飛び降り自殺
心が泣いている。心が消えている。俺は心なのかそれともただの人の形をした物なのか。そう考えた瞬間、俺は僕になり、肉の塊から心が切り離された。視点が乱れてしまっている。テレビ画面に映る砂嵐のような光景が辺り一面に広がっている。精神が虫の大群に侵されていくかのように壊れていく。俺の心は確実に死んでいく。余命宣告されているようだった。今、きっと自分の中でカウントダウンが始まっている。残りは10秒、9、8、7、6、5、4、3、2、1…ドッカーン!頭の中で爆発。ゆっくりと眼を開く。
また失敗だ。俺が僕になっただけで、現実は何も変わりはしない。モノクロがカラーになっただけで、本質的には何も変わらない。首のあたりが何かにかぶれたようにヒリヒリしていた。この痛みが何よりの証拠であった。
「朝飯食べないと……」
時計を見て、僕は一刻も早く会社へ向かわなければいけなかった。現実は僕の知らないところで勝手に進んでいく。停止ボタンの機能なんてどこにもない。誰か止めてくれ!僕の世界に終止符を!そんなことを叫んでも、この世界の神の耳には届かない。届いたとしても、今更どうすることもできないのだろう。創ってしまった時点でもう時間は動き出すのだから。一度動き出した時計の針は止めることなんてできないのだから。
炭酸が抜けたコーラのような状態になった僕は立ち上がることができないため、床に散らばった書類や本、弁当の空やペットボトルを掻き分けながら、やっとの思いで自分の部屋から抜け出すことができた。下の階へ向かわなければ、冷蔵庫にある食料を漁ることができなかった。階段に降りるだけで一苦労していた。赤ちゃんの気持ちがよく分かった。この状態で落ちてしまったら後遺症が残るかもしれない。そんなどうでもいいことを考えながら、僕は着実に一段ずつ階段を降りていった。途中釘でも落ちていたのか、膝のところが血で滲んでいた。気分は最悪なものであった。ハンバーグと思っていた食べ物がおからで増された紛い物であったときのような絶望感であった。そんなことを考えていたら、空腹が限界まで近づいてしまう。紛い物でも何でもいいから胃の中に何かを詰めておきたかった。階段を降り切ったが、まだ冷蔵庫までは遠かった。一刻も早く向かいたいため、力の限り腕を使って前へと進む。普段であれば、時間すら感じないほどの長さの廊下も今では途方もないように感じる。このままでは会社も遅刻してしまう。そもそも、まともに歩けない今の状態で会社へと向かえるのだろうか。明らかに不可能ではあるのだが、いつのまにか手にはスーツ上下とカバンを持っていた。部屋を出る前に僕が気付かないうちに、持ち出してしまったのだろう。不可能と分かっていても、会社へと向かおうとしている。遅刻が確定してしまったとしても、向かおうとするだろう。会社が好きというわけではない。遅刻したとしても、注意されることはあるが怒鳴られることはない。そこまでして会社へ向かう理由があるのかと言えば、特になかった。ただ、出社しなければならない、そう感じただけだ。周りがそうしているから、自分もそうしなければならないと思っているのだろう。こういう考えを何と言うのだろうか。確か心理学ではハンディーグ効果というんだっけ?いや、何か違うような気がする。食べ物が頭の中に侵入して、僕の思考を邪魔する。知識が油取り紙似た何かに吸い取られていく。このままでは本当に赤ちゃんまで退化してしまう。胃を満たしたいため、僕はさらに腕の力を強める。幸いというべきかドアは開けっ放しになっていた。父が通った後なのだろう。閉めるという行為が出来ず、トイレに用を足す際も必ずドアを閉めることはしなかった。音と臭いが酷いため、毎回のように僕がドアを閉めていた。何度も注意したが、老人ホームで暮らしているかのように呆けた顔で静かに頷くだけだった。父は客と接するときは旧友に久しぶりに会ったかのように振舞っているが、家族に対しては物置でもなったかのように物静かだった。ただ、その父のおかげでドアを開けることに時間を費やさずに冷蔵庫へと向かえる。
400字詰め原稿用紙で4ページくらいに続いた道はようやく目的地に辿り着く。立ち上がることができないため、冷蔵庫の下の棚しか引くことは出来ず、そこには生野菜と果物しか入っていなかった。僕は丸かじりができるリンゴを取り出す。皮を剥くことすらせずにそのまま齧る。果汁が口の中で溢れ出す。それは喉奥まで纏わりつき、急激に喉の渇きを誘ってくる。水分を摂ろうと、上の段を開いたのだが腕だけでは飲み物までは届かずに、僕はこの喉の渇きを潤すことなく、会社へ向かう準備をすることになった。今の僕は砂漠の中で遭難している状態で、当てもなく歩いているようであった。オアシスが床に転がっているわけでもなく、あるのは掃除されていない床の上に埃が被っているだけだった。前までは、毎日のように掃除機で床をキレイにしてくれる人がいた。だが、それもずいぶんと昔の話だった。寡黙の父も少し笑顔が多くあったように感じた。そのときは、どうでもいいことでも笑えるような明るい人間であった。父が今の状態に陥ったすべての原因はひとりの人間にあることは分かっていた。それでも、もうその相手を責めることすら出来ない。父もそのどうしようもない怒りをぶつける相手を見失ったせいで、笑顔が消えてしまったのかもしれない。天にいる神と喧嘩が出来ないように、父は文句を言える相手がいなくなった。僕が悪役になればいいのだろうが、どうしても父を責めることが出来なかった。きっと、父のほうも真面目に働いているたったひとりの息子に対して、かける言葉が見つからないのだろう。
父のことばかり考えていると、時間も無駄に進んでしまう。僕は一刻も早く会社に行かなければならない。喉の渇きを潤すことはできなかったが、腹は満たしたため手に持っていたスーツを着る。上着はすぐに着替えることができたが、足を動かすことができないため、ズボンはなかなかに苦労したが、どうにかスーツ上下に着替え終えた。床の上にある埃でスーツが汚れてしまうのは分かっていたが、玄関のほうへ向かうには仕方ないため、足を床に擦り付けるように腕だけの力で一歩ずつ進んでいく。玄関に辿り着いた時には膝の部分だけが冷たくなっていた。最近、買ったばかりなので、余計に気が滅入ってしまう。こんなことになるのなら、初めからあんなことをしなければよかったと今更ながら後悔をしていた。だが、起こってしまったことに対して、後戻りもできないため、そのまま前へと進むしかない。僕は悔し涙を流しながらも、革靴を履いていた。あとは腕を伸ばせばドアノブに届くため、何の障害もなく会社へと向かえる。だが、そこで僕が今の状態では出社できないことに気づく。部屋の中だから、足を引きずりながら移動はできたが、外では不可能であろう。アスファルトでの移動は、鑢で削られているようなものであろう。たださえ、遅刻するということで精神が削られているのに。もうこれ以上、傷つきたくないと感じ、ここで初めて会社へ行くことを諦めようとしていた。会社に連絡するために、携帯電話を取り出した。電話帳を開いて、上司に連絡しおうとしたが、そのとき〇〇タクシーという登録した文字を見つけた。
数十分後、玄関で待っていると家のチャイムを鳴らす音が聞こえた。カギはかかっていないということを伝えると、チャイムを押した人物が玄関の扉を開く。そこには僕が呼んだのであろうタクシーの運転手がいた。顔には深く皺が刻まれており、髪のほとんどは白く染まっていた。会社員を定年退職した人なのか、長年タクシー運転手をやっているのか、見た目では判別できなかったが、相当の苦労をしてきたことは一目で分かった。その運転手の姿を見て、僕は深く恥じた。今の状態になったのは自分の過失であり、その有様を苦労した人に見せたくなかった。僕は何の苦労というものをしていないのに、そういう行動を犯してしまったのだから。鍛錬という言葉を知らず、自分は醜い人間だと嘆く。自分を卑下することで、他人の批判から逃れようとする。真正面から受け止めようとせず、分かっているからと適当に頷いている。そんな言い訳ばかりを重ねても意味のないことは分かっているが、そうしなければ自分はこの世界で生きることは出来なかった。
「お手伝いしましょうか」
今の状況については事前に電話で伝えていた。その行動に間違いはなかった。どうしてこの状況に陥ってしまったのかについてまでは話しておらず、自分は今立ち上がる状態ではないことだけを伝えていた。もしも、今この場で「どうして立ち上がらないのですか?」と聞かれてしまったら、僕は生まれてから今日まで、自分がどういう人生を送っていたのか事細かく素直に話してしまっていただろう。彼ではあれば、僕の全てを受け入れてくれそうであった。彼は孫に頭を撫でるときのような優しい表情をしていた。とは言っても、僕は祖父というものがどんな存在なのかは知らなかった。母方は僕が生まれる前に亡くなっていたし、父方は誰もどこにいるのか知らなかった。父が言うには、ロクでもない奴で、一度だけ金を貸してほしいと家に来たことがあるらしい。そういえば、若いころの写真がどこかの店に載っており、そこでは女の子たちに囲まれていて、いかにも遊び人のように思えた。とにかく、祖父という存在を実際には知らないが、僕の中にある一般的な祖父のイメージは彼のような人間であった。そんな人間の前で何かを隠すということは恥ずべき行為であった。いっそのこと、全てぶちまけてしまおうか。そうすれば、僕は大自然の真ん中で深呼吸しているような、晴々しい気持ちになれるのかもしれない。いや、それはやめておこう。赤の他人に僕の全てを背負わせる必要なんてない。この重りは僕が死ぬまで背負い続けるんだ。歩けなくなってしまったとしても、僕は降ろすことはできない。僕は酷く恨んでいた。あの人がいなければ、僕の人生は簡単に終えていたのに。苦しみなんて感じずに、ただ寿命が尽きるのを待ち続けるだけでよかった。本当にそれだけだったんだ。何のドラマもない路傍の石のような一生になるはずだったんだ。
「ええ、お願いいたします」
僕は運転手の肩を借りながら、何とか立ち上がることができた。まだ足に血が巡っていないのか、踵に力が入らず、上手く自分の身体が支えられなかった。そのため、運転手にほとんど体重をかけてしまっていた。運転手は少し苦痛な顔をしていたが、僕の行動に対して文句のひとつも言わなかった。タクシーの料金とは別に払ってもいい労力であっただろう。僕は本当に申し訳ないことをしたと思いながら、運転手に支えられてようやくタクシーに乗り込むことができた。とりあえず、これで会社へ向かうことができる。遅刻は確定してしまったのだが、無断欠勤することは避けられたのだ。安心感が生まれてしまったのだろう、僕は急激に眠気が襲ってきた。夏休みの宿題を最終日の一日で終えたような、何年もかけて長編小説を書き上げたような達成感がなぜか僕の体中に巡っていた。それほどまでに、疲労が溜まっていたのだ。ある行為に対して、全て一生を捧げていたのだ。それが失敗に終わってしまい、今やっている行動は本来やる必要のないことであった。終わっている物語に対して、ページ数が足りないからという理由で無理やり続けているようであった。美しい形で終わらせたい、そう望んでいただけなのに。
