穢れなんてものはない、君は生きていいんだよ。
急いで彼女の後を追って、沈黙を守る教会の両扉に手をかける。
中の様子を窺うべく、ほんの少し隙間を生んだ。
「……静か、だな」
「そうですね」
教会はよくあるバシリカ型で、真っ直ぐ奥に教壇が立っているのが見えた。
天井に嵌め込まれたステンドグラスから柔らかく光が落ちてきて、普段であれば荘厳な雰囲気が漂っていることだろう。
しかし教会堂の中はあらゆる物が破壊され尽くし、毛足の短いカーペットの床にはさまざまな破片が散らばっている。
昔からの光景ではなく、ほんの数時間くらい、下手したら数分前に破壊されたような印象だ。
だが一見して、人の姿は見えない。
この教会に先に派遣されたはずの修道士の姿もない。
しかし血痕もところどころに見えることから、どこかに怪我人がいるようだ。
「本当にここで合ってんの?」
絶賛大暴れ中の悪魔を想像していたこともあり、秋は素直に拍子抜けした、と疑問を浮かべる。
しかし桐子は緊張の面持ちを崩すことなく、ため息をひとつ。
「見ればわかるじゃないですか、頭にウジ虫涌いてるんですか?」
「そっこまで罵倒される事案かなぁ⁉︎」
「煩いですお口チャック」
そのとき。
かた、と小さな物音がした。
「「‼︎」」
ふたりは躊躇いなく両扉を全開にして、中に突入した。
音がした方、教壇の後ろに小さな人影がある。
「秋!」
「わかってる!」
駆け寄ってみて、その人影が小さな少年のものだとわかった。
「おい君っ、大丈夫か⁉︎」
秋は彼の意識を確認するべく声をかけるが、反応はまるでない。
薄い胸が浅く上下していることから、息はあるとひとまず安堵する。
「彼が罹患者でしょうか?それにしては……」
————年齢が若すぎる。
世間一般では精神病という扱いを受けている以上、悪魔祓いに来る人びとはみな一様にある程度、精神年齢が熟している年頃だ。
子供だって精神病を発病することはあるが、成長していくうちに自然治癒されるケースが多い。
悪魔祓いをせざるを得なくなるまで重篤化することは、滅多にないといえよう。
倒れていた彼の年頃は、おそらく六歳、七歳の頃に見える。
この年頃の子供が罹患者であることは、非常に珍しいケースと判断できるだろう。
少なくとも秋は見たことがないし、桐子も出会ったことはなかった。
「確かに疑問っちゃそうだが、とりあえず怪我してるみたいだし」
と血だらけの少年に気遣いの視線を向けた秋に、桐子も快く応じる。
「えぇ、私はこのまま教会の中を探ってみます。秋は本部に現状を報告して、念のために応援の要請を。……彼のそばにいてあげてください」
そう言って教会の奥に進もうとする桐子の背に、秋は投げかけた。
「気ィつけろよ」
「お互い様です」
頼もしく太い笑みを向けて、桐子は教壇の左右にあるはずの部屋を探るべく、まずは左に消えていった。
その間に秋は携帯端末で教会本部に連絡を取り、桐子に言われた通りに現状報告と、応援の要請を済ませた。
少年の怪我の具合を見ていないのでわからないが、救護班も頼んでおく。
「ん、う……」
連絡を済ませて携帯端末を制服のスラックスに滑り込ませようとしたところで、小さな呻き声が確かに聴こえた。
見ると気絶していたはずの少年がゆっくり身動いでいて、目も薄く開かれている。
「気がついたか?あんま動くなよ、怪我に響く……か、ら……」
秋は安堵の息をついてから、少年の怪我の具合を診ようと触れる。
しかし。
べったりと少年のシャツにこびりついた血。
鮮血ではなく、乾いて黒ずんでいる。
少年の体のどこにも傷口などなく、血は少年のものではないことに秋は遅まきながら気づいた。
その瞬間、少年はその細い腕のどこに秘めていたのかわからない剛拳を、秋の腹に向けて繰り出した。
秋の体はその衝撃で吹き飛ばされ、教壇に背中を打ちつける。
教壇は秋の体重を受けて、軋んで後退。
「はっはぁ、バカ神父っ!騙されてやんの!」
その声は少年特有の高さと無邪気さがありながら、まさに悪魔のようにたっぷりの邪気を孕んでいる。
「っく……!お前……っ⁉︎」
打ち付けられた腹と背中の痛みに呻きながらも、秋は少年の姿を目に入れる。
咄嗟のことに対応できず、受け身すらとれなかった自分の未熟さを痛感。
少年はその幼い顔に嗜虐的な笑みをこぼして、秋の無様さを嗤う。
「やっぱ子供の姿はいいな、こーゆーバカに有効だ」
「お前が悪魔だったのか……っ!」
「ふふっ。残念だったね、おにーちゃん!あっちのおねーちゃんは、大丈夫かなぁ?」
秋が苦しそうに立ち上がるのを余裕じみた態度で眺めながら、少年は桐子が消えた教壇の左手に意味ありげな視線を向ける。
「⁉︎……どういう意味だ」
