決戦
教会本部を飛び出して、秋はバイクに桐子を乗せてぶっちぎりの速度で走り出した。
向かう先は、桐子が軟禁されていたあの洋館だ。
彼はあの洋館と機械人形に、なにか執着しているのではないか。
妙に美しく整えられた庭木や内装と人形棚が、やけに目立った印象を与えていたから思いついたのだが、案外と的外れではないかもしれない。
桐子の記憶が正しければ、あの洋館は青柳の別荘によく似ている。
彼のこころを縛り付ける『もの』。
そして、彼のこころを解放させる『もの』。
きっと同じ【もの】で、彼は苦しんでいるのだろう。もがいているのだろう。
足掻くのに疲れて、誰かの助けを求めているのだろう。
彼は相変わらず美しい館の夢のように美しい庭先で、秋たちを待ち構えていた。
ガーデニングテーブルセットの上には、見るものをうっとりとさせるような薔薇模様のアンティーク・ティーセット。
側にはこちらも相変わらず、栗色の髪を持つ機械乙女が付いている。
「やぁ。再びここで君に会えるなんて……夢を見ているみたいだ」
彼は優雅なティーセットで、ベルガモットティーを愉しんでいたようだ。辺り一帯にほのかな酸味と甘さが香る。
サクサクに焼き上げられたスコーンとクッキーのナッツが混ざった芳ばしい香りが、食欲をぐっと掻き立てた。
藤はいつものスーツ姿で、華奢な椅子から立ち上がり、見るものを魅了する美しい一礼。
「ようこそ、僕の機械人形劇へ。主演は僕、ゲストは————」
「くだんねー御託はいい。とっととお前を、その粘っこい暗闇から引きずり出してやる」
秋は悠長な言葉遊びに付き合っている暇はないと、グレンチェックのネクタイを首からもぐように外し、なびく風に遊ばせる。
桐子も太腿のホルスターから愛銃を抜き放ち、戦闘態勢に入った。
「我が昏き深淵に呑み込まれないことを、願ってあげるよ————In bocca al lupo.(健闘を祈る)」
藤の激励を合図に、桐子が秋の胸に顔を埋める。
いまだ血で濡れている胸に赤い舌を這わせ、その『罪人』の心臓を食らった。
甘い甘い、禁断の果実の味に舌鼓を打つ暇もなく。
「主よ、我らの原罪を、どうかお許しください」
教典の第一章第一文で、悪魔祓いの始まりを合図する。
秋の手のひらに熱がこもり、爪先にじわりじわりと血が浮かんで溜まっていく。
血はやがて右手のひらに丸くて大ぶりな銃を形づくり、水から浮かび上がるように細かな装飾が施されていった。
眩い白銀の、断罪と慈悲を与える《ロザリオ(銃)》を右手に、左手には聖母マリアが刻まれた『不思議のメダイ』を伴った愛用のコンボスキニオンが煌めいている。
「悲しみの連鎖は、ここで終わりにする……っ!」
「果たして誰の祈りが神に届くのか……楽しみだね、『藤』」
秋の剛毅に満ちた宣誓と、藤の奇妙な微笑みを合図に最終決戦が始まった。
桐子の弾丸を首だけで避けて、あくまで秋に狙いを定めて動く。
しかし桐子も秋への接近を許すことなく、ハンドガンとナイフ、それにご自慢の足技を華麗に駆使して防御。転じて反撃。
両者は一ミリたりとも相手に譲ったりしない。
藤はどうしてか、専売特許の機械人形を使おうとしないが、いったいどういうつもりなのだろうか。
その間にも秋は教典の詠唱を止めることなく、ふたりの戦いの行方を追う。
「ひとつ訊きたいんだけど」
と桐子との白熱した白兵戦の最中で、藤は余裕たっぷりに秋へ尋ねる。
「僕からの“プレゼント”は、もう届いたのかい?」
きっとあの親子のことだと、秋はすぐに察した。
第一章はようやくこれで終わったが、どうも藤には効いていないようだ。彼の動きには悪魔が教典で怯んだ時のように、阻害された鈍りがない。
