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121話 ゼロから一歩ずつ

 翌日。時刻は午後を回った。


 翼羽の熱は未だ下がっていなかった。そして翼羽の中にあるのは、ただただ焦りの感情であった。


 飛美華の言っている事は理解出来る。今は体を休める事が第一だ。しかし、ただでさえ開きがある零との距離、こうしている間にも零は翼渡と稽古をし、開いている距離は更に開いていく。そうなれば零に追いつく事は永遠に出来ない。


 自分の中にある確かな壁、それが零である事を翼羽は明確に確信した。


 そして、翼羽は布団から起き上がると、ふらつく足取りで道場へと向かうのだった。

 

 翼羽は道場の前まで来て気付く。道場の中からは激しい音が幾度も響いてくる事に。


 そっと道場の戸を開き、翼羽は中の様子を覗き見た。そこには木刀を手に、激しく打ち合う翼渡と零の姿が在った。


 零は竜の瞳となっていて、その身は疾風はやての如く、その剣は風を切るが如く、凄まじい猛攻を翼渡に仕掛ける。


「ハアアアッ!」


 袈裟斬り、逆風さかかぜ、突き、逆袈裟。以前の獣のような剣とは比べるべくもなく、洗練された剣技の嵐を放つ零、翼羽の眼はその速度に追いついてはいなかった。


「いいよ零、もっと細かくだ。ただ力任せに剣を振れば良いという訳じゃない、緩急を付け、確実に入る瞬間に全霊を込めろ」


 しかしその無数の剣閃を、竜域にも入らず、余裕の笑みを浮かべながら捌いていく翼渡。


 次の瞬間、木刀を振り上げ、上段斬り――を囮に翼渡の背後に回る零。その動きの鋭さに、翼渡の表情から笑みが消えた。

そして――


「ぐあっ!」


 翼渡の振り向きざまの横薙ぎを受け止め、その威力を殺しきれず木刀を弾かれながら吹き飛ぶ零は、道場の床に倒れた。


 剣を振り切った残身の姿勢で佇む翼渡の目は竜のそれへと変貌しており、零の剣技は、既に翼渡を竜域に至らせる程であった。


 すると翼渡は竜域を解除し、通常の瞳へと戻ると、零の元へと歩み寄り手を差し伸べた。零はその手を握り、翼渡に立たされる。


「また……勝てなかった」


 悔しそうに呟く零であったが、翼渡は優しい笑顔を浮かべた。


「まだまだ若い者には負けられないね、でも零ならその内、諷意鳳龍院ふういほうりゅういん流 秘伝 都牟羽つむはをすぐに会得し、更に強くなれる」


「……つむは?」


「ああ、竜域に入れる者にしか使えない、諷意鳳龍院ふういほうりゅういん流の奥の手だ」


「それを覚えれば翼渡様に勝てるようになりますか?」


「ははは、そう簡単に負けてやるつもりはないよ、でも――」


 翼渡は、真っ直ぐな眼差しで伝える。


「君ならいつか、私を越える騎士になれるだろう」



 そのやり取りを遠くで眺めながら、翼羽はあまりに遠すぎる零との距離に、そして翼渡との距離に、絶望すら出来なかった。絶望すら出来ない自分の不甲斐なさがただ憎かった。


 ――父様のあんな嬉しそうな顔、初めて見た。


 そう心の中でぽつりと呟いた直後、気付けば涙が零れていた。様々な感情が巡りに巡り、翼羽は必死で否定しようとしていた、必死で振り払おうとしていた言葉が頭を過る。


 ――ああ、そうか。私がどれだけ努力しても追い付けない。どれだけ願っても辿り着けない。“私は父様のような騎士にはなれない”。


 受け入れなければならない現実、翼羽は二人の姿を見ながら、止まらない涙を拭った。



「……翼羽?」


 するとその時、零が戸越しにこちらを眺める翼羽の姿に気付き、翼渡もまた気付いた。


「翼羽、もう寝てなくて大丈夫なのかい?」


 一昨日倒れた翼羽がもう起き上がって道場に来ている事を心配する翼渡。直後翼羽は、二人に背を向けてその場から走り去って行ってしまった。


