148話 生きる糧
その後の事は、翼羽はもう覚えてすらいなかった。気が付けば翅音と共に目的地である孤島へと辿り着いた。翅音がツァリス島と名付けたその隠れ島は、当然開拓もされておらず、木々などの自然が生い茂っていた。
そんな中、虚ろになった心で翼羽は佇む。しかしそれでもその眼は力を失う事なく何かを見据えていた。そして翼羽が翅音に問う。
「翅音は竜殲騎の操刃が出来なくなったとはいえ、剣の腕自体は衰えていない、そうでしょ?」
「まあ……そうだな」
「なら翅音の寿命が尽きるまででいい、これから毎日私に剣の稽古を付けて。殺すつもりでいい、それで死んだら所詮私はそれまでだったって事だから」
「おいおい、縁起でもねえ事言うなよ。それに翼羽様、本気で神鷹を殺してエリギウスとも戦うつもりなのか?」
「……それが今の私の唯一の生きる糧だから」
感情の起伏を失いながらも、決して曲がらない言葉、自虐めいた執念を感じ、翅音は憂いを抱きながら、それを感じさせないように事実だけを突き付けた。
先の戦いを見る限り、神鷹の力は竜殲の七騎士と遜色無い程強い。そして翼羽の剣の才は凡夫以下のそれだ。その翼羽が竜殲の七騎士級の力を身に付けるには途方も無い程の時間がかかる。いや、どれだけ時間をかけようと届く保証はどこにも無いと。
「そんなの百も承知だよ」
対し、引き下がらず返す翼羽に、翅音は更に続ける。
「それだけじゃねえ、竜祖の血晶を飲んだ翼羽様は不老であると同時に肉体の成長が出来ねえって事だ。これは強さを目指す上で更にとてつもない逆風になる」
「……それでも私はもう逃げる訳にはいかない。神鷹を殺す為なら、エリギウスを滅ぼす為なら何だってやる、どんなものも犠牲にしてみせる」
どれだけ現実を突きつけようと、どれ程の苦難の道を示そうと、翼羽が折れる事は無かった。翅音は、自身の全てを投げうとうしているような翼羽の目を見て、半ば諦めたように言う。
「まっいいぜ、ただしそういう事ならお前さんは今日から俺の弟子だ。当然翼渡様の娘のつもりでは扱わねえし勿論敬わねえ。んで本気で殺すつもりでしごく……それでいいんだな?」
それを聞き、翼羽は間髪入れず静かに深く頷いた。
※
その後程なくして、エリギウス王国を始めとする五大王国間で、竜祖の血晶と神剣を巡る争いが勃発し、世界はかつてない戦乱の渦に巻き込まれた。
戦乱はやがて広がり、かつて共に竜祖セリヲンアポカリュプシスと戦った盟友同士ですらが血みどろの争いを強制され、憎しみと怨念が世界を支配した。
絶大な力を持つ神剣とそれを駆る竜殲の七騎士。そしてそれを保有する王国間同士の戦いは、破壊、殺戮、汚染、あらゆる破滅への道を孕んだ。
それが後に〈羨血の七剣〉と呼ばれた災厄戦争であった。
しかし世界でそのような戦火が巻き起こる中において、翼羽は隔絶された自分の世界の中で、ただひたすらに己を磨く事だけに従事した。世界の動向も、世界の行く末も、興味は無かった。
そして翼羽は、文字通り毎日死にかける程に己を追い込み、翅音もまた翼羽の願い通り殺しかける程に追い込んだ。
※
力尽き、地に這いつくばる翼羽の髪を掴み、翅音は引き起こす。
「おい、殺すつもりでいいんだよな? ならさっさと立てよ、お前はまだ生きてんだろうが!」
「ぐぅ……うっ!」
剣を握る力も残されていない翼羽、しかしその眼光はそれでも鋭く輝いていた。
※
光の無い静寂な月下。
「ハアッハアッハアッハアッ」
一体どれ程の時間剣を振るっていたのだろう。柄が血塗れになりながら、一心不乱に翼羽は尚も剣を振り続ける。
※
翅音の足元で地にうずくまりながら翼羽は血反吐を吐く。
「ハアッハアッ……ガハッ……ハッ」
そんな翼羽を見て、憐憫にも似た感情を含む視線を向けた後、翅音はその場を立ち去ろうとするが、その足を翼羽が掴んで止めた。
「まだだ……まだ!」
※
木にもたれかかり血塗れで気を失う翼羽。
「弱い、お前は弱すぎる」