「お客さん、どこまで?」
運転手がそう話しかけていたが、その声は海の中に沈んでいくかのように、小さくなっていた。ああ、そうだ。僕の精神は確かに海の中に落ちていた。ゆっくりと光が届かない場所へと深く落ちていく。浮き上がろうと努力はしているのだが、どういうわけか動くことができない。僕は為す術もなく、このまま海の底に行き着いてしまうだろう。いや、底はすぐに辿り着いてしまう。瞼は重く、眼を開けることはできなくなっている。現実の世界も水中で見た景色のようにぼやけて見える。妄想、幻想が浸食してくるのがはっきりと分かってくる。結局、僕はタクシーの運転手に行き先を告げないまま、現実の世界を閉じた。
僕はひどく孤独であった。高校2年の時に母が癌で死んだ。家族4人で支えながら生きようと誓っていた。兄と父は仕事、姉は家事全般、僕は勉学に励んだ。少しでもよい会社に就職できるように必死に僕は勉強した。クラスで3位の成績で就職面接を受ける。だが、面接すれば必ず受かる会社に落ちた。理由は分かっていた。集団面接で自分の意見が言えなかった。周りの人間と全く同じことを言っていた。自分のアピールポイントはそこではないのに、周りに合わせるようなことしか言えなかった。だから、次の会社の面接では眼鏡を外して、人の顔が見えないようにした。そうすると、緊張することなく自分の言いたいことを相手に伝えられた。僕は怒られることに怯えている子供のように、人の顔色をうかがいながら、話してしまうくせがあった。相手が納得してなさそうな顔をしていれば、前に言っていた意見はすぐに撤回して、また別の意見を言おうとする。僕には自分の色がなかった。人の意見によって色が変わるカメレオンだった。昔は自分の色があったのかもしれない。だが、何度も色を変えてしまったせいで、本来の色を忘れてしまった。だが、2回目の面接のときは色を変えることなく自分の意見を言うことができた。だから、僕は今の会社に受かったんだろうと思う。会社では慣れないことが沢山あった。いつも先輩に聞いていた。呆れられることはよくあったが、僕なりに懸命に仕事をしていた。
そんなときだった。父から連絡があった。兄が死んだそうだ。首を吊ったらしい。その光景を見た姉はショックで頭がおかしくなって、救急車に運ばれたらしい。僕は父の言っていることが理解できなかった。兄が自殺して、姉が発狂、どこかの漫画でも読んでいるようだった。父も同じことを思っているのか、電話口の声はどこか他人事のように聞こえた。僕は会社に連絡して、1週間ほど休みを取った。実家に戻って、兄の葬式をやって、姉の見舞いに行って、それから実家にある自室で泣いた。また、その数日後に姉が死んだ。崖から飛び降りて死んだらしい。そこから父は生きる希望を無くしたのか、僕が話しかけても何の反応もしなくなった。父ひとりでは心配のため、会社は実家から通うことにした。
僕は酷く恨んだ。誰を?それは無責任に自殺した兄だった。遺書にはごめんなさいと謝罪の言葉だけだった。何の理由で死んだのかも分からず、その一言だけ残してこの地から離れていく。彼は天国に行けるのだろうか。いや、死後の世界なんて僕には何の関係もない。今、目の前にあるこの景色だけが僕の世界なのだから。視界に入るこの狭い世界で僕は生きている。その後ろで何かが起こっていたとしても、何の関係もない。だから、もう忘れよう。母がいた日々を、兄がいた日々を、姉がいた日々を。父にとって、僕はただのひとり息子だ。死者はこの世界においてカウントされていない。レストランに行っても、父と僕の2人でしか案内されることはない。死者がプラスされることなんてない。もう死者に縛られる必要なんてない。だから、普通に生活しおうよ。普通に呼吸して、休日には趣味を嗜んで、日曜日の夜は憂鬱になって、また金曜日の夜にならないかなと思いながら月曜日を迎えて、仕事面倒だな、早く休日にならないかなとか、そういう普通のことを考えようよ。仕事がいきがいなんて間違っている。休日が苦痛なんて間違っている。なあ、また旅行しおうよ。今は無理かもしれないけど、まあ世間が落ち着いた後でいいから、温泉に浸かりながら未来の話をしおうよ。未来が語れないなら、過去でもいい。こんなバカなことしたとか、そういう話。思い出したくないことは温泉の湯で流そう。好きなだけ泣いていいから、未来に生きようよ。過去から時間を進めることなんて出来ないのだから。なあ、分かってくれるよね。今の僕の気持ちを。
結局、僕たち2人はいつまでも過去に囚われていて、そこから一歩も進めずにいた。僕は恨んでいた。どうして、記憶は選別できないのだろうか。良い記憶はすぐに忘れてしまうのに、辛かった日々とか今はもういない人とかは未だに記憶に残り続ける。脳が取り出せるのなら、今すぐに中身を空っぽにしたい。そうすれば、何の迷いもなく未来に進める。いや、進めるしかなくなる。
僕は休日に兄の部屋を掃除していた。今まで外の空気を取り入れていなかったせいか、この部屋はどこか死臭を感じてしまう。誰かの死体が隠れていると言っても不思議ではなかった。兄は幻聴が聞こえていたらしい。5人の人間が抗議するために部屋の壁をドリルで開けようとしているとか、ドアを開ける些細な音が死ねとか聞こえたりするらしい。この部屋にずっと引き籠っていたら、確かにそんな気分になりそうだった。精神が壊れていき、周りの景色が黒い靄がかかったかのように、すべてが虚構に思えてしまう。世界は悪意に満ちていて、信じる者が何ひとつなくて、生きることが苦しくなる。なあ、教えてくれよ。こんなにも生きることが辛いのに、どうして生に縛り付けるのだ?僕は死にたい。この部屋で首を吊って全てを終わらせたい。ああそうか、そのためにドアノブにヒモを結びつけているんだ。出来る限り苦しみを感じずに死ぬために。失敗できないように。そうだ、この部屋には死体があるじゃないか。妄想で膨らませた未来の僕の死体がすぐそこに。死臭がしてしまうのは仕方がないことだ。それは現実になりつつあるのだから。ああ、思考が僕ではなくなってしまう。別の誰かが僕に成り代わろうとしている。この部屋の住人にはなりたくない。僕は僕の人生で生きたい。僕は自分なりの考えを持っていて、自分だけの足で進みたい。そうしなければ、僕という人間は確実に失っていく。生きたいわけではないが、死にたくはなかった。
口を塞いでこの部屋から出ることにした。今日のところはこれ以上掃除をしたくなかった。というか、もうやりたくはなかった。だが、僕以外にやれる人間はいなかった。それでも今やるべきことではなかった。あの存在がこの頭の中に消えない限りは。そう言い訳をし続けて、結局部屋を片付けることは出来ず、業者に頼むことにした。半年たってもできなかったことを一日も経たずに終わらせていた。部屋の状態を見てほしいと、業者が僕を呼びつける。吐き気する気持ちを抑え込みながら、忌々しい部屋に入る。すでにそこには何もなかった。兄がいたという痕跡自体ない。兄がお気に入りだった抱き枕も裸の女の子が描かれているイラストもベットの下に溢れるエロ本も全て消えた。もう兄はこの世にはいない。だけど、僕はあの存在を消すことはできなかった。どんなに痕跡が消えようとも、この部屋に彼がいた事実がある限り、僕は二度とこの部屋に踏み入れることはないだろう。もしもあるとしたら、それは自分自身の死を迎え入れるときであろう。僕という個人は失い、別の人物が僕へと成り代わる。いや、塗り替えるというのが正しいであろう。塗り絵の枠である僕の上に出鱈目に合わさった色が塗られていく。そして、色が塗り終わったときには別の誰かになっていく。それは死ではなく、僕という存在がこの世界から抹消されることである。僕がいた痕跡自体なくなる。あったとしても、それは別の誰かの記憶となる。僕は僕を失いたくなかった。この世界にやるべきことなんてない。未練もあるわけではない。それでも、僕という存在が消えることには恐怖を感じていた。二度と取り戻すことは出来ない。思い出すことも出来ない。思い出したとしても、それは僕のではない。こんな気持ちになるのなら、この世界で生まれたくなかった。思考することができる人間に生まれたくなかった。思考もせず、目的地もなく、どこまでも続く空に飛んでいきたかった。苦しみなんてない。しがらみもない。死んだ人のことを思い出すこともない。そこにあるのは、どこまでも地平線が続く空だけだ。風に靡かれて、僕はどこまでもアテもなく彷徨っている。世界のことなんて考えなくてもいい。そこにいる人々の日常や心情を知らなくてもいい。それら全てはただの風景に過ぎない。僕にとって何の関係もないことだ。
いつしか、そんな妄想ばかりが頭に浮かんでいた。仕事でも休日でも、その妄想が膨らんでいくばかりで、何にもする気が起きなかった。あるのは、食欲と睡眠欲と性欲だけだった。だから、一日必ず食事はするし、夜には部屋の電気を消して就寝するし、AVや同人誌を見ながらオナニーをしていた。自分は人間であることには変わりなかった。それは間違いないのだが、自分がただの人間とは思えなかった。普通に暮らしていけないのだ。いや、暮らしているのだが、上手く言葉にできない。今はそんなことを考えなくてもよいのかもしれない。僕の終着駅へ向かうときにきっと表現できる。それだけは確信して言える。いつも言い淀んで、相手をイラつかせてしてしまう僕でも断言することができる。これは決定事項なんだ。レールの上に走っているだけだ。脱線なんてすることない世界一安心なレールの上に走っている。僕はそんなつまらない世界にいる。僕の行動が世界に影響を与えることはない。僕の行動は世界にとっては必然である。影響したのではなく、世界がそう動いているだけだ。
また思考がスライドしていく。最近はいつもこれだ。僕が思考することを邪魔するように、別の誰かが僕の思考をすり替えようとする。全く同じ顔のものに取り替えているようだった。見た目は同じなだけで、中身は違っている。だから、思考の繋がりもなく、スライドしていく。この状況は、僕にとっては最悪だった。きっと、最悪な人生を迎えるに違いない。一貫性のない人間が社会に溶け込めるはずがなかった。コーヒーの底に残っている砂糖のようだ。何の役にも立たないゴミのように、そこから離れずに日々を過ごしている。そのことを未だに気付かず、真っ当な社会人として生きおうとしている。意識が朦朧としている。今、現実なのだろうか?それとも、幻想、妄想、未来、過去なのか。