「……翼羽、泣いてた」


 すると、不意にぽつりと呟いた零の言葉に、翼渡はぎょっとする。


「ええっ! 翼羽が泣いてる? そ、そんな! どどど、どうしよう! どうしよう!」


「お、落ち着いてください翼渡様」


 初めて見る翼渡の狼狽える姿に、零は逆に冷静になり、なだめるように声をかけた。


「うん、そ、そうだね。零の言う通りだ。よし、とにかく追いかけよう」


 翼渡がそう言いながら、翼羽の後を追おうとした時、翼渡は一瞬ふらつき片膝を付く。


「翼渡様?」


 そんな翼渡の異変に気付き、零が心配するように声をかけた。


「い、いや、大丈夫だ、今日はちょっと張り切りすぎたかな……それとも翼羽が泣いていると言われてびっくりしすぎてしまったのかな、ははは」


 どこか強がるような、どこかお茶を濁すかのような、そんな翼渡の態度を不審に思いつつもまずは、零は顔色の悪い翼渡を部屋へと連れていくのだった。





 翼渡を布団に寝かせ、屋敷の従者に医者を呼ばせ、その後で零は翼羽の姿を探す。しかし案の定、屋敷の中に姿は無く、同時に翼獣舎の八咫烏やたがらす、黒天丸の姿も消えていた。


 零はその事を伝えに翼渡の元へと戻るのだった。


「……そうか」


 自室の布団の上に座しながら、意外にも翼渡は冷静な様子で答えた。


「あの、ところで翼渡様、体の具合はその……大丈夫なのですか?」


「ん? ああ、医者は単なる過労だから安静にしていれば問題ないと言っていたよ」


 体の心配をする零にそう返すと、翼渡は優しい口調で伝えた。


「それより、さっきは突然の事で動揺してしまったけど、翼羽が泣いていた理由は何となくだけど解るよ……そして今居る場所もね」


「え?」


 そして翼渡は、零の目を真っ直ぐに見つめながら言う。


「零、一つ頼まれてはくれないか?」





 そこは、里の外れにそびえ立つ小さく高い丘の上。非常に険しく急な勾配のあるそこは、八咫烏などの翼獣でなければ決して辿り着けない。


 その場所に一本だけそびえる巨大な桜の木があった。


 季節は初夏、花は既に散り、青々しい葉が生い茂るその巨木の根本に腰を掛け、翼羽は一人膝を抱えて様々な思いを馳せる。


 どれくらいの時間こうしていただろうか、日は西の空へと沈み始め、空を染める茜色に翼羽は包まれた。


 するとその時、茜の向こうから飛んでくる八咫烏が一羽。それは何度も見た光景だった。


 この場所は、翼渡と、翼羽の母である和羽かずはとの思い出の場所であり、翼渡が教えてくれた翼羽にとっての特別な場所。悲しい事があった時、打ちのめされた事があった時、翼羽は決まってこの場所で物思いに耽る。そして、夕刻になると決まって父が八咫烏に乗って迎えに来た。


 しかし、この日は違っていた。八咫烏に乗って自分を迎えに来たのは、翼渡ではなく、零であったのだ。零は八咫烏から降りると、ゆっくりと翼羽の元へ歩み寄った。


「来ないで!」


 そんな零の姿に気付いた翼羽が叫び、零は足を止める。


「あなたさえいなければ、私はまだ希望を抱いたままでいられた」


 そして、両の目に涙を溢れさせ、心の内を曝け出す翼羽。すると零は、少しだけ表情を寂しくさせ、問う。


「翼羽は……俺の事が嫌いか?」


 その問いに、翼羽が一拍だけ空けて返す。


「嫌い」


 思わず言ってしまった言葉、否定出来なかった言葉、その一言を皮切りに、翼羽は思いの丈を全て打ち明ける。


「いつも涼しい顔して、私が一か月かかる事を数日でこなして、強くて、竜域にも入れて、私と違って父様からも期待されてて……あなたを見てると自分がたまらなく惨めになる、だからあなたなんか大嫌い!」


