っぽいマッチョイズムのような満足感じゃなくて、それはあのマニキュアのほうから僕を、男ではきっと僕だけを捉えに来たことへの満足感なんだ。


何を言ってるんだろうって自分でも思う。僕はちょっと変わってるのかもしれないね。


たしか君も、一度だけ僕にそう言ったよね。

ところでもう夜中の11時だ。

君は今、どこで何をしているんだろう。


僕のプレゼントを早く受けとって欲しい。そして君の感想を聴きたい。


この色は確かににあの時君がつけていたマニキュアの色だろ?


それとも違う?


あの日、僕は君に何をされたんだろうね。


冬の海から吹き付ける潮風にさらわれた細かい砂が、ときどき僕の頬をなぶる。その度に僕は目に砂が入らないよう、ギュッと目を閉じた。

海の見える砂浜に近い松林。昼でも薄暗いあの松の群れを大人の言葉で防風林というのだろう。


子供だった僕は、ふと、その林の中で鮮やかな黄と黒の和服の着物をまとったみたいな生き物を見つけた。

まだ小さかった僕は、それがじっと動かなかったので、きっと死んでいるのだと思った。


なぜこんな小さかった僕が「死」みたいな難しい考えを持っていたのか、まだ5歳に満たない幼稚園児だった僕が。

ひょっとしたら大人になった僕が記憶を捏造したのかもしれない。


でも、じっさい、あの生き物-蜘蛛-に触ったはずだ。だって僕は今もこうしているんだから。

黒と黄の美しい色に、どっちがお尻でどっちが頭がよく分からないユーモラスな見た目が、僕を魅了したんだと思う。


僕の記憶が間違ってなければ、そいつは死んでるんだと思って、僕はそっと手を伸ばした。

蜘蛛は網に体を支えてたはずだけど、薄暗くて網が見えなかったのか、そいつは宙に止まってるみたいだった。

僕はその蜘蛛をポケットに入れて家に持って帰ろうと思った。ママに見せてあげたかったんだ。


君が僕を「変わった子」って呼んだのは、僕のこういう注意力のなさを言ったのかもしれないな。昔から、したいと思ったことを必ずやってしまうんだ。


手を巣に伸ばしたとき、またサーッと浜から風が吹き寄せた。僕以外の子供たちはキャーキャー高い声をあげて風に背を向けた。


けれど僕だけその突風に気づかなくて、もろに目に砂粒が入ってしまった。驚いた拍子に手も振った。


と同時に手の甲に変なソワソワする感じがして、目を開けると、あの美しい蜘蛛が僕の手に乗っている。

しかも長く細い針金のような足が、動いていた。生きているとは思っていなかったから、いきなり首の付け根を背後からグッと誰かに掴まれたような、信じられない驚きに襲われた。


次の瞬間、そいつに噛まれた。


「ぎゃっ」


僕は漫画みたいな悲鳴をあげたと思う。すごく痛かった。手を咄嗟に振ると蜘蛛はどこかへ飛んでいった。


僕の声を聞きつけた先生が蜘蛛が消えたほうから駆けてきた。


痛みと驚きに激しく泣いている僕の断片的な言葉から、ようやく蜘蛛に噛まれたことを理解した先生は、すぐに僕の噛まれた手の甲に口をつけた。


何をされてるか分からない僕の前で、さおり先生は「ぢゅっ」と音を立てて、僕の毒を吸い出してくれたのだ。


呆気に取られた僕は泣くことも忘れて、ただ、先生のその化粧っ気のない唇が、何度も何度も僕の手の甲を吸ってくれるのを目で見、肉で感じていた。


蜘蛛に噛まれた以上の痛みが、僕の小さかった手を麻痺させた。先生のいつもは涼しい一重の目が、真剣な表情をして、一生懸命吸っている。


その時僕は全身がくすぐったくて、自分の足に徐々に力が入らなくなって、ひょっとしたら反対にさおり先生に手から体に何か注射されているのではないか。そう疑った。


膝が、がくがくと震えた。

先生がおもむろに口を離す。自分の口に溜まったものをいつもの男勝りな感じで、ぷっ、と松の根方に吐き出した。

さおり先生は息を切らしていて、肩で呼吸し、目や口元にまだ緊張した力が残っていた。


「けんたろうくん、毒は先生が吸ったけど、念のため今から病院に行こうね」


とっくに泣き止んでいた僕は、先生がそう言った時、自分の手の甲の蜘蛛の噛み跡だった場所の燃えるような赤さを、そのじんじん疼く熱い痛みとともに呆然と眺めているところだった。膝の震えはもう治まっていた。


