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撓む糸

「主よ。我らの原罪を、どうかお許しください」

この文言も、もうだいぶ慣れたものだ。

教典の第一章序幕の第一文。

禁断の果実を食んだアダムとエヴァは、その身に『原罪げんざい』というくさびを背負った。

赦しを求め、ヒトは神に祈り続ける。

その祈りを神に届けることが、修道士の仕事であり使命だ。

悪魔に取り憑かれて暴れる男は、相棒の桐子が抑え込んでくれている。

秋はこころの声に耳を傾け、その心臓を捧げた《ロザリオ》をもってして、悪魔を祓うのだ。

悪魔がもたらす闇に触れ、魂が深淵を彷徨わないように。————それが《ロザリオ》の本来の意味である。

「悪魔、お前の《真名しんめい》を教えるんだ!」

苦しみに苛まれる悪魔に向けて右手に《ロザリオ》、左手に古びたコンボスキニオンを提げて、厳格に降参を促す。

悪魔はその苦しみから逃れたいと、秋に自らの《真名しんめい》を答えた。

その穢れた心臓を《ロザリオ》で穿ち、在るべき生を守る。

人びとの道しるべとなり、その魂ひとつひとつを救済すること。

それが本当に、自分が思い描いていた『ヒーロー』の姿なのか。

最近、秋にはわからなくなってきた。

桐子と別れてすぐに、秋は通っている第一高校へ向かって原付バイクを走らせる。

今日は早朝から駆り出されたお陰で眠気が強いものの、悪魔祓い自体は早く終わらせられた。

信号待ちをしている間に携帯端末で素早く時刻を確認したが、どうやら朝の出欠確認に間に合いそうだ。

先日起きた相棒の誘拐事件のことがあり、二日ほどせわしくしていてやむなく欠席したので、その遅れを取り戻そう————などと不真面目が取り柄の秋が思うはずもなく。

眠いからサボりたいなー。サボって惰眠して、ゴロゴロ漫画でも読みたいなー、なんて考える始末である。

しかし煩い幼なじみのことだから、無断欠席した暁にはもれなく二時間ほどの説教をしてくださるだろうと、その説教がまたクソ長くて面倒臭いだろうと。

その苦労を想像して苦い顔を浮かべながら、学校の駐輪場にバイクを駐車。

いつもよりも早い時刻に着いたせいか、校舎内は閑散としていた。

「あーどっこいせ、と」

などと親父臭く自分の席に腰を下ろし、携帯端末に誰かから着信がないかチェックして、それから特にすることがない。

最近は毎朝、自分で朝食を用意しないといけないし、そうでなくとも例によって任務で忙しい。

漫画本やら小説やらなどの、暇潰しアイテムを鞄に詰め込むほど余裕がないのが現状だ。

ぼんやりと空でも眺めようと、閉め切ったカーテンと窓を開けた。

季節がゆっくりと梅雨に向かっているせいか、なんとなく空気が湿っぽい。

それでもかろうじて春の爽快感を残していて、教室の埃っぽい空気をひと息で流してくれた。

委員会や日直などの係で早く来た生徒、始業前に済ませる仕事で早出の教師、掃除をするドルチェ。

そんな彼らの織り成す物音が、耳を澄ませば風に乗ってわずかに聴こえる。

とても穏やかな時間。

日常的な風景。

最近の出来事が全部、良くも悪くも夢みたいな気がするほどに。

「今日は来たのね」

ふと背後から声が聴こえて、振り返る。

赤茶色の柔らかそうな髪を風に揺らして、沙也加が立っていた。

「なんだ、沙也加かよ」

「なんだ、とは失礼ね。秋みたいな窓際根暗野郎に話しかけてくれる懐の広ぉぉいヒトなんて、わたし以外にいないでしょ」

そう冗談めかしながら、沙也加は廊下側にある自分の席に荷物を置いた。

沙也加のいつも通りのちょっぴりとした毒舌も、いまでは安らぎの材料になるから不思議なものだ。

自然、秋はくすりと微笑んで受け流した。

「それもそうだ」

「……なんか秋、変わった?」

などと尋ねながら、沙也加は不可思議なものでも見ているみたいな表情で、秋の側までやって来た。

「なにが。別にいつも通りだろ」

髪型を変えたわけでなし、制服はいつもと同じ着こなし、衣替えはまだしていない。

女の子じゃないから化粧なんてしないし、ちょっとおしゃれにオーデトワレ……なんてガラじゃない。

沙也加にも確信があったわけではないらしく、秋を眺めて少し迷ってから答えがあった。

「んー……そうね」

「そういえばこの前スマン。親父さんの腹は無事か?」

話題は変わり、この前の沙也加からの————正確には沙也加の母からのお誘いをドタキャンした話になる。

食事のお誘いを受けて、当然のように行くつもりでいた。しかし相棒が誘拐されたことが発端でバタバタして、沙也加との約束をほっぽり出したのだ。

沙也加から連絡を受けた彼女の母はきっと、秋のために山ほど肉料理を用意していたことだろう。

そして来なかった秋に代わって、処理したのは沙也加の父親のはずだ。

夫妻ふたりに申し訳ないことをしたと、代わりに沙也加に向かって平謝りする。

しかし彼女はすっぽかされたことへの不平不満ではなく、秋に気を遣わせないようにからからと笑った。

「壊すのはいつもだから。セーロガン飲んで布団に丸まってたわよ」

食べ過ぎで腹を痛めた沙也加の父の不幸に、謝罪の意を込めて合掌したいところだ。

「マジでスマン……。今度は行くから」

「無理しなくていいわよ。学校も行けないくらい忙しいみたいだし?」

などとちょっぴり嫌味っぽく言って、秋の反応を楽しむように伺った。

