39 帳の中
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――ヤバイ。なんとかしてここから抜け出さないと・・・
目の前を不気味に飛び交う、二匹の窮奇の様子を窺いながら、美穂は今、何とかこの結界の外へ逃げ出す方法に思いを巡らせている。
このすぐ下の階にはさわこ、二階には黒子がいる。彼らならこの異変、結界に気が付いて、すぐにここへ駆け付けて来るはず。
そうだ、助けが来るまで、何とか時間稼ぎをするしかない。
しかしそうは言っても、巫女である自分は、身を守るための最低限の祝詞、呪法しか知らない。さっきの祓詞も簡単に破られてしまった。
――どうしよう…。恵、早く来て!
「ねえ、あの連続バラバラ殺人事件の犯人。――それって、あんたなんでしょう⁉ だったら、深山さんも、あんたが殺したの?」
「深山? ああ、この学校の・・・。彼女にも最初からこの子達の姿が見えたようでね」
頭上のもののけ達をチラリと見上げた。
「君のように、自分から俺のところにやって来たのさ」
「まさか」
「ほんとさ。彼女がどうしてもこの子達を欲しいと言うんでね」
「嘘でしょ。そんな気味の悪い妖怪」
今は静かに宙に浮かんだままの二匹に視線を遣った。
「そうかい? でも、この子達が願いを叶えてくれると言ったらどうだい?」
「やめてよ。何の冗談?」
「だけどね、ちゃんとそれなりの対価は必要だとも言ったんだよ」
ニヤッと笑って続けた。
「だから、願いを叶えてあげた代わりに、約束通り対価として彼女の血をいただいただけさ」
「願いを叶えてあげた? 対価? はっ、馬鹿馬鹿しい」
美穂は不愉快そうに眉を吊り上げた。
「でも、それなら私、まだその願いとやらを叶えてもらってないんだけど」
「君の願い? そうか、なるほど。そうだったね」
何が可笑しいのか、クッ、クッと笑いを堪えている。
「で、君の願いってのは何だい?」
「私の願い。それはたった一つ…」
(ひふみ よいむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ・・・)
「この、汚らわしい結界から、外へ出ることよ!」
(・・・うおえ にさりへて のますあせゑほれけ 布留部 由良由良止 布留部)
心の中で言霊を宿す祝詞を唱え終えた美穂は、くるりと背を向け、行く手を遮る結界の帳に、左の掌を置いて叫んだ。
「この汚れし結界よ、開け‼」
「もし、この結界を創ったのがあの時の妖怪で、美穂がこの中に閉じ込められているとしたら、早くこれを解かないと。中臣さん!」
黒子先輩の言葉に、
「ええ。でもどうやって・・・」さわこが俯いた。
そう言われても、今のさわこには、物の怪やその現象を見ることしかないできない。
「野原くん、どうしよう」困ったような顔で、俺を見た。
「いや、それが…。――結界も何も見えていないんだ。俺には」
「えっ!」さわこと黒子先輩が同時に声を上げた。
「確かに、ここから先に何か見えない壁のようなものがあって、前に進めないのはわかるんだけど…」
そう言って、見えない結界の帳に手をあてた。
「でも俺の目には、この先もいつもの廊下が続いているようにしか見えない」
「そんな・・・」さわこがますます不安そうに顔をこわばらせた。
「だって、野原君、あの時結界の中で一緒に戦ったじゃないか。中臣さんの助手をしているくらいだから、てっきり僕たちと同じ、見える側の人だと・・・」
訝しげに黒子先輩が尋ねた。
「いや、それがですね。むしろ今までああいうのが見えていたのが、たまたまというか、なんと言うか…」
さすがにさわこの使ったスプーンを舐めて、「見える能力」が開花しましたなんて、ふざけた冗談みたいなこと、言える訳もない。
「あっ!」
「中臣さん⁉ どうかしたんですか?」
不意に、隣にいたさわこが、ふらふらとその場にしゃがみ込むのを見て、黒子先輩が声を掛けた。
『やれやれ、こんな一刻を争う時に、仕方のないヤツめ』
すぐに立ち上がり、顔を上げたさわこが、俺の方を見て言った。が、何やらいつもとは雰囲気が違う。
(え~、なにこれ? どういうこと)
『とっとっとヤルことをヤッておかんから、こんなことになるのさ。この甲斐性なしが』
(おばあちゃん、なの?)
〈さわこ、気が付いたか。緊急事態だ。しばらくお前の身体を借りるよ〉
(えっ、どういうこと?)
『さあ、こっちへ来い、一樹』ニヤリとさわこが笑った。
(えっ? 何で、身体が勝手に動いてる。何が起きてるの?)
〈時間がない。詳しいことは後で説明してあげるから、堪忍しておくれ〉
『どうした? 何をしている。こっちへ来いと言ってるだろう』
ゆっくりと、自分から俺に近づいて来た。
――なんだ、この言い回し・・・。まさか、冴子の婆さんか?
(え~、なに、なに? おばあちゃん、一体何をする気?)
〈心配しなくていい。悪いようにはしないさ〉
さわこは目の前まで来ると、そっと背中に両手を回し、グッと俺を抱き寄せた。
(やだ、やだ! おばあちゃん、なにするのよ!)
