ほんの少しのブルーモーメント
最初は気のせいかと思った。
しかし、ひたりひたりと背後から聴こえてくる足音は耳馴染みのないもの。まるで裸足でフローリングの床を歩いているような。道路のうえでは耳にするはずのないそれは、自分が足を止めるとぴたりと止む。そして、また自分が歩き出すと一定の距離を保って背後から、それが聴こえてくる。カンナは歩き続けてよいものか迷った。
通う高校の近所に繁華街があり、カンナの帰宅ルートは近くを通る。部活で遅くなったときなど、ときどき酔っ払いに絡まれそうになりもする。だから、慣れたものだとばかり思っていた。しかし、同じ人間のものか違和感を覚える足音に、冷静ではいられない。足音らしきものがついてくる状態で、家に帰って大丈夫だろうか、と懸念が湧く。
一度目に足を止めたとき、振り返っても足音の正体らしき人物は見当たらなかった。通り過ぎた人や、同じ進行方向の学生などの耳馴染んだ足音と姿ばかり。そのあとは、足を止めることはあっても振り返るのが恐かった。
カンナは、足音の正体をストーカーだと思うことにする。ストーカーはストーカーで恐いが、せめて人間であってほしかった。人間であれば、交番に逃げ込んで保護してもらうことも、犯人を捕まえてもらうこともできる。正体が定かでないものに対して、どう助けを求めればいいのか分からなかった。
ひたりひたりと、己の歩調に合わせて聴こえるそれに怖気を感じながら、カンナは意を決した。フェルトで作られたお菓子のストラップと一緒に鞄にぶら下げた防犯ブザーを握り込んで、歩調を速める。駆け足になるかならないかの速度で意識的に距離をとり、道の角ではなくビル同士の間で曲がり入ってすぐしゃがむ。そうして身を隠して、近付いているであろうそれの姿を確認するために、ビルの隅からきた道を覗く。防犯ブザーはいつでも鳴らせるよう、準備して。
緊張した面持ちで覗くと、誰もいなかった。野良犬などの足音を自意識過剰に反応してしまったのかもしれない。しばらくきた道を眺め、気のせいだと安堵したカンナは落とした視線の先に驚く。
「ひ……っ」
ひたり、と音がした。影ができるはずのない夕陽でオレンジに染まる道路に、黒い影がふたつ分。人間の足型とも、犬猫とも違う足型だった。何の動物か分からない足の影だけが道に落ちている。そして、ひたり、と音がするたびに足跡が移動する。カンナの方に。
異常な光景に腰を抜かしたカンナは、座り込んだままビルの間の奥へと後退る。だが、足跡はその間もカンナに近付く。足跡から目を離せずにいるカンナの前まできて、その影からどろり、と手のようなものが湧きだした。恐怖で凍り付いたカンナは悲鳴をあげることすらできない。
真っ黒な手のようなそれが迫り、心中ででは助けて、という単語が埋め尽くす。
カンナの足にその手が触れようかという寸前、どすりと降ってきた何かがその手を寸断した。
「ったく、クセェと思ったら雑魚じゃねぇか」
目の前に降ってきたのは大きな剣だった。カンナはこんな両刃の剣をアニメやゲームでしか見たことがない。その剣身が反射して、怯えて目を見開いた自身を映す。
そろりと、剣とともに降ってきた声の元をたどり、視線をあげると、鍔と柄頭に足を乗せ、剣のうえに立つ少年がいた。鋭い目と乱雑に跳ねた髪は獣のようだ。
「いやぁ、鼻が利くねー。たっちゃんは」
剣のうえの少年に気をとられていると、背後から場にそぐわないほど朗らかな声がする。カンナが振り向くと、黒髪の美少女がいて呆気にとられる。
「大丈夫? お嬢さん」
「は、い」
相手の愛らしさにのまれているうちに、近付かれ安否を確認される。カンナは反射的に頷いたが、そのときに違和感を感じた。中性的な声だと思ったが、胸元が平らだった。よく見ると、女性にしては身体の線に丸みがない。美少女だと思ったら、美少年だった。
美少年は、カンナの無事を確認すると、一般の女性よりも愛らしい笑みをみせた。彼が小首を傾げると、落ちかけの夕陽が艶やかな黒髪をきらめかせる。
「動けるなら、さがってろ」