ひと呼吸の合間、藤からの問いに答えた。
「……アイツらは、俺たちがちゃんと祓った。いまは教会本部で保護してるよ」
「ふぅん。やっぱりやられちゃったんだ……情けないなぁ」
残念がることも惜しむこともなく、冷めた声で感想を述べる藤に対し、秋は不快感と憤りを感じた。
「お前が仕掛けたクセに、随分と薄情だな」
桐子のナイフ攻撃をすり抜け、藤もお返しの拳を繰り出す。
しかしその拳は空を切り、横からナイフの一閃。————ナイフは藤の髪をほんの数ミリ巻き込み、誰もいない空間を割いた。
「え?だって別に彼らに興味ないしね。『行きずりの関係』ってとこかな?」
藤の悪びれもない返答に、秋はとうとう激怒の色を露わにした。
「っテメェ……ひとのこころを、なんだと思ってんだ⁉︎」
「『ひとのこころ』?……あっははははっはははははは!!!!!!!!」
秋がまるでお寒いギャグでも連発したかのように、藤は本当に面白かったみたいな大袈裟極まる大爆笑をしだした。
秋ばかりではなく、桐子でさえ手を止めて怪訝な表情で藤の笑いが収まるまで見守る態勢に入る。
しばらく笑ってから落ち着いた頃に、ヒーヒーと苦しそうに腹を押さえた。
「Ho capito.(おっけー)、君が言いたいことはわかったよ。つまり」
目尻に浮かべた涙を拭いながら、藤は舞台に立った演者のごとく声高に叫んだ。
「『心のある者にはそれぞれ権利があり、それは何人も侵害してはならない』」
びぃん!
と閑静な庭園に響いたその声には、最大級の嫌悪と嘲りが含まれているように聴こえた。
わんわんと周囲に反響する山彦が終わった頃。
にやりと嫌味っぽく藤が嗤った。
「そういうことだろ?お綺麗な人間サマ」
「……そうだ」
そのいやらしげな瞳に対抗するように、秋も強気を崩さず睨み返す。
しかしそんなものは通じないと、どこ吹く風とでも表現しようか。
藤はすらりと伸びた指を揃えて自分に当てる。
「僕のこの人格が『青柳藤』本人のものじゃないってこと、君はとっくに気づいていたんだね」
予感はしていた。
彼の言動は悪魔に取り憑かれた人にしては継ぎ接ぎのない、滑らかなもの。
とても『悪魔の傀儡人形』とは思えないところが、端々に見えていたのだ。
忘れてはいけない。
悪魔という現象は現実的に表現するなら、精神病という疾病に値するものだ。
精神がふたつに分裂していたって、なにも不思議なことではない。
「『青柳藤』は……もういないのか?」
『青柳藤』の精神がとうに死んでいるというのなら、秋たちがこの悪魔を祓った途端に彼が廃人となることを意味する。
それはきっと、桐子が望むような結果ではない。
しかし彼————『青柳藤』の姿をした男は、意外にも首を縦には振らなかった。
「【僕】という存在はまったく別人のもの、とは言い切れないだろうね。【僕】は自分が『青柳藤』だと自覚している。『青柳藤』と精神が融合している、とでも表現すべきかな?しかし」
とんとん、と扉をノックして中の様子を確かめるみたいに、彼は自分の胸を軽く叩いた。
「別の人格が胸に存在しているのは、認めるよ」
彼が閉じた瞼の裏に秘めたものがなんなのか。
秋には想像もつかないし、たぶん理解できようもないもの。
【黒】に染められた、何重にも塗り固められた地獄に、彼はひとりぼっちで囚われているのだろう。
「『彼』は泣き虫でね、いつも妹のことを嘆いている……反吐がでるほどにね」
悪魔は青にも似た仄暗い灰瞳をほんの一瞬だけ、己に銃を向ける桐子へと合わせた。
愛していた妹への、激しい嫌悪、憎しみ、嫉み……ほんの少しの情。
それらが多分に載せられた、大好きだったお兄様からの、灼けつくほど痛いくらいに熱を帯びた瞳。