僕は父にとってのひとり息子だ。あの人はもういない。この部屋には僕ひとりしかいない。旅行をしようよと父に提案してみる。親孝行だ。だけど、断られる。それは僕があの人ではないからだ。僕はあの人よりも年下で、あの人よりもダメな人間ではないからだ。それなりに成績もよくて、大きな会社にも入れた。大学を中退して、就職した仕事もやめたあの人は親に迷惑ばかりかけていた。ひとりで全て背負ってしまう僕に比べて、あの人は親の援助がなければ生きていけなかった。だから、苦労して育てた分、親も愛情が湧くのだろう。なかなか咲かない花に懸命に水を与えていて、花が咲かなかったとしても育てたという実感が湧く。少しの水で簡単に咲いてしまう花よりも確実に。僕は親から忘れられていないが、いない人間として存在していた。家族としてはいるが、僕は次男という肩書きがあるだけで、僕の名はないに等しい。だから、父は旅行の誘いにも応えようとはしない。もしも、あの人からの誘いであれば喜んでいただろう。何度も頷いて、涙も浮かべたりして。僕は親の愛が欲しいわけではなかった。むしろ、その生温い感情を受け止める勇気が僕にはなかった。親もあの人のように向けられていた時期があったのかもしれない。こうなってしまったのも、僕が拒絶してしまった結果である。だが、親の愛情を素直に受け止めることはできるのだろうか?いくら親に頼らなければならないとしても、反抗のひとつぐらいしたいものである。僕の父に関しては特にそのような気持ちが強くあった。
父はいわゆるモンスターペアレントという奴だった。先生が気に食わなければ、学校に出向きその先生に対して怒鳴っていた。少し転んで怪我しただけで、教育委員会に電話していた。僕は学校に行くたびに肩身の狭い思いをしていた。子供のためと思って父は言っているのだろうが、モンスターペアレントの子供というレッテルを貼られているのだ。先生からは嫌な目で見られてしまうのは当然のことだった。父は教師に対して、そんなことをするなと言っているのだが、何かしてしまったらすぐに親が怒鳴り込んできてしま子供を腫れ物扱いするのは当然のことだった。父は親になれば気持ちが分かると言うが、その場に残されている子供のことなど何にも考えていなかった。それでも、父が正しいことを言っていることはいくつかあった。水分補給はこまめにさせろとか、WBGT値を見て運動会を開催するかを判断しろとか、体育のときは帽子を必ず被らせろとか、今では当たり前のことを、10年前の当時から言い続けていた。ただ、その言い方は酷いものであった。学校に殴り込むかのように、怒鳴り散らして、自分の言っていることは正しいものであって、その通りやらなければ何度も文句を言い続けていた。僕自身は何もなくても、先生たちは僕を問題児として扱っていただろう。心の中では父を恨みながら、先生たちに申し訳ないと思っていた。僕がこの学校に行かなければよかったんだ。僕のせいなんだ。
それからというもの、周りの顔を窺いながら生きていた。自分の意見も言えず、周りに合わせるように努めていた。そんな態度が周りの人間をイラつかせて、いじめの標的にされたのだろう。顔自体も良くないし、運動神経も良くないし、小学から中学までは成績も真ん中ぐらいであった。自分の意見も言えないし、何の取り柄もない僕はいじめられて当然だった。父のこともあり、先生に助けを求めることもできなかった。これ以上、他人に迷惑をかけたくなかった。全て僕ひとりで背負い続けていた。家に帰れば、頭の中にいる複数の住人が殺しあうような、頭のおかしい小説を書いて気を紛らわせていた。僕は何度も自殺することを考えていた。首を吊って死ぬ、崖に飛び降りて死ぬ、手首を切って出血多量で死ぬ、そんなことばかりを考えていた。小説の中にいる自分はその考えていたことを実行していた。だけど、いつも失敗に終わってしまう。僕は物語の中でさえも上手く生きていけなかった。死ぬことすらもできなかった。
現実はさらに酷い方向に向かっていた。音楽の授業中は不良どもにサンドバックにされていたし、美術の授業中は物を盗まれたり追い掛け回されたりしていたし、前の席の奴に筆箱をハサミで切られたり、廊下にすれ違うたびに気持ち悪いと言われ続けていた。明らかないじめに対して、先生はその不良どもに注意をせずに、立場の弱い僕ばかりに怒鳴りつけていた。正直に言えば、いじめの現場を見れば先生は今の状況を救ってくれると思っていた。だけど、事実は違っていて、いじめる奴が悪いわけではなくて、そのように仕向けてしまったいじめられる奴が悪なのだ。そんな理不尽な世界を恨んだ。僕の何が悪いんだ!発表するときに、自分の意見が言えずに泣いてしまうからなのか!それとも、僕が醜い顔をしているからなのか!父がモンスターペアレントだからなのか!僕は普通に暮らしたかっただけなんだ。それ以外は何にも欲しくない。才能とかお金とかそんなものいらないから、普通の幸せが欲しい。一般家庭にあるそんなありふれた幸せが欲しい。
結局、このいじめは中学が終わるまで続いていた。その間、何度も遅刻したり、病院に行ったりして学校を休んだりしていた。そうだ、僕はずっと頭痛に悩まされていたんだ。誰かに頭を押さえつけられているように、ズキズキと痛んだ。ベッドに入ってもまともに眠れないほどだった。どこの病院に行っても、原因が分からなかった。脳外科医に行ってみたら、精神的な問題だと言われた。僕は納得出来なかった。この頭の中には何かがある。いじめられたことによって生まれた何かがある。レントゲンで撮っても、その影は映らなかった。やつは僕に見つからないように隠れているに違いなかった。僕はその正体を探るために、何度も病院に通っていた。だけど、結果は変わらなかった。父はこれ以上病院行っても無駄だと言った。病院の診察代は僕の金ではないため、父が無駄だと言えば、もう病院には行けなかった。僕は自力で探すことにした。ネットでも調べてみたが、精神的なものだという結果しか出なかった。医学では頭の中にいる何かは見つからないと分かると、僕は小説を書き続けていた。自分の頭の中を覗くように、物語という形で思考し続けていた。中学を卒業したときに、答えは見つけていた。その何かは僕自身ではあるのだが、それは僕ではなく、全く別物の僕であった。他人と言っても差し支えもない存在であることは確かであった。その僕は僕をゆるやかに侵していき、頭の中を支配しおうとする。頭痛はその支配の抵抗によるものだった。医師が原因を究明できなかったのは当然のことだった。他人から見れば、それは僕自身なのだから。僕にしか認知できない存在なのだから。その頭痛もいじめと同様で中学卒業後に収まっていた。頭痛が治ったということは、つまりそういうことなのだろう。頭痛薬を飲んでいても治らなかった病気が時間という薬で跡形もなく治ってしまったのだから。いや、治ったという表現は間違っているのかもしれない。今の僕からすれば、治ったと言えるのだろうが、当時の僕は同じようなこと言えるのだろうか。当時の僕から時間経過しているため、今の僕には何も分からなかった。分かることはあるのだろうが、語ったところで虚構に過ぎない。紙芝居で話しているような内容しか今の僕には語れないのだ。そう思うと、過去の僕も他人に違いなかった。過去には確かにあの僕はいたのだけど、それが地続きなどしていない。他人から見ればひとつの道にしか見えないのだろうが、僕からすれば、透明な壁が隔ており、それ以上先には進めたり戻ったりすることはできない。ただ、透明な壁の向こうにいる僕を見ることしかできない。その姿を語ることができるが、そのときの心情は知らない。今の僕には客観的に見たその光景だけしか語れない。
もうこの頭の中にはあの頃の僕は存在していない。頭痛に悩まされることなく、日々を過ごせていける。生きることが辛かった中学生活が終わる。そして、高校へと入学することになる。高校は家の近くの学校で、中学校とはそんなに離れていなかった。幸いと言うべきか、そこにはいじめっ子はいなかった。同じ中学の奴もいたが、あまり関わりのない人たちばかりであった。そこでは、友達ができなかったが、いじめられることはなかった。皆、他人に対して無関心であった。自分の好きな人だけと話しているようだった。僕は醜い顔をしているから、誰にも話しかけられることはなかった。僕は孤独ではあったが、それでもよかった。いつも休憩時間は本を読んでいた。どんな本を読んでいたか、あまり思い出せないのだが、女性3人を監禁したような内容だった気がする。それ以外にも、有名な純文学とか海外小説を読んでいた気がする。どういうわけか、そこら辺のことがあまり思い出せない。いや、細かいことはあまり語る必要はないのだろう。とにかく、僕は孤独ではあったが、それでも構わなかった。誰も話しかけないこの状況が僕にとっては幸福であった。もう何かに怯える必要はないんだ。頭のおかしい小説を書く必要はないんだ。
だが、ある日を境に激変してしまう。それは、母の死であった。癌に侵されて、母は死んでしまった。病室で死んでいる姿を見ても、涙は出なかった。もう病院に入院するときから分かっていたことだった。ステージ4とほとんど治療しても助からない状態であった。そもそも、母が放置していたことが問題であった。自分は癌なのかもしれないと言いながら、トイレの前で倒れるぐらいまで酒を飲んでいた。意味のない風邪薬を飲み続けていた。家族全員が病院に行けと言ったが、聞く耳を持たなかった。あのとき、無理やりでも連れて行かせるべきであった。そうすれば、違う結果になっていたかもしれない。乳房を切除するだけで助かっていたかもしれない。肺にまで転移することはなかったかもしれない。いや、あのときからすでに咳は酷かった。どのみち、助からなかったのかもしれない。それでも、僕たちは悔やんでいた。いや、悔やんでいない奴がひとりだけいた。それは兄であった。母が死んだ病室でひとり、顔をニヤニヤさせていた。僕は怒りを感じていた。どうして、この状況でそんな顔ができるのだろうか。許せなかった。確かに母は他の家庭に比べたら、あまり良い母ではなかったかもしれない。部屋の掃除はしないし、毎日ビール6缶以上飲んでいるアル中だった。それでも、弁当は作ってくれたし、晩飯も用意してくれていた。油で揚げた料理が多かったが、僕は毎日残さず食べていた。他にも、朝の弱い僕を起こしてくれたし、必ず僕の登校時間に間に合わせるように、弁当を作ってくれた。そういえば、兄は弁当を作ってもらえず、お金だけ渡されていたようだった気がする。それも仕方のないことだった。兄は必ずと言っていいほど、弁当を残していた。夕飯も後で食べると言って、いつまでも冷蔵庫の奥底に残っていた。兄は自分の大好物のときだけは残さずに食べていた。母はその態度が気に食わなかった。それでも(弁当は作らなかったが)毎日料理はしてくれていた。感謝すべきことは多くあったのに、死んだ人間に対してニヤニヤする理由はなかったはずだ。兄の表情は誰も気付いていなかった。僕だけが知っていた。最悪だった。こんな最悪な気分になるんだったら、知らなければよかった。ただ、母の死体を見つめていればよかった。
