君のヒーローに、なれたかな?
〈レザークラフト〉幹部のひとり、《青金の人形遣い(ドール・プレスティジャトーレ)》————青柳藤に関する事件は、こうしてようやく一区切りを迎えた。
あのあとルカが事前に手配していた応援要員が駆けつけて、藤はその場で拘束。
しかしルカの裁量によって、『断罪』はいまのところ免れている。
今後はどうなるのかまだわからないが、桐子との面会も、彼ら兄妹の精神衛生の問題で許されているようだ。
秋もルカも大怪我を負っていてすぐに病院へ搬送されたが、やはり秋の方が先に手当を終えて解放された。
ルカは藤の手で腹に大穴を開けていたので、内臓に多大なダメージを負っていたため、緊急手術が執り行われている。
ルカの緊急手術中、静寂を守っている待合室で。
秋とシスターカナコはルカの無事を祈って、長椅子に座っていた。
時刻はとうに深夜を回っていて、『手術中』の緑色をした明かりと廊下の端にある転々とした電灯が、リノリウムの床を照らしているだけ。
眠気覚ましのつもりか、シスターカナコがそっと教えてくれた。
「ルカ……あの人ね、本国じゃあ見た目通りの、どうしようもないゴロツキだったのよ」
「あぁ……めちゃくちゃ想像つく」
だって『神父様』っていうより、『昔ワルやってたダメ親父』って感じだもん。
……とまでは言わなかったが。
秋の反応にその色が濃く見えたのか、シスターカナコはくすりと一笑して続けた。
「ご両親も早くに亡くしてて、その上、信頼していたお祖父様まで急に逝ってしまわれて……神様なんて、って荒れていた時期があったの。でも」
————すぐ近くにあった教会堂の神父様がね、いきなり殴りつけてきて
「誰かの悪役になるな、どうせならヒーローになれ」
————なんて言われて、その日のうちに死ぬほど教典を叩き込まれて、いつのまにか修道士になったんですって。
————最初のうちは当然、やる気なんてなかったらしいわ。実際に万年中級輔祭だったしね。
————でも秋くんに出会って……秋くんがあんまりにも素直に慕ってくれるから、自分でもヒーローになれるんだって、嬉しくなっちゃったんですって。
シスターカナコは締めくくりに、こう付け加えた。
「だから秋くんのこと、特別に可愛かったみたいよ。君の前だと、すごく無敵のヒーローになれたような気がして」
お互いに馬鹿だなぁ、と笑うしかない。
言葉を送ればこんなにも、わかりあえるはずなのに。
どうしてすれ違っていたんだろう。
誰もがみな、こころのなかを見透かせるわけじゃないから、だから。
言葉にしなきゃ、なんにも伝わりゃしないんだ。
「秋」
手術が終わり、麻酔も切れた頃に秋が病室を訪れたら。
ルカはぼんやりとした視点の中でも秋の姿を認めて、真っ先に彼の名を呼んだ。
いつものおどけたような調子で、いつも通りにくしゃっと笑う。
秋の頭を滅茶苦茶に撫でようと手をいっぱいに伸ばして、しかしベッドの上からでは届かなかった。
「……ったく、こんなにでっかくなりやがって」
苦笑しながら、代わりに秋の腹に弱めの拳を入れる。
「ごめん」
と秋が重々しくなった口からようやっと一言発したら、
「あん?」
とルカが返事した。
しっかり聴こえてはいたが、喧嘩のしっぱなしでどの『ごめん』か判断がつかなかった。
しかし秋のほんのり安堵の色を浮かべた顔を見て、どれのことなのかわかったようだ。
「んな顔させたくて命張ったわけじゃねぇよ、このバカタレが」
先ほどよりも乱暴に秋の腹を殴り、そのちょちょぎれそうな涙をちょん切れとか、わけのわからないギャグを一発かまして場を濁した。
いつもなら冷笑するところだが、しかし秋は微笑んで代わりの言葉を述べる。
「ありがとう」
「俺も。あんがとな、メシ。すげぇうまかった。また作ってくれ」
秋もルカも、互いに笑ったところを見たのは久しぶりのことだ。
不器用な彼が作って置いていった簡素な朝食は、いままで食べたどの料理よりも温かみがあった気がしていた。
たったそれだけが絆のように感じていたここ数日間、ルカにとっては生きた心地がしなかった。
秋はようやく顔を上げて、そっとルカの拳を握る。
その手はもう、あの日の小さな少年のものではなかった。
「もっといろんな料理、作れるようになるよ。もっと、もっと……これからも、あっと驚かせてやるよ」
「できんのか?俺に似てぶきっちょなお前が」
ルカは冗談交じりにせせら笑う。
料理も、勉強も、生活に関することは全部ルカが教えた。