美少年の笑みに見惚れていたカンナに、剣から着地した獣のような少年が柄を掴みながら指示する。少年が剣を構えたことを警戒したのか、足跡から無数の手が伸びだした。恐怖のあまり、カンナは傍にいたいた美少年にすがりつく。しかし、しがみつかれた美少年も、無数の手に襲い掛かられる獣のような少年も動じた様子はない。
「うざってぇ!」
「足跡をやらないとキリがないよ」
「つっても、的が小さくて狙いにくいんだよっ。足跡のうえに見えない本体があったりしねぇのか!?」
「ないねー」
剣を振って、襲う影の手を切り捨ててゆく少年に、しがみついているカンナを宥めながら美少年が助言を寄越す。そう言葉だけ。彼は、影の手と戦う少年を案じる様子もなく、事態を静観していた。すがりついた相手があまりにも落ち着いているので、カンナも次第に恐怖が薄れ始める。
「早くしないと陽が沈んじゃうぞー。体で払うって言ったのはたっちゃんでしょ」
「へ? か、体!?」
「紛らわしい言い方してんじゃねぇ!」
美少年の物言いに、カンナが動揺をみせると、戦闘中にもかかわらず少年が噛みついてきた。カンナに与えた誤解が心外だったらしい。
少年がこちらに振り返り、視線がはずれた隙をついて、影の手の一本が彼の足元を抜け、カンナに迫る。それに気付いた少年が、それを斬り捨てるより先に、カンナの足首が掴まれた。
ぞわり、と怖気が走り、カンナは息を詰める。
少年がカンナの足首を掴む手を斬ったのと、陽が落ちきるのはほぼ同時だった。闇が占める領域が増えたためか、足跡ごと残りの影の手もふっと消え去った。
脅威の対象が消え、危険は去ったはずなのに、少年は舌打ちをする。カンナ自身も、もうないはずの手の感触が足首に残っており、一安心という心地には程遠かった。感触が残っていることが気がかりで、カンナはおそるおそる掴まれた方の靴下を下ろす。
「え……」
絶望にも似た声が自身から漏れる。足首には薄暗いなかでも分かるほど真っ黒な手の痕が張り付いていた。
「マーキングされちゃったねぇ」
「マーキング……?」
「それ目印に、またくるぞ」
穏やかな声のなかに不穏な単語を拾って、カンナが訊ねると、剣をもった少年の方が答えた。彼の舌打ちの原因は、危険を取り除き損ねたためらしい。
「そんな……」
「そのまま家に帰ると、明日また、今度はお嬢さんの家にきちゃうけど、平気?」
「お父さんとお母さんは今日から旅行で、私……一人で」
両親が夫婦水入らずの週末旅行で帰っても不在なのは、両親に危険が及ばずよかったと思う。しかし、カンナは家に帰っても安心できない状況で一人でいるというのが恐くてしかたがない。少年たちの言葉を疑う考えはない。なぜなら彼らは明らかにあれの対応に慣れていた。彼らの言うとおり、足首の手形は汚れではないし、先ほどのあれはまた自分を襲いにくるのだろう。
どうすればいいか分からず、カンナは自分を抱き締める。
「じゃあ、ウチに泊まるといいよ。マーキングもとってあげる」
一人が恐いというカンナに、にこやかに美少年が提案する。あれに対応することができるのを目にしているので、カンナも彼らが守ってくれるというなら安心だ。
「いいの?」
「うん。たっちゃんが取り逃がしたのが原因だしね」
美少年の言葉に、剣をもっていた少年はばつが悪そうに視線を逸らした。持っていたはずの剣はいつの間にか消えていた。そのかわり、剣を握っていた方の手首に先ほどまで付けていなかったブレスレットがあった。チャームが剣を模していて、デザインは大剣と似ていなくもない。
対応策もない自分が一人でいるよりはずっといいと、カンナは彼らの言葉に甘えることにした。行き先が決まり、へたり込んでいたカンナに美少年が手を差し出す。
「俺は、橘碧。アレを始末するまでだけど、よろしくね」
「帆稀カンナ、です」
「カンナちゃん! 可愛い名前だね。ほら、たっちゃん。自分だけ名乗らないのは失礼でしょ」
「……伏見翼だ」
アオイに促されて、不承不承といった様子でタスクも名乗った。お互いの名を知り、知らない相手ではなくなる。