1週間ほど休みを取っていた。その間、ほとんど眠れなかった。葬式もやっていたが、そちらはあまり思い出したくなかった。兄は葬式中ほとんどイヤホンをしていた。人が話しかけても無視をしていた。代わりに僕が話していた。どうして、こんな男が長男なのであろうか。僕は兄が嫌いになりそうだった。普段の生活のことはどうでもいいが、せめてこういう場では長男らしく、しっかりとして欲しかった。きっと父が死んだときは、僕が喪主になるのだろう。肩書は兄なのかもしれないが、手続きとかはほとんど僕がやることになるのだろう。長い念仏を聞いた後に、母のところに花が置かれていった。先生が僕の肩に触れて、強く生きろと言っていた。そうだ、僕は強く生きなければならなかった。火葬場に向かうために、母の遺骨を入れる箱を抱えながら、霊柩車に乗り込もうとする。そのとき、涙が出てきた。一度出た涙は止まらず、次から次へと零れ落ちていく。どうして、あのとき泣いていたのかは今でも分からない。霊柩車の中でも涙を流し続けていた。必死に堪えようとした。それでも僕のすすり泣く声は車内に響き続けていた。あまり思い出したくない葬式を終えて、僕は母のいない日常を過ごしていた。
食事はほとんど弁当であった。味気なかった。僕は今更ながら贅沢な食事をしていたんだと気づいてしまう。時々、姉が料理してくれたときもあったが、ご飯は水分が多いのか、べっちゃとしていたし、おかずも少し変な臭いがした。僕はもう食事というものが楽しめなくなっていた。そのせいで、食欲も無くなっていき、昨日の夕飯だったはずのものを朝にゆっくり食べるだけで僕の一日の食事は終わっていた。僕は残して、そのままゴミ箱に捨てるのだけは嫌だった。あの人のようになりたくなかった。昼間、僕は眠っているので、昼食は用意してもらうことはなかった。僕の方から食べられないから作らなくていいよと言った。学校に行くときは昼食代として父から金を渡されていたが、ほとんど使ったことがなかった。そんな生活を続けていたせいなのだろう。僕の体重は40キロ台間近に迫っていた。さらに、体重減量に比例するかのように、運動能力も向上していた。僕の学校の体育は2キロを8分以内で走らないといけなかった。できなければ、もう一度走らされる。少し前までは10分以上かかってしまい、あまりに酷いため、特別組としてゼッケンを着せられていた。そのはずなのに、僕は悠々に8分以内で走っており、クラスでも2、3番目に早かった。10キロマラソンのときも40分くらいでゴールしていた。どれだけ走っても、あまり疲れを感じなくなっていた。僕の身体は余分な脂肪もなく、体重が軽くなった分、足にかかる負担が減っていたのだろう。だから、10キロ程度の距離であれば、疲れを感じずに走れる。(ただ単に自転車を持っていなかっただけだが)10キロ以上も離れたマラソンの場所へ行くときも帰るときも走っていた。だから、ひとつの市を跨ぐぐらいであれば、造作もないことであった。実際に自転車と並走して、市を跨いだような記憶がある。
その運動能力のおかげなのか、それとも母の死に同情したのかは分からないが、クラスの何人かが僕に話しかけてくる。僕は久しぶりに他人と喋っていた気がする。家族と話すときのように、上手く喋ることができず、返答はいつも敬語になっていた。それからは、その話しかけてくれた人たちと過ごすことが多くなり、僅かばかりではあるが笑顔も増えた気がする。その人たちとどのようなことをしたのかはこの場では上手く話せない。そもそもあまり覚えていないのだ。思い出が黒色のインクで塗りつぶされているようだった。暗い場所へ、光の届かない場所へ、底の見えない場所へ、自ら飛び込んでいるようだった。だから、高校の話はここまでになる。中学に比べて、高校生活は僕にとって明るい時代であった。周りの人間も、世界も、自分自身も含めて。
そもそも僕は今まで何の話をしていたのだろうか?兄が死んだ話、姉が死んだ話、母が死んだ話、父がモンスターペアレントだった話、僕がいじめられていた話、僕が40キロ台近くまで痩せた話……こうして、話をまとめてみるといかに自分が話題を変えているのが分かる。考えてしまうといつもこうなってしまう。思考がスライドしていくのだ。そもそも、僕はあまり話すのが得意じゃない。ひとつの話題に対して、何十分も引き延ばすことができない。内容も紙のように薄っぺらいから、次々と話題を変えていくしかないのだろう。皆が羨むような経験談があれば、自信満々で話すことができるのに。だが、僕の口から出る言葉はいつも暗い話ばかりであった。明るい話をしおうとしても、上手く話すことができない。小説を読むたびに思うことがある。どうして、こんなにも他人を描くことが出来るのだろうか。僕の小説に登場する人物は全員機械のような言葉しか発しない。リモコンで操作しているような動きしかしてくれない。他人の小説と比べるたびに、そう感じてしまう。だから、出来る限り登場人物を増やしたくなかった。頭の中で解決するのであれば、それでよかった。情景描写が少なく、心理描写しかないのもそのような理由があったからだ。今も景色は目の前に広がっている。そこにはいくつもの他人が存在している。それなのに、僕は眼を瞑って自分の心の中しか見ようとはしなかった。小説家に向いていないのかもしれない。それでも、僕は小説を書くしかなかった。そうすることで、自分はこの世界で呼吸することが出来た。まただ、すぐに話題が変わってしまう。始まりと終わりで言いたいことが変わっており、いつまでも一貫性のない話が続いている。これは一種の病気なのではないのだろうか。きっと、病気なのだろう。病院に行けば、その答えが導き出せるだろう。
「面白くない」
あの人に自分の書いた小説を読ませたときのあの人の感想だった。僕が5年以上もかけて創り上げた長編小説だった。そこには僕の人生すべてが載っていた。どんな人生を送ったのか、その経験からどんなことを考えたのか、20年間のすべてが詰め込まれていた。それなのに、あの人はたった一言「面白くない」で僕の作品を汚した。僕は憤慨した。「お前に俺の作品の何が分かるんだ!小説家でもないくせに!まともな作品を一度も書き上げたことなんてないのに!」僕は意味のない怒りをあの人にぶつけていた。僕はあの人に認めてもらいたかった。あの人の作品を見たことはないのだが、物語に対しての考察は的確であった。高橋源一郎の「ジョンレノン対火星人」を読んでいたのだが、どうしてこんなふざけたタイトルをしているのか疑問であった。そのことをあの人に伝えると、こと細かく解説をしてくれた。どんなことを話していたのかはほとんど忘れてしまったが、ひとつ言えることは、ジョンレノン=死んだ人間、火星人=得体の知れない生物、であることだ。ネットに転がっている解説なんかよりも、あの人が言うことは的確であった。著者にその意図があったのかは不明なのだが、あの人の言っていることは正しいように思えた。だから、あの人が僕の作品を認めてくれたら、小説家になれると期待をしていた。だが、あの人から出た言葉はひどく冷たかった。面白くないという言葉以外、何も言わなかった。せめて、どうして面白くないのか説明してほしかった。他の小説のように解説をしてほしかった。ああ、そうか。僕はあの人に解説をしてほしかったんだ。だから、僕の小説は友情・努力・勝利のような単純明快な作品ではなく、皆が首を傾げるような物語の構成になっているんだ。そこに本当は意味なんてない。意味がないのだけども、意味があるように見せているだけだった。僕自身も理解できない物語を誰かに読み解いてもらうように、曖昧にして書いているだけだった。その作為が見えてしまったから、あの人は面白くないと僕の作品に吐き捨てたんだろう。それは仕方のないことだった。僕が普通の小説を書くことができるはずがなかった。僕には何にもないのだから。語れるほどの人生なんて送っていないのだから。僕の世界はソファの上でテレビ画面を眺めているあの小さな空間なんだ。そこから他人の世界を鼻で笑いながら見ているだけなんだ。
「僕はどうすればいいんだ?」
そこにいるはずのないあの人に問うた。反応なんてするはずがなかった。もういない人間なんだ。ここは現実ではない。僕の記憶の中にある過去をもとに構築した世界だ。あくまで、虚構の世界なんだ。だから、ここにあの人はいない。ラジオテープに録音された言葉しか再生してくれない。僕の問いに答えてはくれない。いつまでも面白くないという小説を引き出しの奥に置き続けている。悔しくてどこかの新人賞に送っていた。だが、良い返事は返ってこなかった。あの人の評価は正しかった。意味のない文字が並んでいるただの紙に成り下がった。馬鹿にしていた人たちを見返すことはできなかった。才能がないのだから、小説を書いても意味がないと色んな人間に言われてきた。それでも、僕は書き続けていた。きっと誰もが感動できる作品を書き上げることができると信じていた。他人を知らない僕は、他人を上手く書くことができない。僕は記号みたいな小説しか書けなかった。他人に押し付けたような全く意味のない小説であった。
「なあ、何か応えてくれよ。頼むから」
あの人に懇願し続けていた。あの人の皮を被ったただの人形に対して。
「面白くない。つまらない。意味が分からない。小説を書く意味なんてない。僕のマネをするな。音楽も小説もゲームも全部僕がおすすめしただけじゃないか。自分で探せ。うるさい。頭おかしいだろう」
あの人は意味のない言葉を発し続ける。壊れたレコーダのように永遠に再生される。そんな出鱈目の言葉は僕には響かなかった。僕が望んでいる言葉を吐くことはなかった。だって、その言葉をあの人は一度も発したことがなかったからだ。
「僕は君に認めてもらいたいだけなんだよ。たった一言でいいんだ。そう言ってくれるだけで僕は救われるんだ」
社会に生きていけないかもしれない。まともに仕事することができないのかもしれない。だけど、僕の夢はきっと叶うはずだった。本当はあの人の言葉で夢が叶うはずはなかった。だが、叶うかもしれないと勘違いは出来る。
「叶うはずのない夢を見続けるな。お前は現実を生きろ。僕とは違うだろう。まだ他人と関わることができるだろう。もうあきらめろ。何の意味もないことをするな。お前は現実を見ろ。それが僕の願いだ」
