お礼SS「辰巳先生の課外授業~夏の日の片隅に。side B」by瀬川
前の部屋のSS「辰巳先生の課外授業」へ
感謝を込めて書き下ろさせていただいた小品です。
前室を読了の後、よろしければお読みください。
声がする。
どこからだろう。
白い霧に阻まれて、透かして見ることができない。
ただ、声だけが白い闇の向こうに聞こえている。
足元も見えない。手で白を掻き分けながら、進む。
どれくらい歩いたのか。声は、もうすぐそこから聞こえてくる。
しゃくりあげる、少女の声。
すぐそこにいるはずの姿は……しかし、見えなかった。
「きみは、ここにいるの?」
「……うん」
「どうしたの?」
「わからないの」
「何がわからないの?」
「どうして、こんなに涙が出るの? どうして私は……助けてほしいの?」
少女は、確かにそこにいる。気配はある。
しかし、姿はない。
手を取ってあげることも、背中に触れることもできない。
ぐず、ぐず、と泣く少女の声が、心の深いところに、すっく、すっくと刺さってくる。
「大丈夫」
とっさに、右手を出して、彼女の手を掴んでいた。
もちろん、見えてはいない。
ここだ、とも思わず、咄嗟に手を出していた。
果たして、彼女の手はそこに……あった。
少女の息を呑む気配。
数瞬、涙声が止まった。
「大丈夫……大丈夫」
ただ、繰り返す。
その言葉にだけ、力があると信じるかのように。
見えない少女の手に、しっかりと力が籠もる。
もう片方の手で、繋いだ手をさらに外側からしっかりと包み込んだ。
少女も、そうしたらしい。小さく、暖かな熱を外側に感じた。
繋いだ手から、少女の心の色が、流れ込んでくる。
灰色の淋しさ……吐く息を白く染めるような荒涼がたちこめている。
凍えそうになりながら、声をかける。
「……その胸の淋しさは、人の淋しさです。一対となるべき人だからもつ、生まれたときに備えた、大切な欠落です」
「人って……こんなに、辛いの?……寒いの?」
「愛しさも、その欠落の井戸から生まれます。だから、その欠落に触れて、淋しさを、自分に認めてあげて――そうすればきっと、誰かの欠落にも、思いを馳せることができます――愛することが、できます」
「私は、愛せる……」
「その欠落こそ、愛せることの要件です。愛する人にも、愛してくれる人にも、その欠落がきっと導いてくれます。だから……」
少女が、姿を備えたように見えた。
白い霧の濃淡のいたずらか。
ほんの一瞬、見慣れない制服姿の、微かに微笑む少女を認めたように……思う。
が、つぎの瞬間、霧はまたその濃淡をなくし、茫漠とした白に戻っていた。
「きみは……」
霧の中に呼びかけた声も、霧に溶けて消えた。
◇
目を覚ましたとき、自室で机に突っ伏していた。
不思議とはっきりした夢の記憶がある。
何かを暗示するような。
何かを思い出させてくるような。
全く知らない、別世界の、空想の少女……いや、古い記憶の中に、似た面影があるようにも思う――記憶と、空想と、いろいろ足されて混ざったのかもしれない。
―― 一対になるべき、なんて……教材研究しながら寝て、影響されたか。
苦笑して、机の上に開いたまま、枕にしていた教科書に目を落とす。
夏目漱石「こころ」のページに、折り目がついてしまっていた。
(了)