そう言い残し、その場を後にしようとする翅音。
「うわあああああああ!」
直後、翼羽は無意識に立ち上がり、咆哮と共に羽刀を握り締めながら翅音へと向かって行く。
※
毎日毎日剣を振り、泥水をすすり、血を流した。壮絶な日々を繰り返し、しかしそれでも強くなっている実感も無く、強くなれるという保証すら無く、深く暗い闇の底をもがき進むような毎日は、煉獄で業火に焼かれ続ける痛みに等しい。
だがそれでも、水滴が岩を削る速度のように、そよ風が大木を曲げる速度のように、極めて僅かにしかない兆しの中で、翼羽はひたすらに剣を振り続けた。
そして修行開始から一年後。〈羨血の七剣〉によって犠牲になった者達から発生した大量の怨気が、自浄作用も、封怨術師による浄化も追い付かない程に世界を汚染し、ラドウィードそのものが滅びかけていた。
そんなある日だった。
「師匠、島が……浮上している。それに声が聞こえる、頭の中に直接……これは聖霊の意思なの?」
この日、突如として世界を構成する大陸や島々が浮遊を開始した。そして翼羽達の居るツァリス島も例外ではなく。
「ああ、これはどうやら“聖霊神”の意思だ。浮上しているのは恐らくこの島だけじゃねえ、世界そのものだ」
「……世界が」
そうして世界は空の聖霊神カムルの意思で浮上を始め、怨気が蔓延る地上界から離脱し、天空界を形成させた。
更に地の聖霊神ラテラの意思が、地上界から立ち上る怨気を防ぐために全ての空域に結界を張り、地上界と天空界を隔絶させた。
言い伝え、伝説でしかなかった天空界オルスティアが、この日から人々の生きる世界となったのだった。
※
その後翅音は翼羽をツァリス島に置き、約一ヵ月かけ浮上後の世界を確かめる為に巡り、そして帰還した。
「どうやら俺達の世界は今、空……つまり天空界にあるみてえだ」
「天空界に?」
「ああ、んで地上界は結界が張られててこの世界と隔絶されている。聖霊神の意思が、怨気からこの世界を救ったんだ」
それを聞き、翼羽が小さな希望を抱く。
「……なら那羽地もこの天空界に」
しかし、翅音はゆっくりと首を横に振る。
「いや、本来那羽地がある筈の空域に、那羽地の孤島は無かった。那羽地は天空界に浮上出来なかったんだろう」
「どうして那羽地だけ?」
那羽地は一年前のエリギウス王国の侵攻によって民の殆どが虐殺された。その影響はあまりにも大きすぎた、そして浮上するには遅すぎた。恐らくは那羽地の大地にも木々にも、深くまで怨気が浸透し、浮上だけでは救える状態ではなかったのだと翅音は推測を語る。
翼羽はそれを聞き、血が滲む程に拳を強く握り締めた。そして腰の鞘から羽刀を抜き、翅音の方を向く。
「始めよう師匠、世界が地上にあろうとこの天空にあろうと関係無い、私は奴らを滅ぼす力を付けるだけだから」
※
翌日。
「師匠、何をしているの?」
島の土に翅音が何かを植えているのを見て、怪訝そうに翼羽が尋ねる。
「ん? ああ、こいつは苗木だ」
「苗木?」
「那羽地の近くにあった極小の孤島、そいつがオルスティアに浮上していてな、那羽地に近い気候だったからか、同じ植物が生息してたんだ。んでそっから桜の苗木を頂戴してきた」
「……桜を」
その瞬間、翼羽の脳裏に、零と約束を交わした桜の木の場面が過り、翼羽は切ない表情で俯いた。
すると翅音が続ける。他にも竹や松など色々な植物も持ってきてこの島に植えてみようと思っている、それらが育てば少しはここも那羽地に近い雰囲気になり、翼羽も住みやすくなるのではないかと。
しかし、そんな翅音の遠回しな気遣いを拒絶するように、翼羽は背を向けた。
「……そんなの、私にはどうだっていい」
そしてその場所から足早に立ち去って行ってしまった。
翅音は余計な事をしてしまったかと、一人気まずそうに頭を掻いて溜息を吐いた。
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