嫌な予感が秋の脳裏に疾り、背筋も電撃を受けたみたいに震える。
「悪魔が単独、とは限らないってことだよ!ばぁぁぁぁか!!!!」
少年の体は教会の床を蹴り、疾風のごとく秋に突進した。
今度こそはと、秋はそれを両腕で受け止める。
「っ……!桐子!」
「行かせないよ、おにーちゃん」
少年の体は当然ながら秋よりも軽いはずなのに、攻撃はとても重い。
とてもじゃないが、振り切って桐子を追いかけることは叶いそうになかった。
「っ上等じゃん!これでも子守は慣れてんだぜ!」
これでも日々、放課後に特別な戦闘訓練を受けてきたし、桐子との任務でちょっとは戦闘慣れしてきたと、自覚している。
まだひとりでは不安が残るものの、そんな悠長な弱気は吐いていられない現状をまず受け止めるべきだ。
《ロザリオ》は手元になく、肝心の桐子とも離れてしまった。
彼のこころを巣食う悪魔を祓うには、どちらにしろ桐子と合流するしかない。
だったら秋に残された選択肢は、この少年に取り憑いた悪魔ごと昏倒させて、早いうちに桐子を追う。
少年の身体能力が悪魔に取り憑かれたことでリミットオーバーしており、もはや常人のそれではない。
加えて秋の身体能力と戦闘能力の低さを鑑みるに、作戦の遂行はなかなかに難易度が高いだろう。
だが。
————なにがなんでも、やってやる‼︎
伊達に毎日、桐子に厳しくしごかれちゃいない。
先手必勝とばかりに、秋は少年の小さな懐に景気よく突っ込んだ。鳩尾狙いで気絶させるためだ。
だが相手は秋の思考を見事に読み当てたようで、狙いすました完璧なタイミングで後退する。
しかし秋はそれでも追撃を止めることなく特攻。
多少のぎこちなさを残しつつ、少年の横腹に思い切った蹴りをお見舞いした。桐子もお墨付きの、強力な一撃だ。
決まった!
と思ったら、蹴りは少年の細腕で見事にガードされており、そのままたおやかな風のようにいなされる。
追撃を防ぐために距離を取り、荒らぐ呼気を整えながら次の一手を考えた。
桐子に教授を受けた体術は足技が主体となっている、青柳家に古くから脈々と伝わる独自のもの。
ときにはしなる鞭のように、ときには最強の刀のように。
自由自在、天衣無縫に脚を運んで、敵を追い詰める。足技では最強の部類に入る術だ。
この武術を習得するにあたって、まず徹底的にやらされたのは『股関節のストレッチと強化』。
普通の足技では足首を重きに置かれることがしばしばだが、『青柳流柔術』においてはまずすべて股関節から始まる。
それが脚を鞭のように使いこなすための極意であり、うんぬんかんぬんと授業しょっぱなに説明を受けたものの、秋の脳はよく消える消しゴムみたいに見事に消してくれた。
少年はその小さな拳を繰り出し、秋は脚でそれを待ち受ける。
少年の体と秋の体のリーチを鑑みれば、当たらない方が不思議だと、まるで桐子の声が聴こえるようだ。
しかしなかなか当たらない理由も、やはり相手の体の小ささからだろう。
小回りが利くから、大ぶりになりがちな足技では避けられる。
ほとんど無傷で昏倒させるには、やはり懐に手をかけねばならない。
しかしそれを、敵が簡単に許すはずがない。
「おにーちゃん、さっきから僕に怪我させないように、やさしーく気遣ってくれてるみたいだけど」
少年の拳と、秋の脚が交錯する。
弾かれたのは秋の体。
しかし今度こそ、うまく受け身をとれたので、痛みもなく荒れた床に着地した。
「もしかして、僕に勝てるとか思っちゃってる?」
くすりと歪んだ微笑みを見せる少年の表情は、年頃らしからぬ邪気を多分に含んでいる。
荒れた呼気を整えながら、秋ははっきりと答えた。
「……悪魔を祓ってやろうと、救ってやろうと思ってる」
「『救う』?僕を?」
少年は眉を大きくひそめて、大馬鹿者を見る呆れた目で秋を眺める。
それから余裕綽々で身をよじらせて笑い出した。
「きゃはははははははは!角砂糖みたいにくっっっっそ甘くて、面白い神父だね!」
相手の余裕ぶりを利用して、秋は再びの特攻を決めこんで右脚に思い切り力を込めた。
雷鳥のごとく疾駆し、その幼い腹に一撃を当てんと————
「僕はおにーちゃんのあかいあかい心臓、見てみたいなぁ」
「⁉︎」
少年の恍惚じみた声とともに、ぐるりと世界は反転した。
気がついたら少年に組み敷かれて、床に突っ伏している状況だ。
「だって神父さまって、心臓を神さまに捧げて悪魔を祓うんでしょ?だったらその心臓……すごーく綺麗なんだよね?」
少年の髪が天井のステンドグラスから射し込む陽光を受けて、きらきらと柔らかい金色に輝いている。
その姿と幼さの残る微笑みは天使みたいで、だけど言葉の端々に、悪魔が持つ残酷性が拭いきれない。
秋の胸を甘いケーキでも眺めて羨ましがるみたいに、粘っこく撫でつけ始めた。