眼を閉じる。僕はその行為に何の意味もないことを知っていた。それでも、この瞼の裏側の世界が幻想、妄想であることを望んでいた。現実であることを否定する。否定しても事実は変わらないのに。暗闇の中で世界が構築されていく。僕の知らないところで世界は動いていく。幻想や妄想のように、僕の都合で時間が止まったりはしない。停止ボタンもスキップボタンも存在しない。あるのは、秒針1秒と進んでいく現実だけだ。巻き戻しもされない。ああ、瞼を開かなければならない。見たくない景色が広がっているはずだ。だけど、もう逃げ続けるわけにはいかない。僕はこの世界で生き続けるしかない。死という救いを受けることはない。死にたいと思いながら、生き続けなければならない。兄と姉が死んだあのときから決まったことだ。僕たち家族を勝手においていった彼らのために背負い続けなければならない。何度憎んだだろう?何度忘れようとしただろう?それももう疲れ切ってしまった。とにかく、僕は生きることを選択してしまった。
「お客さん、着きましたよ。お客さん」
タクシーの運転手が僕の身体を揺さぶりながらそう声をかけていた。いつのまにか、駅に着いていたらしい。それにしても、ずいぶんと時間がかかったな。駅なんて歩いて20分程度しかかからない。寝ているから実際の時間は分からないが、1時間以上はかかっているように思えた。僕の体内時計が狂ってしまったのか、それとも現実が狂ってしまったのか。窓から映る景色を見れば、そのどちらでもないことがはっきりと分かった。そこは本当に向かわなければならない場所であった。駅ではなく、数十駅も越えなければならない最終目的地である会社に着いていた。思い返せば、自分はタクシーの運転手にどこへ行くのかを伝えていなかった。そのまま意識を失ってしまったようだ。行き先を告げなかった自分が悪いのではあるが、タクシーの運転手に対して酷く恨んだ。1万円以上も超える無駄な出費を払いながら、彼の顔面を殴ることを想像していた。僕は怒りの表情を見せずに、タクシーから降りた。タクシーの運転手は手を挙げて、そのまま次の現場へと走り出した。いや、1日のノルマは達成したかもしれないから、帰路へと着くのかもしれない。
そんなどうでもいいことを考えながら、会社の門へと向かう。その際、違和感を感じていた。財布の中身が減ったからだというわけではなく、目の前で見える景色についてだ。この景色が創られているように思えてならない。本当は移動なんてされておらず、僕が意識を失っている間に、誰かが周りの景色を変えているのではないだろうか。目の前にある景色だけが現実である。その裏側がどうなっているのかは知らない。景色が違えば、それは移動していることと同義であろう。そうと頭では分かっていながらも、この世界に疑問を抱いてしまう。これは本当に僕の世界なのであろうか?例えば、あの人が創った世界なのではないか。もしもそうであれば、僕は僕らしく生きていけているだろうか。そもそも、僕は僕であったのか?すでに自分は失っていて、僕に成り替わっているのではないか。悪循環だ。また自分を見失いそうになる。背景とか裏側の話なんて、この世界において何の関係もない。想像してしまうのは勝手だが、それで世界を見失うべきではない。僕は今仕事場へと向かっている。その事実だけあればいい。遅刻してまでも会社へ出勤するのはそういうことがあるからかもしれない。僕は守衛の人に頭を下げて、門へと入っていた。僕の仕事場は一年ほど前に建てられた建屋の2階だった。会社は製造業ではあったが、僕の所属する部署はパソコン業務が多かった。会社内のシステム等を管理する部署と言えば分かるだろうか。少し特殊な部署に僕は所属していた。
「例の仕事はどうかね?」
上司が僕の仕事の進捗に対して聞いてくる。その仕事は何にも進んでいなかった。進めようと努力はしているのだが、どのように進めればいいのか分からなかった。上司に聞けばいいのだが、もう何度も同じことを聞いてしまうことになる。きっと丁寧に答えてくれるだろうが、僕のために時間を割いてしまうのは、申し訳ない気持ちになってしまう。
「ええ、まあ」
後になれば、嘘だと分かってしまうことなのだが、先延ばしをするためにそう言い続けていた。僕は締切期限を気にしながら、上司に頼まれた仕事とは関係ない、問い合わせメールの返答をし続けていた。そんなことをするよりも重要なことがあるはずなのに。メールを返信した後は時間を潰すようにネットで最新のIT技術について調べていた。業務に活かすことのできない無意味な時間だった。上司がこちらを見る頻度が多くなったので、任されている仕事に取り掛かる。僕の任されている仕事というのは一筋縄ではできないものであった。現場の業務を自動化するための仕事をしている。実際に僕が開発するわけではなく、どのような業務をどのようにして自動化するのかを考えているのだ。その内容をもとに開発者が自動化するシステムを作り上げている。現場が自動化したい業務はリスト化している。だが、そこからどのようにすれば自動化できるのかが分かっていなかった。自分は決して頭のいい人間ではなかった。
ふと、時計を見てみると針は昼の時間を示していた。周りの人間も仕事を切り上げて会社の食堂へと向かおうとしている。僕は朝のリンゴしか食べていなかったので、腹は空かせていたのだが、どうも立ち上がる気力がなかった。今日も昼食を食べないのか、と上司に声をかけられる。そういえば、昨日も食べていなかったのだった。ええ、と一言だけ答えた後、何もすることがなくなった僕はいつのまにか眠っていた。
「カンカンカンカン」
僕は疲弊して会社のディスクで眠っていたはずであった。それなのに、僕自身は踏切の前にいた。遮断機はすでに下ろされており、今まさに電車が来ようとしていた。猫が電車の音に気付いていないのか、悠長に踏切を渡っていた。きっと電車の車輪に轢かれてしまって、四肢が眼を背けたくなるように引き裂かれてしまうのだろう。僕はその小さな命を救えなかった。そもそも、救うということ自体考えていなかった。だって、あの停止ボタンを押せば猫は救えるはずなのだから。今ならまだ間に合うはずであった。だが、僕は停止ボタンを押した後のことを考えていた。きっと駅員とかに事情を聞かれてしまうだろう。僕は猫の命よりも、自分のことしか頭に入っていなかった。結局、僕は何もすることもなく、猫が電車に轢かれしまう光景を眺めているだけだった。だが、電車に轢かれたのは猫ではなく僕だった。猫は僕が電車に轢かれる姿を見ていた。猫を助けようとしたわけではない。ただ、僕はここにいた。もともと僕はここにいたのかもしれない。電車に轢かれることを望んでいたのかもしれない。違う、そうじゃない。ここは瞼の裏側から見ている世界だ。ここは現実じゃない。
あの猫は僕でもあり、僕は猫でもありえた。何もしないただの傍観者だった。猫の景色が重なる。それは気味が悪かった。電車に轢かれているのは老人であり、狸でもあり、小さな子供であり、車でもあり、小さな石ころであった。頭の中で吐きそうになっていた。もうすべてが終わってしまえばいいのに。何も見たくなかった。何もできなかった。意味のない人生が続いている。人生のゴールテープはとっくの昔に切っていたはずなのに、目的地もなく走り続けている。死にたかった。単純に。
目が醒める。酷く汗をかいていた。ズキズキと頭が痛んでいた。時計を見ると、昼休憩の終わりの時間を示していた。僕はパソコンを開き、午前に止めていた仕事を再開していた。午後からはトラブルの電話が多くあった。職場内では僕が一番年下のため、吃りながらも電話の応対をしていた。結局、自分が任された仕事は何ひとつ進まずに1日の仕事が終わりを迎えてしまう。残業をしおうと思ったが、どうにも体調が優れなかった。何か良くない兆候が起こっていた。きっと原因はあの昼間に見た光景にある。あの踏切に一体何の意味があるというのだろうか?そもそもあの映像はどこから来たものなのだろうか?つぎはぎの記憶を無理やりくっつけたように感じた。現実の中でも吐きそうになっていた。僕はふらつきながら会社から出ていった。門を出るときに守衛の人が不思議そうな顔をしていたが、僕は構わずに駅へと向かおうとする。家へ帰れば少しは気分も落ち着いていくであろう。一刻も早く電車に乗りたかった。だが、体調は悪くなる一方であった。頭痛も昼間よりも酷くなっていた。僕はたまらず道端で吐いてしまった。胃の中から出たものは、朝に食べたリンゴの欠片だけだった。そう言えば昨日は何も食べていなかった。もう食べる必要はないと思っていたからだ。吐いてしまったことで口内が甘酸っぱい臭いがした。口を濯ぎたかった。喉も酷く乾いていた。僕は近くのコンビニに入って一本の水を買った。トイレの水で濯げばよかったのだが、すでに誰かが使用中であった。僕はコンビニを出て、駅の方へ向かおうとした。だが、途中で倒れそうになってしまう。酷い頭痛であった。吐き気がする。先ほどコンビニで買った水を飲む。それは胃には受け入れられずに吐いてしまう。水と同時に胃液も吐いてしまったから、余計に水分を欲する。だが、胃は拒絶し続けている。何もかも空っぽにしたかった。何にも欲しくない。重みもない幼虫のような何かが敷き詰められているこの頭の中身すらいらなかった。空に浮かぶぐらいに空っぽになりたかった。あの風船のように漂うだけでいい。身体が萎み、そのまま地面に下降し続けるだけでいい。人間であることを辞めたい。人間が職業であれば、今すぐにでも神様に辞表を届けたかった。そして、何者でもなく、何にも考えたくなかった。
孤独でありたかった。他人というものを拒絶し続けていた。ああ、そうだ。僕は孤独ではなく、孤独でありたかったんだ。初めから欲しくなかったんだ。愛情とか友情とかそういう生温い感情は。だから、家族もいらないし、友達もいらない。僕という個人がいれば、それでいい。そう思ったとしても、僕は人間という枠から抜け出すことはできない。その枠の中で僕は蔑まされている。顔が気持ち悪いとか、何にもできないとか、死にたくなるようなことばかり言われ続けてきた。どうして僕ばかりが、ずっと鏡の前で嘆き続けていた。醜い顔が映る。眼は二重で、睫毛も長くて、耳が小さくて、鼻が高い。パーツ自体はそこまで酷いわけではない。むしろ、良い方であろう。それなのに、どうしてこんなにも醜いのであろうか。神様が福笑いのように遊んで創ったに違いなかった。僕の気持ちなど無下にして、腹を抱えながら僕の人生を無茶苦茶にしている。憎むべき相手を間違っていた。会社の同期とか、学生時代の同級生とか、家族とか、そんな小規模なことではなく、もっと大きな存在が僕を苦しめていたんだ。ああ、そうだ。そうじゃないとおかしい。そうであって欲しい。僕が悪いんじゃなくて、僕を生み出した神が悪いと思いたい。そうしなければ、僕の人生は惨めだ。綺麗な道なりに進めるはずなのに、雑草が生い茂っている道とは呼べない場所に進んでいるようではないか。僅かな可能性なんて必要ない。選択肢なんて必要ない。可能性なんてのは初めからゼロしかなく、決められたことしかできない。そんな世界じゃないと僕は生きていけない。いつも後ろばかりを見ている人生で、そこに立ち止まることしかできない。僕はレールの上を歩き続けている。ただ、それだけでいいんだ。そう思い続けることで前へ進める。選んだ道ではなく、一本道にただ進んでいるだけと思いたい。