だからか、カンナは迷いなく差し出された手をとるのだった。
着いたのはごく普通の一軒家だった。
住宅地にある家のひとつ。橘と書かれた表札もちゃんとある。兄弟の多い家族でも住んでそうなアットホームさすら覚える家だった。彼らはこの家に暮らしているという。二人で暮らすにはいささか広すぎるかもしれないが、そのおかげでカンナが泊まる部屋が別であった。
それが意外でカンナは拍子抜けする。一体どんな隠れ家に案内されるのかと思った。
リビングに案内され、ソファで座っているとお茶でもてなされる。まるで友達の家に泊まりにきたような光景だ。もちろんカンナも普段なら、知り合ったばかりの男の子の家に泊まるなんてことはしない。そういった意味では非日常的だ。
恐怖で腰を抜かしてしまったカンナは、この橘家にくるまでひと悶着があった。最初はアオイがお姫様抱っこで運ぼうとし、華奢な見た目に反した力に驚きつつもあまりの恥ずかしさに辞退し、代わりにタスクが背負ってここまで運んでくれた。
「ふつーのお家なのね」
「あはは、どんなところ想像してたの?」
「……地下とか、倉庫とか、隠れ家っぽいの」
「なんでんな住みにくいトコで暮らさねぇといけねぇんだ」
彼らの意見に、それもそうだとカンナは納得した。誰しも日々の生活がある。デストピアでもないのだから、水道や電気が通っているか怪しいところで暮らす必要はない。カンナは、マンガに影響を受けすぎている自分をこっそりと恥じた。
お茶をして一息ついたところで、二人がカンナを助けた理由を教えてくれた。どうやら二人は、先ほどの足跡を探していたらしい。アオイがテーブルに二枚の写真をおいてみせた。どちらもカンナと歳の変わらない少女が写っている。歳以外に彼女らと共通点があるとすれば、長い黒髪をしていることだろうか。
「このコが二週間前、このコが一週間前に鬼隠しに遭ってて、その原因究明と解決が俺の仕事」
「仕事?」
「単発バイトみたいなもん。俺の管轄で起こったことだから」
本当にバイトのような気軽さでアオイは答える。誘拐などの人為的な痕跡がない行方不明が二件発生し、どういった経緯か目の前の美少年に依頼がきたようだ。しかし、マーキングを防ぎきれなかったとはいえ、実際に戦っていたのはタスクの方だった。その事実にカンナは首を傾げる。
「伏見く……」
「名前でいい」
「タスクくんは?」
名字呼びに嫌悪感を示したタスクの訂正に従い、カンナはあらためて問い直す。どうやら彼は名字で呼ばれるのが嫌らしい。それに便乗して、アオイも名前呼びでいいと付け足す。
「たっちゃんはね。ご飯代分ぐらいはって、手伝くれてるの」
にこにことアオイが答えるが、手伝うと言って手伝えるものなのだろうか。食費を稼ぐという生活感もあいまって、容易でないはずのことが気軽に聞こえる。
「居候同然だかんな」
「たっちゃんは俺の飼い主だから気にしなくていいのに」
「オレは気にする」
「飼い、主……?」
人間同士の関係を示すには特殊な単語を拾ってしまい、カンナは戸惑う。対して、アオイはにこやかに肯定する。
「そうだよー。ほら、飼い猫だってわかるように首輪もしてるでしょ」
そういってアオイが自身の首元を指す。そこには黒いシンプルなチョーカーが首を一周していた。彼は飼い猫というが、カンナにはどうみても人間にみえる。タスクの方は、頭痛でも堪えるように頭を抱えている。
冗談かどうか真意がわからない。二人の関係性について説明を求めるべきか、カンナが決めかねているうちに、アオイから提案を受けた。
「そういや、痕とってなかったね。さくっととっちゃおうか」
そういって彼が指すのは、カンナの足元だった。
「とれるの!?」
「うん」
取り除けるものならそうしたいカンナは、彼の提案に素直な反応をみせた。マーキングされた手形を除くには、直に触れる必要があるのだと、ソファに座るカンナの前にアオイが跪く。カンナが靴下をさげ、手形を露わにすると、彼の手がそこに触れた。