松林を国道沿いの歩道に移動して、救急車を待つ間、他の子供たちが僕の赤く変色した手を見て口々に「どく!」とか「いたそう!」とか賑やかに騒ぎ立てるのを叱る先生は、もうさっきの初めて見る恐ろしく必死な緊張した顔をしていなかった。


救急車の到着を待つあいだ、僕の噛まれていない方の手を握ってくれていた。


ふと、僕は何かいつもと違うものを感じた気がした。なんだろうと不思議な気持ちに囚われていた。何がおかしいのかわからなかった。


ようやく僕は、違和感の正体がさおり先生の手だということに気づいた。


いつも化粧っ気のないさおり先生の細くしなやかな指の先が、淡いピンク色の光沢を放っていたのだ。

僕は子供心に、先生も好きな人がいるのだと、妙な納得をした。


そう思った時、手の甲が無性にソワソワしたのを覚えている。


もう少し大きくなって、さおり先生と何年も合わなくなった頃。

母が実家のたんすを整理している時、偶然、僕が蜘蛛に噛まれた日に撮った噛み跡の写真が出てきたことがあった。僕は覚えていなかったが、母曰く父が撮ったらしかった。


「噛んだのはジョロウグモやろうから、毒は無いも等しいってお医者さんが言ってたね」


その写真の日付が2月15日でバレンタインデーの翌日だった。

僕はその時から、あのマニキュアは先生の恋人が、先生にあげたものだと信じるようになった。


バレンタインはふつう日本だと、女の人から男の人にチョコやプレゼントを贈る日だけど、僕は思い込んだら信じるのをやめられないタチなんだ。


どんどん、自分の想像が頭の中のスクリーンで鮮明な姿になって、本当のことと同等なリアリティを持ってしまうんだ。


ひょっとしたら、先生が毒を吸ってくれたことだって妄想で、本当は自分でやったのかもしれない。そう思う日も一年のうちには何度かあるんだよ。


本当はどっちなんだろうね?


17歳の時、僕は大事な受験を前にしながらさおり先生、いや、君のことが、過去最も頭の中で肥大して手がつけられなくなった。

蜘蛛を見ると僕は君のことを猛烈に思い出して、何時間でも囚われる。


ここまで来たら、僕は病気かもしれない。でもどうしたらいいっていうんだろう?


そう思った僕は、その年のバレンタインデーに君の気に入りそうな色のマニキュアを買うことにした。

あの日君がしていたような、光沢のあるピンクのやつだ。


一番君の記憶に近いのが、このフランスのブランドのシリーズだった。合っているかもしれないし、間違っているかもしれない。

心配だからそのシリーズの似ている色を、毎年ひとつ買うことにした。


でも残念だけど、今年買ったので、最後になってしまう。色を買いきってしまったわけだね。来年のことは来年考えよう。


正直言って、今年こそは君にプレゼントを送りたかった。

でも卒園以来僕は君に会えていない。

小学生の時に母にさおり先生の住所を尋ねてもわからなかった。僕が卒園したのと同じ年に幼稚園を辞めてしまったからだ。


きっと、あのマニキュアの男と結婚したのだろう。僕はずっとそう信じている。


ところでもう夜中の12時だ。君は今、どこで何をしているんだろう。

今年もまたバレンタインが終わってしまう。


僕のプレゼントを早く受けとって欲しい。そして君の感想を聴きたい。喜ぶ顔が見たい。

この色は確かにあの時君がつけていたマニキュアの色だろ?


それとも違う?


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