ああ、どうして思考するたびに自分は海の底に陥ってしまうのだろう。いくつもの鎖を背負い続けて、光のある先へと浮き上がろうとしない。ただ、僕は底へと沈み続ける。僕もあの胃液と同じように外へと吐き出されたい。そうして、自由になれたらいいな。もう僕という個人の中で生き続けたくない。今あるこの精神が僕の肉体から簡単に剥がれたらいいのに。仮止め程度のテープでくっついていればいいのに。本当は、鋭利な刃物でも切り離せないダイヤモンドよりも硬い何かでくっついている。僕はきっと死ぬまでここに居続けるのだろう。死にたい。生きていたって何もいいことはない。僕は終わらせたい。神様から頂いた生命を大切にしろと皆は言う。そんな言葉なんか破り捨てて空の藻屑にしてやる。僕はこの世に生まれて良かったことなんて一度もない。憎むばかりの人生だった。誰かを憎み続けなければ生きていけなかった。それ以外で消化することなんて出来ない。
だって、本当は本なんか好きじゃなかった。演奏も出来ない音楽を聴くなんて反吐が出た。絵なんてただの記号にしか見えなかった。映画もただの嘘っぱちに思えた。それなのに、僕の趣味の欄から外すことはなかった。しているフリをすることで、自分の惨めな姿を隠そうとしていた。そこら辺の本屋にも置かれてないような売れない作品、再生回数が1万も満たない曲、ネットでひっそりと描いているイラスト、90年代のベトナム戦争時に作成された古いアメリカ映画、そういうのを見ているフリをすることで、自分は文化人だという気分に浸っていた。本当は何も分かっていないんだ。だって、ネットにあるコメントを呼んでも何も理解できないのだから。どうして、たったひとつの作品だけで感動したとか、人生の価値観が変わったとか思えるのだろう。僕にとって作品はひとつのステータスに過ぎない。そんなコメントには反吐が出るし、そんな奴らはインチキ野郎にしか思えない。本当にそう感じているのならコメントなんかしない。文章になんかしない。文字化された時点でそれは自分の思いではなく、大衆を意識した嘘っぱちの思いだ。もちろん、僕もそのインチキ野郎と同等であった。ネットにコメントをしたりはしないが、周りの眼を気にしながら生き続けている。
そして、何よりも今思考していること自体、その言葉を用いている。本当の感情は言葉の奥にあるはずだった。他人と共有するには言葉というフィルターの中でしか出来ない。言い換えれば、この世界にはインチキ野郎しかいなかった。本当の感情を知っているのは、言葉を知らない赤ん坊くらいであろう。赤ん坊は至ってシンプルである。怖いものを見たときは泣く、面白いものを見たときは笑う。僕たちのように、思考することなく、感情をダイレクトに出している。それが僕の言う本当の感情である。だけど、それだけでは他人から共感を得ることができない。共感を得るためには、文字化する必要がある。僕が孤独でありたいのはそれも理由なのかもしれない。言葉はナイフよりも鋭い。例えば、ひとりの少女の笑顔の写真があるとする。それを見た大半は幸せだと思うかもしれない。だが、ある人が親に無理やり笑顔を作らせていると言う。同じ写真であるのに、ひとつの解釈の違いで全く違うように思えてしまう。その解釈は何百通り、いやそれ以上に存在しているだろう。言葉が存在している限り、いくらでも妄想することができる。ただの笑顔のはずが、考える必要もない裏のところまで見ようとする。その写真を汚しているのは自分だってことに誰も気付かない。
言葉なんていらないんだ。言葉があるから伝わるんじゃなくて、言葉があるから伝わらないんだ。笑っているのなら嬉しい、泣いているのなら悲しい、そんな単純なことでいいんだ。それ以上のことは考える必要なんてないんだ。笑顔が悲しいとか、涙が嬉しいとか、そんなのおかしいじゃないか。この世界は狂っている。辺りの風景が虚構に感じる。看板のように薄っぺらい世界のように思えてくる。僕の思考は次々にスライドしていく。本来、考えていたことから離れていく。言葉を破り捨てても、プラナリアのように分裂して、次々と違う形で生まれていく。それはいつしか頭を圧迫させて、僕は全てを吐き出したくなる。だが、どこかにある隙間を見つけて、そこに住み続けようとする。全てを忘れることができるのであれば、どれほど楽になるのだろうか。言葉は今も増え続けていて、僕の思考を妨げてくる。僕を救ってくれる人はいないのか。解放してくれ!この狭い空間にいたくない!僕は自由になりたいんだ!ああ、どうして鳥はどこまでも遠くへ飛べるんだ。ああ、翼が欲しい。あれさえあれば自由になれる。この狭い空間から抜け出すことができる。
ガードレールの上に止まる雀が眼に映る。いや、あんな小さな翼ではダメだ。この体を支えることはできない。あの白鳥のような美しく大きな翼でないとダメなんだ。ああ、白鳥になりたい。きっと僕の眼の裏側には映っている。湖に浮かぶ白鳥の光景が。今まさに飛び立とうとしている。僕も連れてってくれ。どこまでもどこまでも遠くへ。だが、それはあくまでも風景に過ぎない。そこに僕はいない。僕は今コンビニの前にいる。そして、ガードレールの上にいる雀を眺めている。雀は首を傾げながら僕の方を見ている。今の僕の姿はとても滑稽であろう。未だに吐き気は治まらない。だが、胃は空っぽなのか何も出ていなかった。胃液すらも出てこない。ああ、僕は現実に戻されたんだ。あの風景は雪崩のように、簡単に崩壊していく。僕の妄想が、幻想が、全て消えていく。
仕事が終わって、道端で吐いてしまって、コンビニで水を買って飲んで、それでも吐き気が治まらなくて、そして、これから何をすればいいんだ?病院?いや、あんなところ行っても何の意味もない。あそこはインチキ野郎の巣窟なのだから。アルコールの臭いが苦手で、受付嬢にいる人間たちが苦手で、あの白い部屋が苦手で、あそこにある全てが苦手だった。そんなことよりも、僕には向かうべき場所があった。ああ、そうだ。思い出した。僕は帰らなければならなかったんだ。父のいる家に。そのためにも、電車に乗らないといけない。いつまでも、空っぽの胃を吐き続ける必要はない。吐き気は治まらないが、駅まで歩かないといけない。薄い意識の中で僕はどこが道であるかも分からず歩き続けていた。何度も違う場所に行く。車道に出てしまって、何度も轢かれそうになる。電柱にもぶつかったりしたりもした。何だか身体から鉄の臭いがする。いや、口の中なのかもしれない。痛覚や嗅覚と言ったそういう感覚が鈍っているような気がする。一部の神経が腐っていて、今にでも千切れてしまいそうだった。もう限界なのかもしれない。
周りの人間が不思議そうに僕を見ている。だが、見ているだけで誰も声をかけようとはしない。当たり前のことだ。他人にかける時間ほど無駄なものはない。面倒事は誰だって抱えたくない。ネットのコメントで、困っている人がいるのなら見てないで助けろよとか言う奴がいる。そう言う奴は大抵嘘っぱちだ。自分がその立場になったら何もしないくせに。誰だって声はかけたくない。本当にその人が困っているわけではないのかもしれない。声をかけることで相手を不快にさせるかもしれない。何もしないという選択が一番賢明である。僕自身も今は声をかけて欲しくなかった。これはあくまでも個人的な問題なんだ。駅に向かえば済む話なのだ。それまでの辛抱だ。視界がぼやけている。妄想と現実の境目が分からなくなってくる。今語っている自分が誰なのかが分からなくなってくる。あれ、今何を考えていたんだっけ?思考が壊れていき、砂のようにバラバラになってくる。母のことを思い出していた。兄のことを思い出していた。姉のことを思い出していた。死んだ人たちが微笑んでいる。僕と父を置いていった酷い人間たちだった。生きて欲しかった。死によって救われず、苦しみながら生きて欲しかった。そうすれば、僕はこんな状況に陥っていなかった。父も明るい人間のままであったはずだ。何もかもが崩壊している。普通の家庭としては少し歪ではあったが、それでも幸せだと思っていた。喧嘩が絶えなかったが、それはひとつの日常であって、良い思い出になるはずであった。それがたったひとつの死だけで壊れていく。過去が汚れていく。憎しみが増大していく。思い出が悪い方向に書き換えられていく。あの頃の風景が全て悪意があるように感じてしまう。それが現実にも浸食してくる。ネットに蔓延るウイルスのように広がっていく。現実と妄想の区別ができないのも、僕の頭の中にある過去が変わってしまったからだろう。その変化のせいで、頭痛も酷くなっている。どこかで休憩をしたかった。そうしなければ、僕は駅のホームに飛び込んでしまいそうだった。その光景を想像するだけで、吐いてしまいそうになる。
駅に向かう道中に公園があることを思い出していた。その公園で会社の人と花見をした記憶がある。お酒が飲めなかったが、楽しい記憶だった気がする。それは本当に僕の記憶なのか?誰かが話した内容を僕に置き換えているだけではないのか。いや、そういうことはやめよう。そんなことまで疑い始めてしまったら、何にも思考することができない。電車に乗るために、少し公園で休憩をするんだ。足をふらつかせながらも公園へと向かった。放置された自転車にぶつかりながらもようやく公園に着き、近くにあったベンチに座る。もしも、煙草を吸えるのであるのなら、ここで一服していただろう。だが、僕は昔から喉が悪く、煙を肺に入れようとすると、咳が止まらなくなってしまう。物語に出てくるほとんどの登場人物が煙草を吸えているので、羨ましかった。やはり、僕は僕でしかないんだ。
僕自身を見つめ直すことで、少し落ち着いていた。僕は僕であり、それ以外の誰でもない。本来、僕が失うことはありえないんだ。ああ、そうだ。肉体と精神は一緒なんだ。分ける必要がないんだ。肉体が死ねば精神も死ぬ。精神が死ねば肉体も死ぬ。そう思えばいいんだ。それ以上、追及する必要はない。思考することはやめた方がいいのかもしれない。そういえば、誰かが言っていた。お前には休息が必要だ、と。考えることをやめろ、と。僕は考えすぎていたんだ。思考し過ぎていたんだ。そうしなければ、自分を失うと思っていたんだ。だが、僕はひとりしかない。頭の中には誰もいない。僕が書いた小説はただの妄想に過ぎない。頭の中には脳味噌しかない。黒い影なんて存在しない。あの人を投影した人物なんていない。そう思うことで、僕の頭は軽くなっていた。頭痛もいつのまにか治まっていた。今の状態であれば、駅へ向かうことができる。だが、僕は動くことができなかった。僕は酷く疲れていた。少しだけ眠りにつきたかった。きっと良くない方向に向かってしまうのは分かっていた。それでも、僕の瞼は重くなっていき、眼をまともに開けることができなくなっていた。