痛みなどはなかった。けれど、ずずっと音がして、手形の黒が彼の手に吸い込まれてゆく。異変があったのは、カンナではなくアオイの方だった。明るいところだと青みがかった黒髪だとわかる髪が、急激に伸び亜麻色へと変わってゆく。華奢な身体の線が少しばかり丸みを帯び、胸元は服の上からでも分かるほどに膨らんだ。その足首には、カンナから消えた手形がありありと浮かんでいた。
「っし、これでもうカンナちゃんが狙われることはないよ」
安堵させるような愛らしい笑顔も、名前の通り碧い瞳も変わっていない。だが、それ以外が一変していた。
「アオイくん!?」
「うん」
「アオイ、くん……??」
「そうだよ」
名前を呼べばちゃんと返事は返るが、カンナは今しがた自分が目にした光景を信じられずにいる。目の前の姿に、くん付けで呼んでよいものか迷う。
「女の、子……?」
アオイの姿が少年のそれから、少女のそれへと変わっていた。胸元なんて、どう見てもカンナよりも膨らみがある。美少女だと思ったら美少年だったが、やはり美少女だった。脳が混乱する。
「ああ、コレ。俺、治癒とかできないから怪我とかは自分に移して治すんだ。そうすると、どうしても他が解けちゃうんだよね」
ということは、先ほどまでの姿が変化したものということか。そう納得するしかない状況だ。
「どうして男の子に?」
とりあえず浮かんだ疑問をカンナが投げかけると、きょとりとしてアオイは当然のように答えた。
「だって、胸とか邪魔だし」
邪魔だからで姿を変えられる人は基本的にいない。アオイの当然が、カンナには当然ではなかった。
「俺、人間の五倍ぐらい寿命あるから六十すぎてるって言ったら信じる?」
「……タスクくん、人間より長生きの動物って飼えるものなの?」
「気にするのソコかよ」
さらに追い打ちの情報を追加され、カンナの頭はパンクしそうだ。混乱のうちに漏れた質問に、タスクは呆れる。
いろいろあり得ない光景ばかり見たので、信じるしかない。彼らが自分に嘘を吐く理由などないし、そんな様子は微塵もない。驚いてばかりだが、今回の件が解決するまでは、あるがままを受け入れるしかないとカンナは悟った。そうして、カンナは、アオイを彼と扱うべきか彼女と扱うべきかを葛藤するのだった。
アオイの情報だと、件の足跡は黄昏時、つまりは夕方にしか出現しないらしい。そのため、カンナは一泊して明日の夕刻に彼らが倒すのを見学させてもらうことにする。マーキングがアオイへ移ったからと、それで安心して家で一人でいれるほどカンナの肝は強くない。本当に安全だと確認しないことには、せっかくの週末もただ恐いだけだ。土日をゆっくり過ごすことも叶わない。
カンナの希望は快く受け入れられ、女の子がいると華やかだとアオイはおいしい手料理でもてなしてくれた。タスクの方は歓迎しているような様子はないが、かといってカンナを鬱陶しく扱うようなこともなかった。
食後は風呂に入り、ドラマなどを見たあとに客用の寝室で横になる。下着はコンビニで買い、パジャマは借りた。あらためて友達の家に泊まりにきたようだと、カンナは感じる。しかし、部屋で一人になると、自然と経験した非日常を振り返ってしまう。
すでに鬼隠しに遭った少女たちはどうなったのだろう。自分があの足跡に取り込まれていたら、どうなっていたのだろう。考え始めると、忘れかけていた恐怖がぶり返す。そういえば、アオイは自分のマーキングを引き受けたあと、少女の姿のままだった。つまり、取り除かれるまでカンナが感じていた手の感触が今も、彼ないし彼女を苛んでいるのではないか。自分の身代わりをさせておいて、安心して眠れるわけがなかった。
一度、恐怖と心配事に気付くと睡魔が消えてしまう。カンナは水でも飲もうと、寝室をでてダイニングに向かう。他人様の家だが、水をもらうぐらいはいいだろう。使ったコップも洗えばいい。二人を起こしてはいけないと、カンナは足音をたてないように気を付けてダイニングまでたどり着いた。
食器の位置を確認するために明かりをつけるか悩んでいたところに、思いがけない声がかかる。