桐子が怯むほどに、その瞳は『青柳藤』のものだと確信させる。
『彼』を祓ってしまえば、その大好きな兄がどうなるかわからない。
このまま祓って……いいのでしょうか。
桐子の迷いが煽られるなかで、秋はいたって冷静を保って尋ねる。
「そいつから離れる気はないのか?」
「ないね。君も知っているはずだ、僕らの行動原理と欲求を」
交渉の余地もない、とにべもない答え。
悪魔が人間を好んで巣にする理由は、すべてが【闇】。
こころがあるヒトは生きている限り悩み、苦しみに苛まれる。
その【闇】を大好物の糧とする悪魔は、だからこそ病んだヒトが大好きだ。
「だから人間は好きさ。見てみなよ、彼女」
藤が糸を手繰り寄せるようにくい、と左手で招くと栗色の髪の乙女が、虚ろな瞳でふらふらと藤の側までやって来た。
そのまま乙女は藤に抱かれ、感情や愛のない口付けを落とす。
ほんの一時の快楽を彼に与えて、自身も自然と喘いでいた。
その様子は醜悪としか言いようのない、明らかな不快感を秋と桐子に与える。
「僕の意のままに動く。『彼』も同じさ、僕がちょっと甘い言葉で誘っただけで……このザマだ」
藤が吐き捨てた言葉通り、乙女には『意思』がない。
彼の思う通りに体が動いているだけで、彼女個人の感情は一切が排除されているのだ。
「所詮はこんなものさ、人間というやつは。他者の言葉を鵜呑みにして動く……人形となにも変わらない」
感情や意思を取り除かれたヒトは、『人形』と同じだ。
個人の感情や意思、あるいは権利なんてものは、ちょっとした衝撃であっという間に砕け散る。
僕は修道士としての道のみを許され、寄り道なんかさせてもらえなかった。
学者になりたいとか、小説家になりたいとか、輝く夢はたくさんあったのに。
夢を見ることすら、彼らは許しちゃくれなかった。
『青柳藤』はこうであれ、こうあるべき、こうしなさい。
なんだそりゃ。
僕は『僕』であることすら、誰も許してくれなかった。
そんなに必死になって『青柳藤』を守ることに、なんの意義があるというのだろうか。
『青柳藤』という存在はこうして周囲の身勝手な大人に淘汰され、もみくちゃにされて、壊れてしまった。
勝手な思い込みでひとの道を塞ぎ、『こうあるべき』を決めつけるんだから。
僕は『青柳藤』として生きるその術を、簡単に奪われてしまった。
《白》は【黒】に塗り替えられ、美しい世界が崩壊する。
睡蓮も、かかる橋も、空も雲もなにもかも。
ぐしゃぐしゃになったカンバスの上、そこには【黒】の闇しか残らない。
深い【黒】しかない海の底で、僕はいつまでも囚われ続ける。
ふと桐子の視線を感じて、藤も視線を向けた。
よく似た灰色の瞳には、不安と悲しみのほかに、侮蔑が込められている気がした。
————君もそうなんだろう?
勝手な気持ちで、想いで、僕を縛り付けるんだろう。
その『悲しみ』は、君が望んだような兄ではないから、だからだろう。
『僕』はもう……他人が望んだままの人形には、なりたくないんだ。
深くて暗い【黒】の海に縛り付ける、その太い鎖が。
一段と重くなって、軋んで叫んでいる。
藤の騒めきに呼応して、機械乙女の形態が変化していく。
手や脚が分解されて、胴も形を変えて、機械乙女は茨を模した凶悪な形態の大剣となる。
その茨は、藤のこころにこれ以上触れさせないよう、芽生えたものなのだろうか。
誰も寄せ付けたくない、これ以上傷つけられたくない。そんな彼のこころの表れなのだろうか。
藤はその大剣を、真っ直ぐに妹へ向けた。
大切だった、この世の誰よりも愛していた妹。
優しくて穏やかな時間を与えてくれた彼女の理想は、しかし藤にとっては深い苦しみにしかならない。————だったら、いっそ。
壊れてしまえばいい……っ!