『統合失調症の疑いがありますね』
これは医師の言葉である。また頭痛が再発して、いくつもの病院にタライ回しされていた。大きな病院の精神科にいる医師がカルテを見ながらそう言っていた。原因は分かっていた。それは兄と姉の死だ。父にこのことを伝えるかと医師は言ったが断った。これ以上、父に負担をかけたくなかった。会社にも言わずに僕はそのまま生活していた。疑いがあるだけで、確定したわけじゃないから問題ない。だが、それがいけなかった。そのせいで、僕は毎日のように鏡の前で呟き続けなければならなかった。
『ここにいるのは僕だ。僕以外の誰のものでもないんだ。僕なんだ……』
本当にそうなのだろうか?今いるのは僕なのか。僕に似た誰かじゃないのか。最近、おかしいんだ。思考がバラバラなんだ。昨日、考えていたことが明日になれば180度変わっているんだ。誰かが寝ている間に僕の思考を吸い取って、今の僕に成り替わっているんじゃないだろうか。いや、今はもうずっとされ続けているのかもしれない。ああ、まただ。自分を見失いそうになる。僕は一体どうなってしまうのだろうか?死んでしまうのかもしれない。肉体は生きていたとしても、僕という存在が死んでしまうのかもしれない。そんなのは嫌だった。僕の知らないところで、生き恥を晒すなんて最悪だ。ああ、どうかこの肉体にも死を与えてください。神様でも悪魔でも何でもいいから僕の小さな願いを聞いてください。いつも空に向かって唾を吐いてしまって申し訳ございません。今までの無礼をどうかお許しください。もう分かっているよ。誰も救ってくれないことぐらい。僕の願いを聞いてくれる人なんていない。誰も信用できない。誰の言葉も僕には響かない。結局のところ、自分で解決しなければならない。自分で僕を救い出さなければならない。ネットにある情報は読まない。答えと示している情報を読まない。僕は小説を読み続ける。小説を書き続ける。妄想して、自分だけの答えを導きだそうとしている。どうして、僕を見失ってしまうのか?どうして、僕という精神だけが失ってしまうのか?その答えを探し続けている。答えを探しているという行為をしているだけである。本当のこと言えば、本物の答えなんて僕は求めていない。答えを探すという行為に意味がある。だからこそ、ネットは見ないし、哲学も読まない。答えを知った瞬間、そこで僕の思考は止まってしまうのだ。他の人からすれば、答えを示すカケラになるのかもしれないが、僕の脳味噌は矮小であるため、それが答えにしか思えないのだ。偉人の言っていることをすべて鵜呑みしてしまう。自分の考えはすべて間違っていると思い、今まで考えていたことすべてが僕の頭の中から消えていく。それがあまり賢くない僕の考えであった。自分の考えていることは他人の意見で一瞬に消えてしまうのだ。小説はあるひとりの男がどのような物語を経て、どのような考えに至っているかを書いているだけだ。それは答えではなく、ひとつの考えとして捉えることができる。小説以外の本は、自分の考えていることには名称があり、その限定的な枠の中で考えているのだと感じてしまう。それは僕にとっては答えに思えてしまうのだ。ある意味では、病院で病名を言われているようなものである。病名を言われるまでは、様々な憶測が頭に浮かぶ。ガンではないのか?肺炎ではないのか?ただのカゼではないのか?だが、それは医師の言葉で病名は決定される。僕はその確定した情報から逃れるために、小説という名の妄想を読み続けている、書き続けている。今の段階では、まだ答えを示すための道がいくつも存在している。今、僕がやっていることは、数式を読み解いて答えを導き出そうとしているのではなく、数式を読み解いているだけなのだ。絡み合ったヒモを解こうとしているのではなく、どのようにすればヒモが解けるのか眺めているだけだ。そうすることで、僕は僕という存在を見失わずに、思考を続けることができる。思考を止めることは僕にとっては死に等しいのだ。今やっているこの行為こそが僕の生きがいなんだ。
「〇〇様、〇〇様」
アナウンスの声が頭に響く。誰かが僕を呼んでいた。過去が妄想が、現実になろうとしている。僕は未だに公園のベンチで眠っているはずだった。だが、僕が見えているのは真っ白な景色だった。そこには白衣を着た人間、ナース服を着た人間、車いすに乗っている人間、顔色が良くない人間がいた。ここは現実の病院なのか、それとも妄想で創り上げた病院なのか、今の僕には判断できなくなっていた。頭にノイズみたいな音が走ったような気がして、視界が暗転しそうになる。僕はどこにいるのか、瞼の裏側で探し続けていた。現実なのか、妄想なのか、それとも、現実と認識している妄想なのか、妄想と認識している現実なのか。
「〇〇様、〇〇様」
身体を看護師に揺さぶられて眼が醒める。今の僕は病院にいた。大丈夫ですか?と相手は声をかけていたが、上手く応えることができなかった。僕は首を縦に振り、看護師と一緒に受付のところに近づく。
「今回は診察代だけになります」
笑顔で看護師はそう言ったのだが、僕は何にも返事できずに黙って財布のヒモを開く。小銭を取り出そうとしたときに、1円玉が床に落ちてしまう。それに僕は焦ってしまい、すぐさま拾おうとしたのだが、その際に財布のヒモを開いたままにしたため、財布の中に入っていた小銭が全て床に落ちてしまった。僕はどうすることもできずに「うわ、うわ、あ」と言葉にもならない奇怪な声を出しているだけだった。看護師はすぐに受付場から出ていき、床に散らばっている小銭を拾ってくれた。小銭を拾うときの彼女の表情は満面の笑顔だった。僕はあのときの顔を今でも忘れることはなかった。普通の人間を見るときの顔とは違っていた。僕は人間ではないことを自覚する。人間の皮を被った気味の悪い生物である。僕はそれ以上、彼女の顔を見ることが出来ずに、床に散らばる小銭を拾い続けた。
「あ、ありがと、ご、ござい、ま、す」
小銭を拾ってくれた看護師に対して、吃りながらも礼を言った。やはり、自分は人間ではなかった。たった一言すらもまともに言うことが出来なかった。緊張しすぎたせいで、胃の中身を吐き出してしまいそうだった。周りの視線が気になってしまう。明らかに自分は異常者であった。みんながひそひそと僕の悪口を言っているような気がする。「気持ち悪い」「死ねばいいのに」「社会不適合者」「生きる価値なんてない」そんなこと言われなくても分かっている。僕はこの社会で必要とされていない存在なんだ。彼らが言っていることはすべて正しい。僕はそのことを自覚している。だから、もうこれ以上傷跡を抉るようなことはやめてくれ。いや、これは幻覚だ、幻聴だ。本当は誰も何も言っていないのかもしれない。僕がそう感じているからそう聞こえているだけなのかもしれない。そうだと分かっていたとしても、僕にはそういう風にしか聞こえない。聞こえている事実がある限り、僕は死にたくなるような悪口を言われ続けているのであろう。
妄想が現実になることは、今いるこの景色が物語っている。公園のベンチから目覚めて、電車に乗り、父のいる家へ戻りたい。それなのに、僕はこの妄想で創り上げた現実と立ち向かわなければならない。本当は過去の映像として語るだけでいい。だが、今ここにいる僕は、そのときの僕ではなく、すでに過去として経験している現在の僕に成り替わっている。だから、ここは過去ではなく妄想になってしまっているのだ。現在進行形として、この場所で時計の針が動いているのだから、ここは現実なのだ。そして、公園のベンチで寝ているあの風景こそ妄想に違いない。目の前に見えているこの景色こそが現実なのだ。そこが、瞼の裏側から見ている景色であったとしても。僕は小銭を拾い続けている。映像ではなく、自分の意志で拾い続けている。ずっと彼女に笑顔向けられながら。周りの人間に悪口を言われながら。時間が長く感じる。
「大丈夫ですから」
彼女は嫌味のない笑顔を向けながらそう言っていた。今すぐにでも吐き出してしまいそうだった。普段の人間ではないから、こうなることは仕方ないと言っているようなものであった。僕は人間でありたかった。普通の幸せが欲しかった。そのために僕は何もかも失ってもよかった。それは生まれた時点で決まっていた。人間ではない僕が人間になることは出来なかった。普通の幸せなんて存在していなかった。親のせいであろう。兄姉のせいであろう。僕自身のせいであろう。何をしても変わることはない。ゼロの僕は何をかけても加算されることはない。頭の中を開けても何もない。それが僕のすべてであった。救いなんて初めからなかった。神様に祈っても何の意味もない。唾を吐きかけたほうがマシだった。賽銭箱に入れた5円玉を返して欲しかった。卑しい存在がいつまでも崇められていることに腹が立った。
「あ、あり、がとう、ご、ございま、ます」
ようやく小銭を拾い終える。すべての小銭を財布の中に入れている途中、神社で買った御守りが目に入る。僕はまだ神様の存在を信じていたのであった。それは、妄想でも現実でも存在し続けていた。吐き気が未だに止まらない。神様は救ってくれないのは分かっているはずなのに、理解しているはずなのに、僕は神様の存在を信じ続けていた。眼を閉じている。深呼吸をしている。心臓の鼓動が速くなっているのを感じる。頭痛が酷くなっている。これは病気であろう。きっと良くないことがこれからも続いていく。それは確信ではなく確定であった。僕は不幸な星に生まれた不幸な未確認生物だ。人間ではないから、救いの手なんて差し伸ばされたことはなかった。ただ、僕は祈るしかない。神は何もしてくれないのかもしれない。それでも、ここには存在しない概念に頼るしかなかった。景色に映るすべてが僕を見捨てたんだ。僕は救いようのない醜い生き物であるかのように。もう生きる希望なんてあるはずがなかった。それでも生き続けなければならなかった。それが死んだ人たちの呪いだった。あの光景を思い出したくない。あの言葉がまだ耳に残っている。ずっと前から死にたかった。ずっと前に死ぬ予定であった。それが今も引き延ばされている。
会計を終えて、あの忌々しい白い建物から抜け出すことが出来た。僕は薬を処方されなかった。いや、僕自身が望んでいなかった。あの人のように薬漬けの人生にはなりたくなかった。僕は未だにあの看護師の笑顔が忘れずにいた。吐き気を催す。僕が人間であるか、そうではないかは些細な問題に違いない。重要なことは、どこか普通の人と違っていて、周りから見れば頭のおかしい人間と思われてしまっていることだ。そんな人間が社会に溶け込めるはずがないんだ。コーヒーの熱さでも溶けない底に残っている砂糖だ。