 言いながら翼羽は俯き、膝に顔を埋めて、声を震わせて続けた。


「でも……それ以上にあなたに嫉妬して、辛く当たって、いつも嫌な奴で、私は私の事をどんどん嫌いになる」


 顔を見せず、嗚咽する翼羽。すると零は再び歩を進め、ゆっくりと翼羽の隣に腰をかけた。


「俺は、読み書きも覚え始めたばかりで、言葉も達者じゃなくて、想いを伝えるのが下手糞だ。だから俺が思っている事をただ伝える」


 そっと寄り添いながら、いつものようにぶっきらぼうな物言いの零の言葉に、翼羽は黙って耳を傾けた。


「翼羽が俺の事をどれだけ嫌いでも、翼羽が自分の事をどれだけ嫌いになっても、俺は翼羽の事を嫌いになったりしない」


 翼羽はゆっくりと顔を上げて、零を見た。


「翼羽が俺に“零”という字を送ってくれたあの日、本当は嬉しかったんだ……嬉しくてたまらなかった」


 零は翼羽の目を真っ直ぐに見つめ、少しだけ微笑みながら続ける。


「翼羽は空っぽだった俺の名に、そして空っぽだった俺の人生に意味を与えてくれた。だから俺にとって翼羽は誰よりも特別な人なんだ」


 それを聞き、翼羽の目に再び涙が溢れる。溢れ続け、零れ続けた。


 自分にとって遠すぎる存在、そして大きすぎる存在、そんな相手が自分を認めてくれている。自分を見てくれている。それが何よりも嬉しかった。そして、何よりも申し訳なかった。


 翼羽は、堰き止められない感情を溢れさせ、号泣しながら零に飛び付いた。


「ごめんね……酷い事たくさん言ってごめんね零、うわああああ」


 そんな翼羽の頭を、零は黙って優しく撫で続けていた。





 それから、時間と共に翼羽の感情は落ち着き、二人は並んで空を見上げながら語り合う。


「いつからか翼羽が俺を敵視してたのは知ってた。でも、そんなに思い詰めていたとは思わなかった」


「だって……」


 翼羽は、照れ臭そうにこれまでの自分の想いを素直に吐露する。零が凄すぎて、いつも自分のずっと先を歩いていて、そこには越えられない壁があって、弱いままの自分がたまらなく嫌になった、嫌になって逃げ出してしまった。でもそれはただの甘えだったと気付いたのだと。


 そんな翼羽の言葉に、少しだけ俯きながら零もまた想いを吐露するのだった。


「俺にも越えられない壁があって、ずっと立ち止まってる」


「え?」


「俺にとっての越えられない壁は翼渡様だ、何度挑んでも勝てなくて、凄すぎて、俺のずっと先を歩いてる」


 すると、零は決意したように言う。


「でも俺はいつか、翼渡様を越えてみせる……翼羽と二人で」


「わ、私も?」


「追い付くんじゃない、越えるんだ。別に俺と同じ速度じゃなくてもいい、でも翼羽ならいつか必ずそれが出来る、俺はそう信じてる」


 すると、零は翼羽の方を向きながら微笑んで続けた。


「だから翼羽もここから始めよう。ぜろから、一歩ずつ前へ。そしてまた越えられない壁にぶち当たったら、ぶっ壊して押し通ればいい」


 風が吹いた気がした。そしてその風は様々な不安や葛藤を吹き飛ばした気がした。翼羽は笑顔を浮かべ、返す。


「それって零をぶっ壊していいってこと?」


「あ、いや、それは嫌だな」


 困ったように呟く零を見て、翼羽はくすくすと笑う。そしてそんな翼羽を見て、安心したように零も笑みを浮かべた。


「回りくどい事をたくさん言ったけど、俺が言いたいのは一つだ」


 そして零が言う。


「強くなろう……一緒に」


「うん」


 二人を優しく包み込む暖かな風が、何故だか翼羽には季節外れの淡紅色に思えた。

121話まで読んでいただき本当にありがとうございます。もし作品を少しでも気に入ってもらえたり続きを読みたいと思ってもらえたら


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どうぞ宜しくお願い致します。


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