「眠れないのか」
その声は、ダイニングから吹き抜けで続いたリビングの向こう、庭に面したガラス戸からのものだった。ガラス戸は開いており、そこに庭に向いて座る少年がいた。
「う、ん。タスクくんも?」
「オレは見張り」
出現時間帯ではないとはいえ、今回は道中で攫われたのではなく、マーキングがされている。だから、タスクは念のため起きているのだという。彼の傍には、急須と湯飲みがあり緑茶を飲みながら夜を過ごしていたらしい。分けてくれるというので、カンナは食器棚から湯飲みだけをとり、縁側の彼の隣に座った。自分が煎れたものだから美味くないと彼は謙遜するが、カンナにはほどよく温くなったお茶が沁みた。実際に守ろうとしてくれた彼がいることもあり、ぶり返した恐怖も和らぐ。
「アオイくんは?」
「アイツなら寝てるぞ」
マーキングを引き受け一番身が危険だろうに、なんという強メンタルだろう。カンナは、アオイの胆力に呆気にとられる。
そのあとは沈黙だけがおりる。タスクは邪険に扱わないものの、カンナが質問しないと彼から自発的に喋らない。間の持たなさに、カンナは気まずくなってくる。けれど、一人で寝室にいると恐いだけなので、まだここにいたかった。
「えっと……」
「……悪かったな」
カンナが話題を探していると、唐突に謝罪された。一体なんの謝罪か分からず、カンナは首を傾げる。
「オレがとっととあの足跡ぶった斬っていれば、お前も普通に家に帰ってたろ。アオイと違って、オレは剣もアイツにもらったもんで、妙な力がある訳じゃない」
彼があげた手首にはブレスレットがある。やはりあのときの大剣はこのブレスレットだったらしい。タスクが剣術を嗜んでいるからと、対怪異用にアオイがくれた武器らしい。カンナからすれば、あんな人外の存在に怯まず挑めるだけでも充分凄い。だが、彼はそうは思っておらず、責任感を感じている様子だった。自主的に見張りをしているのもそのためだろう。
タスクは取っつきにくさはあるものの、悪い人ではないとカンナは感じた。
「タスクくんはどうしてこの家に住んでいるの?」
表札は橘だった。タスクの名字と違うのだから、彼にも家があるはずだ。話題を探して、カンナは気になったことを訊ねてみる。
「家を出た」
「どうしてかって聞いてもいい?」
名字で呼ばれることに嫌悪感を示していたので、あまりいい環境でなかっただろうことはカンナにも推察できた。そのため、理由を訊ねて問題ないかを確認する。
タスクは少し思案するように、夜闇に埋まる庭へと視線を向ける。
「お前、今日化け物に遭っただろ」
「うん。びっくりした」
マンガやアニメだけの世界のことだと思っていたことが、現実に起こった。カンナには非日常すぎる日だった。
「橘に会うまでは、オレも化け物をみたコトなかった。けど、オレは伏見家で化け物だった」
だから、家を出たのだと彼は言う。
事実かどうかタスクは知る由もないが、伏見家の先祖には妖怪がいたらしい。その妖怪が千年後に一族の血に甦ると予言を残して死に、予言だとタスクがその先祖返りだという。本当に怪異や異形の存在がいるなんて知らなかった頃、周囲から勝手に化け物扱いされ、嫌厭されて彼は育った。だから、嫌気がさして、タスクはとうとう家出をした。
「アイツは、飼い主だなんだ妙な条件は付けてくるし、化け物退治みたいな厄介事ももってくるが、オレを化け物扱いしない」
この家では彼を彼としてみる者しかいない。それだけでタスクは生きやすかった。
そんな迷信のようなことを信じている家があるのかと、カンナは驚く。人間として扱ってもらえず、理不尽な理由で脅威だと断じられる。そんなことが現実にあるのか。タスクの経験してきた人生は、カンナにとってまるで別世界の出来事のようだった。
「タスクくん、普通の人にしか見えないのに」
それがカンナの素直な感想だった。茶色い髪も目も、日本人によくある色合いで人間味しかない。身体能力が高いことは目にしたがそれも鍛えた範囲のものに思える。そんな彼のどこをみて異質だと思えるのか、カンナにははなはだ不思議でならない。
