『僕』でいるための理由
迫り来る藤の大剣を、桐子は避けるべきだと判断したはずだ。なのに。
こんなになるまで兄を苦しめていた闇を、自分が死ぬことで祓えるのであれば————。
受け止める覚悟さえついた。
愛していた、愛してくれた兄のためならばと、本気で思っている。だけど。
その来るであろう『痛み』を想像して、こんなにも涙が止まらないのは。
怖い?
悲しい?
なのにどうして。
桐子の目の前に、秋の背中が現れた。
「人間は、都合のいい人形になんてならない……っ!だって」
秋は《ロザリオ》の照準を藤の胸に、真っ直ぐ合わせている。
左手には、聖母マリアが微笑むコンボスキニオン。
悪魔祓いをする気だ。
その瞳には『悪魔を祓えば藤が廃人になるかもしれない』という迷いも、引き金を引く指が間に合わないかもしれない不安も、これから死ぬかもしれないという恐怖もない。
ただただ、彼のこころを救いたい————それだけだ。
神様なんて信じちゃいないはずなのに、どうしてだろう。
こんなにも祈りを捧げて、いったい誰の助けを待っているのか。
浮かぶのは、ただひとり。
「だって、生きたこころを持っているから、いろんな色を持っているから、人間なんだっ!!!!」
喧嘩して殴り合っても、同じテーブルで同じご飯を食べる。
いまじゃ当たり前の毎日だと思っていたのに、いつのまにか無くしてしまった。
『いってきます』も『ただいま』も……『ごめんね』も、無言じゃなにも伝わらない。
言葉がない毎日はモノクロで、側にいるはずなのになにも見えない。
いくら傷ついたって、傷つけられたって。
悩んだって苦しんだって、闇に堕ちてもなお。
誰かを想う『言葉』こそが、この世界の彩りなんだ。
【黒】も《白》も、すべてが等しく彩る世界のなかにいるから。
だからこそ。
この世界はこれほどに残酷で無情で醜悪で、しかし————とても美しい絵画になる。
カンバスにぶち込めた思いの丈を、きっとたったひとりの『誰か』が、見てくれますように。
秋の《ロザリオ》が悪魔を撃ち抜く前に、絶対に大剣が秋の胴を貫くだろうとこの場の誰もが予想していた。
秋自身もその衝撃を予想して、引き金を引くのに目を閉じていた。
しかし。
いつまでも、いつまで瞳を閉じていても、その衝撃がこない。
もしかしてもう腹に深々と突き刺さっていて、あまりの猛烈な痛みに麻痺しているのだろうか、と。
瞼を恐る恐る、薄く開けた。
目の前には、大剣を秋の腹に突き刺した藤————ではなく。
神聖なる黒い修道服がまったく似合わない、いかにも『ヤブ神父』の頼もしい背中が一面に見えた。
「お前の『父親』には、絶対になれないかもしれねーが……よ」
盾にした自身の《ロザリオ》ごと、ルカの腹は大剣が深々と突き刺さっている。
口から血を吐きながら、それでも。
「俺はお前の……『ヒーロー』、なんだろ?」
いつもの頼もしい顔を見て、やっぱり安心してしまう。
呆然とした藤が大剣を取り落とし、それごとぐしゃりとその場に倒れるルカ。
「ルカの……ばかやろっ!」
力が入らないルカの体を支えながら、秋は幼少期ぶりに泣きじゃくっていた。
大剣が迫り来るあの瞬間に確かに、助けて、と秋は祈った。
ルカの背中が過ぎったけれど。
だけど。
「生き残れたって……アンタがそばにいてくんなくちゃ、生きててくれなくちゃ、なんの意味もないんだよ……っ!」
《白》でも【黒】でもいいから、ルカが側にいてくれればそれでいい。
どんな理由があっても、たとえ自分を裏切っていたとしても。
あの地獄の中から拾い上げてくれたその腕は、確かに『ルカ・アスカリ』のものだった。
「お兄様……」
大剣が手から離れて、茫然自失とした様子で項垂れる藤に、桐子が声をかけた。
「私は、お兄様がいたから、生きていられたんです……互いに支え合う、彼らのように」
そう言いながら目を向けた先には、秋とルカのふたりが笑いあっている姿。
ふたりの空間は優しくて温かくて、そこに陽だまりがあるようだった。
自分と兄も、あんな風に見えたのだろうか。
幼い頃、誰も自分のことなんか見てくれなかったなかで。
たったひとり藤だけは、いつも一緒にいてくれた。
『居場所』を与えてくれた。『夢』を与えてくれた。『愛』を与えてくれた。
「藤お兄様は、私が生きるための道しるべなんです」
あなたがいたから、私は『私』でいられた。
『青柳桐子』をこの世界で初めて認めてくれたのは、間違いなくあなたです。
「……桐子」
ぼんやりと、秋とルカを見つめる藤の瞳には、いったい何色の世界が見えているのだろうか。
ゆっくり、ゆっくりと浮上する感覚。
「僕は……立派な兄じゃない」
「知っております」
本当のあなたは、ちょっと悪戯っぽくて、たまに悪巧みだって考えるズルイ人。
いつも乳母に怒られて、でもちっとも反省しないんですから。
「本当は真面目な優等生なんかじゃない」
「わかっております」
学校の課題をサボって締め切り間際に泣きながら作業するその背中は、いつだって見ていました。
飽きて手が止まったときに「遊ぼうか」って声をかけてくれるのを、私はいつも待っていたんですよ。
「お前のように、強くなんかない」
どうしようもない、狡くて弱くて馬鹿な————どこにでもいる、私のお兄様。
「だから、私がずっとお側におります。私の大切な藤お兄様」
涙が止めどなく溢れて。
これまで自分がしたことへの寒々しさを覚えて。
手にこびりついた血の感触が取れなくて。
でもどうしてだろう。
あの緑の屋敷のポーチで君と一緒に、陽だまりのなかにいるみたいな気分なんだ。
君が手を伸ばしてくれたから、僕はここに来れた。
君が鎖を砕いて、僕の手を温めてくれたから。
暗くて深い【黒】の海の底から、僕はようやく解き放たれたんだ。