暑い夏だった。陽の光で焼け死んでしまいそうであった。歩くたびに靴底からアスファルトの熱を感じている。熱したフライパンの上を歩いているようであった。ただ単に靴底が擦り減ってしまっており、足とアスファルトの距離が縮まっているせいであった。靴を買わなければと思ったが、どこかの店へ寄る気力がなかった。段差もないところで躓いてしまう。足がうまく上がらない。地面に擦り付けるように歩いていた。これが靴底がすぐに擦り減ってしまう原因なのであろう。曲がり角を進むときに電柱にぶつかってしまう。顔からぶつかってしまったみたいで、鼻から少し血が流れていた。僕はまともに歩くことさえ出来なかった。病気なのであろう。それはあの医師が言った通りなのであろう。もう僕はきっと普通の人生を送れない。暑い夏だった。本当に。
目を覚ますと陽はもうすでに落ちていた。光源は街灯と家や店の窓から漏れる光だけだった。月の明かりは雲で隠れていた。時刻を見る。終電の電車がもうすぐで来そうであった。それであろう電車が駅へ向かっているのがここから見えていた。まずいと思い、急いで駅へと向かおうとする。途中、靴紐が解けていたが、構わずに走り続けていた。僕が駅のホームに着いた時には、その電車は通り過ぎていた。気分は最悪であった。僕は家へ帰ることなく、朝を迎えることになる。そして、そのまま会社へ向かわなければならない。タクシーに乗って帰ろうと考えたが、財布の中身は何にも残っていなかった。クレジットカードは常に持っておくべきであった。今の時間であれば、コンビニから金を引き落とすことも出来ない。僕はホームにあるベンチで夜が明けるのを待つしかなかった。そのとき、アナウンスが流れてきた。
「ただいま〇〇時〇〇分の電車は〇〇分遅れで運航しております」
僕が逃したのは最終電車の一本前の電車であった。どこかで人身事故があったのであろうか?地盤が少し崩れてしまったのだろうか?どこか故障したのだろうか?どちらにせよ、僕にとっては幸いであった。ベンチに座って待つことにした。僕は電車が来るのを待っていた。待ち続けていた。時間が緩やかに進んでいるかのように思えてしまう。時計を見ているのだが、秒針の針が止まることはなかった。それなのに、時間の流れは遅く感じている。世界に流れている時間がすべて緩やかになったのか、それとも僕自身の時間が狂ってしまったのだろうか。永遠に続いていくかのように感じた時間もようやく終わりを迎えて、最終電車が駅に着いていた。僕はその電車に乗り込んだのだが、後悔をしていた。そこは人間で溢れていた。満員電車というわけではないが、座る席が残っていないぐらいであった。この中途半端な人数が僕を一番苦しめてくる。どうしても、人の視線が気になって仕方がない。
ガムをクチャクチャと噛む音、イヤホンから漏れる音楽、カップ酒を飲んでいる会社員、大きなカバンを背負っている学生、アルコール消毒の臭い、薔薇の花を潰したような強い香水の香りが僕の現実の記憶として残っている。僕はこの光景を見て吐きそうになってしまう。早く目的地に着いて欲しかった。すべてが窮屈であった。僕をこの場から追い出そうとみんなが企んでいるように感じた。今すぐにでも、窓を開けてそこから飛び降りたかった。走行中の電車でそんなことをすれば確実に死へと近い状態になる。最悪であった。そんな滑稽な姿を誰かに見せたくなかった。このままいれば、死にたくなることばかりが頭に浮かぶ。未だに誰かが僕の悪口を言っているように思えてしまう。あの公園のベンチで眠ってしまったことは間違えであった。嫌な夢を見てしまった気がする。あれは夢ではなく、妄想かそれとも現実なのかは、実際のところ分からないままではあるが。あの公園のベンチで瞼の裏側から見た景色は忘れそうにはなかった。自分は病気なのであろうと断定をしてしまっている。本当は大したことはない、と言いたかった。きっと僕はこの先の人生は長くないだろうと思った。もう現実をこれ以上見たくなかった。
瞼を閉じるとそこには湖に浮かぶ白鳥がいた。今まさに飛び立とうとしていた。相変わらずそこに僕はいなかった。まるで、絵画や映画を見ているような気分であった。どこまでも遠く、虚構のように遠く。僕は想像の中で手を伸ばしていた。だが、湖の風景ごと離れていくように感じる。あの翼が欲しかった。そうすれば、自由になれるはずだった。また僕を置いて湖に浮かぶ白鳥は飛び立つ。地平線の向こう側へ迷うことなく飛び続けている。それは別れであった。僕はこの景色を失ってしまったのだ。
瞼を開く。そこには、僕がいるべき現実の景色が広がっているはずであった。ガムをクチャクチャと噛む音、イヤホンから漏れる音楽、カップ酒を飲んでいる会社員、大きなカバンを背負っている学生、アルコール消毒の臭い、薔薇の花を潰したような強い香水の香り……僕の前に広がる現実が歪んでいる。景色が電子化されたかのように、薄く透明に感じてしまう。ここは現実なのか?僕は今どこにいる?白い部分に虫が這っているように感じている。頭痛が激しくなる。僕という存在が消えてしまうのではないかと錯覚してしまう。いつまで繰り返されていくのであろうか?僕が死ぬまで続くように思えた。ここはどこであろう?電車の中であろうか?目的地へ着いただろうか?今は何時だろうか?1時間以上は進んだのだろうか?分からない、何にも分からない。父がいる家へ帰らないといけない。そうしなければ、世界が壊れていきそうであった。ああ、もう限界であった。吐き気が止まらなかった。胃の中は空っぽのはずであった。内臓を雑巾のように絞られているような感覚に陥っている。死にそうであった。このまま息絶えて人生の終了ボタンを押したかった。僕の頭の中にあるハードディスクをハンマーで粉々にしたかった。すべてを終わらせたかった。死ぬ勇気がなかった。どういうわけか、死というものに恐怖を感じていた。
「落ち着いてください!」
妄想が喋っている。それは僕なのか、あの人なのか、それとも全く別の人間なのか。もうその妄想に何の意味もなかった。気付けば、僕は瞼を閉じていた。そして、瞼の裏側の景色を見続けていた。走馬灯のように、自分の人生を振り返っていた。どうして、僕だけがこんな目に遭うのであろうか?僕はひたすらに現実を見ようとする。瞼の裏側から必死に見続けようとした。
これは罰である。何をやっても失敗ばかり、猿でもできる仕事もまともにできない。理解しおうとしてもダチョウくらいの脳味噌しかない僕は相手の思い通りに動くことができない。そんな僕をみんな責めることなく、仕方がないということで何度も教えてくれる。むしろ、怒鳴られたほうが気が楽だったかもしれない。そうすれば、自分はいかにダメな人間で何にもできない奴と思えるのに。いつまでも自分は空高く飛べる気高い白鳥だと勘違いしているアヒルになる必要なんてなかった。アヒルはアヒルらしく汚れた水の中に浮かび続けるだけでいい。夢なんか見る資格なんてなかった。それは飛ぶ努力をしなかった僕の責任である。ああ、誰もが讃えるあの美しい白鳥のようになりたい。この状況に陥りながらも叶うはずのない夢をまだ見続けている。僕はまだ可能性を信じている。それはこの命が尽きるまで続いていく。だから、こんな叶わない幻想を見ないようにするためには自ら命を絶つしかなかった。僕は僕を殺さないといけない。失敗することは許されていない。失敗すれば、この苦悩がいつまでも続いていく。僕は本当の意味での死を望んでいた。ああ、どうかこの僕に死ぬ勇気を!神様、僕に力をください!そうすると、僕の身体の中にある勇気たちが旗を持って、崖に飛び込もうとしている。ああ、そうだ僕は死ぬ勇気が欲しいんだ。そして、あの崖に飛び込むんだ。この生活から解放されるんだ。今の僕は何て自由なんだろうか。醜いアヒルのままでも、あの気高い鶴のように飛べることができるんだ。
電車はいつのまにか最終駅に着いていた。今から戻ったとしても、日付は変わってしまっているだろう。2日連続遅刻することになる。もう会社のことなんて考えなくていい。考える意味なんて何にもない。もう僕に帰る場所なんてどこにもない。僕の人生も今終着駅に着いている。父は心配するだろうか?後追い自殺するかもしれない。身勝手な息子で申し訳ない。それでも、僕は自由を求めていた。会社とか家族とかそういうしがらみから解放されるんだ。僕は個人である。父と母の間に生まれた子供だったとしても、それはただの血だけの問題であって、他人と大して変わりはない。だから、他人がどうこうだからじゃなくて、自分の意志で決める。薄情な奴だと嬲られてもいい。それが自殺する人間の覚悟だ。
僕はスマホを取り出して、地図のアプリを開く。目的地は歩いて30分くらいかかる。タクシーを使おうかと考えたが、他人と会って決断が鈍ってしまうかもしれない。それだけはもっとも避けなればいけないことだった。中途半端に終わってしまったら、気持ち悪い違和感を抱えながら日々を過ごさなければならない。確実でなければならない。正直、恐怖は感じている。それでも、僕は死ぬ勇気をもらった。手に入れていた。だから、もう迷う必要なんてどこにもない。ただ、飛び降りればいいんだ。
気付けば、目的地に向かうための入り口に着いていた。人が勝手に入らないように鉄のチェーンをかけていた。だが、それは跨いでしまえば簡単に通れる。あくまで、この時間帯に通ってはいけませんと注意喚起しているだけだった。ここはどこだろうか。地名も知らない場所で僕は最期を迎えようとしている。地図のアプリで示している目的地はすぐそこまで近づいていた。兄と姉の顔が浮かぶ。結局、父と同じで最後まで忘れることはなかった。今はいない人間だとしても、過去に存在していたことには変わりない。僕は未だに恨んでいた。彼たちが死ななければ、こんなことにはならなかった。実家に帰ることなく、一人暮らしを満喫できていた。仕事は上手くいかないけど、懸命に働き続けていただろう。憂鬱になりながら、長い電車に乗る必要なんてなかった。
やっとの思いで目的地に着く。僕は柵を乗り越えて、崖の下を覗いてみる。光のひとつもなく、底は暗闇で何にも見えなかった。果たして、僕はここから飛び降りて死ぬことはできるのだろうか。底にあるのはクッションで飛び降りたとしても、衝撃が和らいで死なないかもしれない。もしくは、底には大きな穴があって、落ちると別の世界に連れていかれるかもしれない。そんなことはないと分かっていながら、一度でも考えてしまったことはひとつの可能性として頭の中に残り続ける。もう考えることはやめよう。思考するたびに、自分は空を飛ぶことのできないアヒルだと自覚してしまう。もう僕は自由なんだ。飛び降りる、それだけでいいんだ。何にも考えなくていい。思考をすることは僕の勇気を削ることなんだ。
そうして、陽が昇り始めたときに飛び降り自殺をした僕は私になった。