不可解をあらわにするカンナに、タスクは目を丸くする。
「あ。でも、普通とはちょっと違うかも」
「え」
考え込んだ末にそんな感想が彼女から漏れ、タスクはどこか異質なところがあるのかと不安に駆られる。しかし、続いた言葉は拍子抜けするものだった。
「タスクくん、カッコよすぎるから」
「なんだそれ」
鍛えているため均整の取れた体躯で、野性味のある顔立ちで、モデルなど芸能界からスカウトがきていてもおかしくないとカンナは思う。自身にいたってはもののついでとはいえ、危険から守ってもらったのだ。一切ときめくなという方が無理がある。
カンナは至極真面目に言ったのだが、タスクには呆れて笑われてしまった。それは、カンナが初めてみる彼の笑みだった。
笑みをみせてくれて、カンナはなんだか嬉しくなる。訊けば無視せず答えてくれるものだから、ぽつりぽつりとだが談話が続いた。恐怖や不安がどこかにいった頃、カンナは気付けば眠っていた。
翌朝、あてがわれた寝室での目覚めは心地の良いものであった。
結局、朝食も昼食もご馳走になり、黄昏時になるまではゲームで遊んだりと楽しんで過ごしてしまった。
緊迫感がないな、と思いながらも、カンナ自身楽しめているので、状況に少し慣れたのかもしれない。夕暮れが近付くと、リビングのテーブルやソファを部屋の隅へやり、動きやすいスペースを作る。庭に面したガラス戸を全開にして、迎え撃つ準備が整う。カンナは隅へやったソファのひとつに座り、結果を見守ることにする。
空がオレンジに染まりはじめ、電気を点けていないリビングも同じく染まってゆく。自分が襲われたときの色合いに近付いてくると、さすがに緊張してきた。カンナは、何ができるでもないので、二人の無事を祈り、胸の前で両手を組んだ。
リビングの中央ではタスクが立ち、ブレスレットを剣に変えて構えている。アオイは盾になるように祈る彼女の前にいた。その髪は黒く長い。アオイは少女の姿のままだが、狙われる対象の特徴と合わせるためにウィッグをしているのだ。ウィッグは隣の家から借りたらしい。どういったお隣さんか謎だ。
いかほど待っただろうか、かすかに聴こえていた庭の草木が揺れる音すら途絶え、場が静寂に満たされる。次の瞬間、ひたり、ひたりと足音がした。覚えのある音にカンナの肩は跳ねる。
足音が徐々に大きく、確かに聴こえだす。近付いているのだ。
カンナが固唾をのんで、ガラス戸が開放された縁側を睨んでいると、そこにひたり、と足跡が現れた。ガラス戸から数歩踏み入ると、そこで足跡の動きが止まる。剣を構えるタスクに怯んだのか、それとも手形のついた対象がアオイに代ったことに気付いたのか。静止した理由がカンナには分からない。
次の動きを警戒していると、足跡は止まった位置から、無数の手を出してきた。それらは剣を構えるタスクの元へ向かう。
しかし、タスクが迎え撃つ一歩手前で無数の手はぴたりと止まる。いや、止められた。
「今、たっちゃんを狙ったな」
確認する声音は答えを必要としていなかった。先ほどの手の動きは、昨日とは違い、獲物を狙い妨害を受けたからの対応ではなく、意図的にタスクを狙ってのものだった。
それが彼の地雷だった。
空気が一瞬にして重く感じ、圧で身動きが取れない。自然と呼吸が浅くなる。カンナは初めて殺気というものを知った。
そっと見上げると、アオイから表情が消えていた。それだけで人間離れした美貌に恐怖を感じる。これまで彼が笑っていたから、人間味を感じていたのだとカンナは気付く。
「女の子を狙うだけでもいただけないのに、俺の飼い主にまで手をだすとは」
アオイはただゆっくりと落ち着いた声音で話す。しかし、その一音一音が重く響き、無数の手が見えないなにかに押し返されてゆく。そうして、ついには足跡へと押し込められてしまう。それだけで終わらなかった。ギチ、ギチ、と床から足跡の影が剝ぎ取られはじめる。不快な異音から、カンナにも本来は剥ぎ取れるものではないと分かった。