秋は恥ずかしさにほんのり頬を赤く染め、不満そうに膨らませる。
「しゃーねーだろ……ルカが育てたんだから」
「はは、違いねぇ」
そう笑って、ルカは秋の手を包み込んだ。
離れていた数日間を埋め合わせるかのように、ふたりは長い時間話し込んだ。
まだふたりとも本調子じゃないんだから、とシスターカナコが止めに入るまでその時間は続き、夕陽が傾いた頃になって秋は病室を出る。
「んなとこでどうしたんだよ、桐子」
ぎくりと肩を揺らし、それから所在なさげな顔で、桐子は廊下の柱にある陰から姿を見せた。
蜂蜜色のおさげが飛び出ていたからすぐにいるのがわかったのは、もしかしてギャグなのだろうかと訝しむ。
確か教会本部の指示では、秋と桐子のペアは養生のために休暇を申し付ける、とかいう書面が来ていたはずだ。
そのせいなのか、彼女はいつもの危ういシスター服ではなく、私服であろう大人しめなカーディガンとワンピース姿だった。
「前にあなたのこと『弱い』って、言いましたけど」
と桐子が言い始めてから、秋は一瞬だけなんだっけ?と記憶を漁った。
「ん?あー……そいえば」
そういえば初めて出会った頃に、そんなことをちょこっと漏らしていた気がした。
すっかり忘れていたことを、なにも今更思い出させなくても……。
「ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ、訂正します」
「へ?」
予想の埒外な言葉に、秋は頓狂な声を上げた。
どうせ「まったく成長していませんね、このヘボ神父」とでも、この期に及んでグチグチ『反省会』を行うのかと構えていたのだが、どうにも雲行きが違う。
桐子は深い吐息の合間に、服の上からでもわかる豊かな双丘の、その真ん中……心臓に手を当てる。
「あのとき……秋が救ってくれたことで、私の世界は一気に色を変えました」
いまでも、たった一秒前のように思い出せる。
モノクロだった世界に色がつき、鮮やかに眩く広がっていたあの日の夕焼け。
黄金色のようでいて、天鵞絨のような藍色と水色の濃淡が付いている。
一番星と月がほんのり顔を出して、優しく見守っていた、あの景色。
————きっと一生、忘れることはない。
きっと彼と出会えなかったら見えなかった、その色とりどりの世界は。
《白》も【黒】も同じくらいに輝いている、綺麗に混ざり合っている。そんな世界。
それからチラと、すぐそばの病室を覗いた。
中ではルカが、シスターカナコにどやされている。
いつも通りの、賑やかな光景が戻ってきた。
それは秋が、自らの手で取り戻したもの。
「あなたにも家族を守れるだけの力が、あったんですね」
『家族』と言われて、秋は内心で照れていたが、必死に努力して表情を崩さないように保っていた。
しかし桐子の次の言葉と微笑みには、どうやら堪えられなかったようだ。
「秋は、私の『ヒーロー』です」
「……!」
涙が出そうになるところを、しかし秋は代わりに破顔した。
久しぶりに思い切って、空気をいっぱいに吸い込んで。病院の空気は、想像通りに消毒液臭かったけれど。
あぁ、たまには気持ちのいいもんだなって、また笑う。
それにつられて、桐子も天使のように優しく微笑んだ。今度こそ笑いあえた。
俺はアンタみたいに、誰かのヒーローになれたのかな?
————なぁ、ルカ。
エンジンを掛けっぱなしで、ギアはトップ。
ブレーキなんて常に壊れていて、走りっぱなしの毎日。
なのに追いつけなくて、追い越せなくて。
焦れったい距離のなかで、無言の背中をただ見つめるだけだった。
だけど憧れていたその背中は、ほんの少しだけ近づけた。
声が届いて、止まってくれた。
ようやく、ほんの少し……ほんのちょこっとだけ、追いつけたのかもしれない。
サインはいつだって、無言の背中。
言葉なんかじゃ伝えきれないもの、せんぶをいっぱいに乗せて。
その胸に掲げた錆だらけの《ロザリオ》に、祈りを捧げよう、絶対を誓おう。
君になかなか届かない、サインがたくさんあるんだ。だから、何度でも送ってみることにするよ。
『君が堕ちるというのなら、俺が《白》にも【黒】にもなってみせよう』。
『いつだって、永遠に、なにがあったって』。
『世界中のすべてが【黒】に染まる、そのときでも』。
『正しいことがなにかわからなくなり、なにかを信じることができなくなった、そのときでも』。
『君が生きることを諦めた、そのときでも』。
『俺は君のヒーローになるよ』。
「『神の御名において、汝の惑いし魂を救わん』」