そうしてそのまま俺を見上げ、両腕を首に回し、踵を上げてすっと背伸びをした。
目を閉じて、そっと自分の唇を俺の唇に押しあてる。
(い、いやあ~~~)
「うぎゃぁー」
「うわぁー」
何が起きているのかと、戸惑いながら見ていた岸野会長と黒子先輩が同時に絶叫した。
「ん~~‼」
一瞬のことに、あっけに取られ、大きく目を見開いたまま、固まって動けなかった。
柔らかな唇が重なり合って優しく動いた。
さわこの唇から何かが沁み込んでくるような不思議な感覚。
『コラ、こういう時は目を閉じんかい! デリカシーのない』
眼を開け、ゆっくりと唇を離したさわこ、いや冴子が言った。
「な、何をいきなり…」呆然として、俺はそのまま立ち尽くした。
『ま、今日のところはこれくらいでよかろう』妖しい笑顔が浮かぶ。
(おばあちゃん‼ なんてことすんのよぉー)
〈仕方あるまい、こうしなければヤツにはこの結界や物の怪が見えるようにならんのだから〉
(なに訳わかんないこと言ってんのよ、もう! しかも人前でこんなこと…)
〈ああん? だったら今度は二人きりでゆっくりとヤレばよかろう〉
(そんなこと言ってない!)
〈お前だって満更でもないんだろ? あたしにはちゃーんとわかってるぞ〉
(そ、そんなんじゃないってば…)
〈それに、このくらいのことして見せつけておかねば、あの亜弥とかいう娘に、一樹を盗られてしまうぞ。あの女、油断ならん〉
「な、中臣さん、清らかなあなたのような人が、こんなとこで、なんてことを…。しかも野原くんとだなんて」
今度は俺の方を向いて言った。
「見損なったぞ、野原くん。君があんなことをする奴だったなんて!」
『ギャーギャーうるさいぞ、黒子の子倅。キスくらいのことで』
「えっ⁉」
いつもとは違ったさわこの言葉に、一瞬、黒子先輩の顔に怪訝な表情が浮かんだ。
「あなた、本当に中臣さん?」
『おお、気付いたか。なかなか勘がよいではないか』
「あなた・・・。ま、まさか、宜野湾冴子、さん…」
あまりにも突拍子もない出来事に、しばし言葉を失い呆然としていたのだが、ふと気が付くと、岸野会長が物凄い鬼の形相で俺を睨んでいる。
「一樹くん、酷い。私の目の前であんなこと…」
しかし、そう言って怒っているとばかり思われた亜弥の眼には、意外にも涙が浮かんでいた。
「いや、あ、あれは、じ、事故です、事故。今のは…」
「許せない…」ぽつりと言った。
「えっ?」
「イヤよ、絶対に許せな~い!」
亜弥はキィ~~っと、ヒステリックに顔を顰めた。
そのままジリジリと距離を詰めて来るので、終いには背後の結界の壁にドンっとぶつかって跳ね返され、反対に前につんのめった。
前のめりなった俺の目の前に、まだ怒っている亜弥の顔があった。驚いてすぐに身を起こすと、そのまま背後の結界の壁に追い詰められてしまった。
「一樹くん!」
見上げる彼女の顔が、怒っているのになぜだかその時とても可愛く見えた。
「あんなの、絶対に認めないし、許さないんだから!」
そう言って振り上げた両手で、俺の両脇の壁をドンっと叩いた。
すると、壁に触れた亜弥の両手の周囲から、結界の帳に、音もなくビシビシと白く亀裂が走って、瞬く間に広がった。
「えっ⁉」
二人が同時に声を上げた時、俺の凭れ掛かっていた辺りの結界が、粉々に砕け散った。
「開け! もう何よ、開けってば!」
小さな子供が癇癪でも起こしたように、右腕の痛みを堪えて、何度も何度も両手で結界の帳を叩き続けた。
「どうしました? 巫女さま」
男が二、三歩美穂に近づいて来た。
「かわいそうだけど、どうやら君の最後の願いは叶わないようだね」静かに言った。
「そうね…」
その声に反応し、諦めたように美穂は男のいる方を振り返り、背後の結界の壁に凭れ掛かった。
「所詮この世には、人間の願いを叶えてくれる、そんな奇特な神様などいやしない。つくづく俺はそう思うよ」
男は珍しくやり切れない、といった表情を見せた。
「そうさ、人の願いを叶えてくれるのは、いつだってこいつらのような物の怪だけだ…」
と、男の言葉が終わる前に、美穂の凭れ掛かっている壁の右側に、音もなくサッと幾筋もの亀裂が走った。
次の瞬間、美穂があれほど何度も開けと願って叶わなかった結界に、ポッカリと穴が開き、勢いよく誰かがこちら側に飛び込んで来た。
「なんだと‼」驚いた男が叫んだ。
――なに⁉ めぐむが来てくれたの?
呆気に取られた美穂の眼に、仰向けに倒れた男の顔が飛び込んできた。ついさっき、髪型が可笑しいとさんざん笑い飛ばした男の顔だった。
「野原! 私を助けに来てくれたの?」
「イッテぇ、なんだよ、どうなってんの?」思わず呻いた。
しかし、一瞬喜びに輝いた美穂の顔が、曇る。
「あんた、何しに来たのよ?」
「ああん?」
「助けに来たのかと思ったら、なんで会長と抱き合ってんの?」
美穂の軽蔑したような視線に、見ると、縺れて一緒にここへ飛び込んだ岸野亜弥が、俺の上に倒れ込んでいた。
「痛ぁ~い。一樹くん、どうなっちゃってるの?」亜弥が顔を上げた。
「亜弥さん、大丈夫ですか?」
亜弥と一緒に身を起こしながら、何が起きたのかわからず、俺は辺りを見回した。
「お前、誰だ? どうやってここへ」
グレーの作業着を着たボサボサ頭の男が、訝しげに俺たちを見て言った。
そうか、どうやら目の前の人物が、前に美穂が言っていた「気味の悪い男」らしいとすぐにわかった。