剥ぎ取られ宙に浮いた足跡だったものは、ギチギチと音をたて丸められて、大きなビー玉ほどの大きさとなる。もともと生き物の形態をしていなかった。血が流れもしないのに、本来と違う形にされた光景が惨たらしく見えるのはどうしてだろうか。
「橘」
怯えを孕んだ声だった。自分は声すらでないのに、彼は恐怖を声にだせるのか。タスクのその強さは常人より勝っているとカンナは知る。
名を呼ばれ、アオイの表情がぴくりと動く。途端、カンナの息が楽になった。張り詰めていた殺気が消え去ったのだ。
タスクが振り返ると、アオイはにこりと笑った。
「ああ。たっちゃんのお手伝い分がなくなるとこだったね」
的外れな謝罪を受け、タスクは嘆息を零す。自分の手助けなど本当はいらないのかもしれないと思っていたが、こうもいとも容易く敵を無力化されるとやるせない。
アオイにいつもの笑みが戻ったので、もう彼に手出しする気はないようだ。タスクは諦めて、御膳立てに従い、黒い球体を一閃した。
タスクが一閃した箇所からぱかりと分裂し、崩れて煙のように消えてしまう。なんともあっけない解決だった。
しかし、カンナには一閃した瞬間、タスクの瞳が光ったように見えた。黄昏時で、夕陽が差し込んだせいだろうか。
自分を襲った対象が消失するのと同時に、アオイが代わりに負った足首の手形も綺麗に消え去った。ようやくカンナは自身の安全を実感できた。二人との別れも、橘家の玄関を出るという、あっさりしたものだった。別れ際、彼らのしていることや正体を秘密にした方がいいだろうと確認すると、どちらでもいいとの回答だった。どうせ言っても信じない、と。それもそうだとカンナは納得した。
そうして、カンナは非現実から日常に戻ったのだった。
週明けの月曜日、母親にいつも通りいってきますを言って家をでる。
カンナはそのいつも通りがなんだか嬉しかった。両親が昨夜旅行から帰ってきたときに、抱き着いてしまい不思議がられてしまった。想定よりも安全に無事を確保できたが、一時はもう両親の顔を見れないのではと不安がよぎっていたから、仕方のないことだった。
こうして変わらず通学路を歩いていると、タスクとアオイと出会ったことで経験した非現実が嘘のようだ。けれど、彼らもきっと同じ空の下で生きて、生活をしている。それをカンナは知っている。非現実的なことは存外ありふれているのだと、身をもって知った。
非現実の存在を知っただけで、カンナは日常に戻り、不可思議などない日々を送る。週末の出来事は、カンナにとって不運だったのか、幸運だったのか。恐くはあったが、あの二人と出会えたことは悪いことではなかった。
今頃、あの二人はどうしているだろう。そんなことを考えているうちに、高校の正門が見えてきた。制服の群れのなかに自分もまじり、見慣れた顔がちらほらと。
「カンナちゃん、おはよう」
「おは……」
「おう」
挨拶を返そうと、声の方の向きカンナは固まる。そこには自分と同じ制服を着たタスクとアオイの姿があった。明るい朝日の下で、アオイの短い黒髪は青く光っている。
「あ……、え?」
「俺の管轄だって言ったでしょ」
管轄の意味が、通っている高校の学区だから、とは誰も思わない。
「オレらB組」
カンナはA組で隣のクラスだ。そういえば、友達が隣のクラスにカッコいい男子がいると言っていた。まさか、彼らのことだったとは。
「あ。先に攫われた女の子たち、無事だったよ。入院することにはなったけど」
「ほんと!? よかったぁっ」
世間話のようにアオイは、他の被害者の安否を報せる。自分だけ助かったのではないかと居心地が悪い思いをしていたので、カンナは安堵した。これで本当に心置きなく彼女は日常に戻れる。
同じ制服に身を包んだ生徒たちと一緒に、カンナたちは校舎へと入ってゆく。その会話のなかには、ほんの少しの非現実を孕んで。
まるで夕陽が沈んだ直後、空が青の瞬間を孕むように――
モブすらの読者1号になってくれた友人に捧ぐ――
ずっと俺の一次創作を読んでくれてありがとう。