「見てみたいなぁ。おにーちゃんの……きれーな心臓」
少年の体重は明らかに軽いはずなのに、秋はなかなか振り切れずにいる。
それどころか腕を締め付けられ、がっちりと拘束されていた。
「あいにく、見せモンじゃねーんだよな」
焦りを見せず、全身を使ってどうにか拘束を解こうとするも、少年は淀みない涼しい顔。
秋の答えにコミカルっぽくプンプン!と頬を膨らませた。
「えぇー⁉︎おにーちゃんのけちんぼー!だったら……っ」
まだ柔らかい爪を立てた幼い手が、秋の胸を思い切り抉る。
「っっ‼︎」
「なにがなんでも見せてもらうもんっ!」
ぐりぐりと皮膚を抉り、肉を掻き込んで心臓を見ようと意気込む少年。
そこにある残虐性は、幼い好奇心から生まれた純然たる思いから来ていると、予測が立てられるその表情。
果たしてそれは悪魔のものか、それとも少年生来のものなのか。
「……どうして、そんなに見たいんだ……っ?」
秋の問いに、少年は肉を抉る手を止めてきょとんと、目を丸くさせた。
痛みに顔を歪めながらも、しかし秋は少年の『気持ち』を信じてみたいと、彼の声に耳を傾ける。
しばらくして少年は、ぽつりと悲しそうに漏らした。
「……僕が、『悪魔』だから」
「どういうことだ?」
努めて穏やかに問いかける秋の声に、ほんのり安心したのだろう。
少年はそっと秋の手を取り、自らの股ぐらに当てる。
そこに当然あると思っていたものは、なかった。
少年はこれまで密かに負ってきたであろうその気持ちを、たどたどしく吐露し始めた。
「悪魔は『ふじょう』なものだって……ひとはいうでしょ?」
「!」
少年も信じたくなかった。
自分の心と体が、一致しないこと。
だけど大人はみんな口を揃えて言うから、信じるふりをして生きてきた。
『悪魔』は不浄の存在。身も心も穢れている。こんな僕も、穢れている。
だからこころなんてないんだ。
生きていちゃいけないんだ。
「そんなことない」
秋のはっきりとした声に、俯いていた少年の顔がはっと持ち上がる。
「悪魔にもちゃんとこころがあるんだって、俺は思うよ」
彼らに感情があることは、秋は戦ってきてよくわかっているつもりだ。
喜びも悲しみも、怒りも苦しみも。
感情、気持ち、こころだけで生死を定められるのだとしたら。
彼ら悪魔だって、ないがしろにしていい、死んでいい存在じゃないといえるはず。
男じゃないから、女じゃないから。
だから『こころを持たない』なんてことは、絶対にありえない。
『苛まれたこころを救うこと』が、修道士の使命なんだとしたら。
そこにヒトだ悪魔だと、差別していいのだろうか。
————本物の、『ヒーロー』なら……。
「だから俺は……悪魔を救いたい」
藤の淋しそうな姿と、桐子の悲しそうな顔が過ぎった。
誰かを救えるヒーローになりたいと、願った自分のこころに嘘はない。
その『誰か』がヒトであるか否かなんて、瑣末な問題だ。
秋の混じり気のない真摯な瞳に、少年は……悪魔は嬉しそうに、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう」
彼の微笑みひとつで、自分の選択は間違っていないと確信できた。
それだけで、秋はこれからも真っ直ぐに戦っていけると強く誓える。
「……っあっ……、つー……」
今更になって、抉られた胸の痛みが強く出てきて、誤魔化すように唸り声をあげた。
「ご……ごめん、ね?」
などと先ほどの荒々しい態度はどこへやら。
ようやっと自然な子供らしさが見えて、秋もつい可愛いと思ってしまった。
秋の怪我の具合を不安そうに見つめる少年の頭を、秋はいつかのルカみたいに力強く撫でてやる。
「おかしな話だよな。『人間は綺麗な存在』で?『だから悪魔は穢れたもの』?」
彼らにもこんなに豊かな、こころがある。
確かに悪魔がしでかすことに、褒められたものなんてない。
だけど、話し合ってみたらこんなにも、わかり合えるんじゃないか。
俺が憧れた『ヒーロー』ってものは、なんのためにある?
救いを求めるものの手を取るため、だろ?
決してやたらめったらに殺してもいいものなんて、ただ祓えばいいんだなんてこと、なにもありゃしないんだ。
神を信じよ畏れ敬えと、誰かが言い始めてからみんな、狂信者となっているこの世界。
だけど神は誰も救いやしない。
本当に誰かを救うことができるのは、いつだって『絶対無敵のヒーロー』なんだ。
大丈夫?と小さな肩を貸そうとする健気な少年に、秋は心配させまいとして問題ないと答える。
「急がなきゃなんねーんだ。アイツ……俺の相棒と、合流しなきゃ」
きっと彼女はひとりで戦っている。
相棒として、一緒に立ち向かいたい。