いつもの秋だったら、ここできっとなにか反論して、ちょっと騒いでからかって……といった流れになるはずだったのに。

「いや、行くよ。ひとりメシって、案外と面倒でさ」

そう気楽そうに一笑する秋の表情は、しかしいつもよりずっと冴えないものだった。

重々しい淋しさと悲しみをまるで初めて知り、それに耐えかねるような、そんな切ない表情。

そんな顔をされては、いくら察しが悪かろうと気づいてしまうものだ。

ましてや沙也加はずっと、秋のことを見守ってきたつもりだ。確信も自信も、彼に関してだけは多分にあると自負している。

「ルカさんは?一緒に食べてるんじゃないの?」

だけど彼女は気づかないふりをして、なんでもない会話を演じながら尋ねる。核心をついていく。

彼に察知されてしまえばきっと、気丈に振る舞うだろうから。

「ん……まぁ……最近その、忙しいみたいで」

それでも秋はなにか言葉にしたくないのだろう。

返答は明らかに歯切れ悪く、なにかを都合が悪いことでも誤魔化しているようにも感じられる。

————まったく、しょうがないんだから。

いつまでも子供みたいで、沙也加が面倒を見ないと全然ダメ。

そういうとこは変わらないなぁ、などと幼い頃の記憶が自然に蘇って、ほんの少し微笑ましく思う。

「なぁに、また喧嘩したの?大事にしなきゃダメよ、あんたのお父さんみたいなヒトなんだから」

「『お父さん』、か……」

そう小さく呟いた彼の苦味を混ぜた声は、遠きあの日の郷愁とひと握りの悔恨が含まれている。

しかしどうしたらいいのか、どうしたいのか、どうすべきだったのか。

自分で自分の気持ちがわからない、ルカの気持ちが理解できない。————わかりたいのに、その背中の隣にいたいのに。

そんな曖昧で、しかし人間的な悩みがベースとなっているようだ。

「秋……?」

苦しみの渦に呑み込まれそうな彼に助け舟を送るように、沙也加は彼の名を呼んだ。

すると沙也加の思惑通りに、秋は深い思考から無理矢理に引き剥がされたようだ。

「なんでもない。今日の晩メシ考えてた」

「……もう、食べることばっかなんだから。昔も今も、変わんないね」

ほんの少し安堵の息をついた沙也加だが、秋はまたすぐに考え事に耽り始めたので、今度こそ強烈な不安と心配に苛まれる。

秋はまた、ルカとの喧嘩のやりとりを思い返していた。

————「修道士の任務は、人の生死にも関わることだ。人を死なせてしまうことだって、最悪の場合ありえる」

ルカの言葉はきっと真実だ。

現実に、秋の父親はその現場で死んだし、間接的だが母も死んだ。

『悪魔』とは便宜上に表現しているが、世間から見れば精神病患者とその周辺の生死が関わった社会的な問題だ。

修道士、修道女の仕事は、その患者が暴れて人を殺したり、自殺しないように心のケアをすること。

————「人を殺すことは、修道士がすることじゃない!」

自分の言葉に間違ったことはないと、秋は未だに堅く信じている。

だって修道士は、人の命を救う仕事のはずだ。

たとえば誰かが死にそうな時。

その瀬戸際の命を、この手を引き戻すのが、修道士の役目じゃあないのか。

————「修道士は、お前が思っているほど綺麗な存在じゃない。神様なんかじゃない、ただの人間だ」

わかっている。

修道士はあくまで『迷える子羊の声を神に届ける』役割を与えられた、漫画みたいに特別な力なんてない、ただの人間だ。

わかっていたはずだ。

それでも秋は、自分が信じていた修道士はヒーローなんだって、信じてみたかった。

あの日、秋を救ってくれたルカは、間違いなく『理想のヒーロー』なんだって。

追い続けたかった。

だけど現実は許してくれなくて、痛いくらいにこの身に刻みつけられる、己の無力感と虚無感。

自分が目指していた理想が瓦解するその絶望を、とろける蜜のように艶やかに奏でる夜想曲ノクターン

いつまでも夢なんて見ていちゃダメなのかな?

理想を追い続けることは、ガキがすることなのか。

いつまでも変わらないと信じていた、あの背中は。

追いかけ続けるそのスピードは。

「変わんなきゃ……いけないのかな?」

なにも変わらないものなんて、ありはしない。

目指していたものはきっと、朽ちることも錆びつくこともありはしないと、永遠のものだと。そう思っていた。

この先になにがあろうと『信じたいこと』は頑なだと、そう思って生きてきた。

なんのために、どうして修道士を目指していたのか。

ぴんと真っ直ぐに張っていた糸がたわんで歪んで絡み付いて、こんがらがって、わからなくなってきた。

「秋……」

沙也加にはこんなとき、掛けるべき言葉が浮かばない。

どこにでもありふれた安っぽい言葉で慰めたって、そんなの自己満足に過ぎない。

同じ場所にいて、同じ高さの目線で世界を見て、同じものを見ること。

沙也加には、できないこと。わかりたいのに、わからない。

「秋、任務が入りました」

「⁉︎」

ガサガサと校舎に沿って植えられた背の高いクヌギの木から、風の揺らめきとは違う木の葉が擦れる音がしたと思ったら。

「んな⁉︎と、桐子……お前どうやってここまで……⁉︎」

「厄介なポンコツを撒いて来たに決まっています。まったく、面倒臭い……」

長い蜂蜜色の髪に葉をたくさん絡みつけて、クヌギの太い幹に体を預けて参上したのはまぎれもなく、秋の相棒を務める少女だ。

今日も男性のエロティシズムを擽るような改造を施したシスター服に身を包み、その魅力的な腿や胸を惜しげもなく晒している。

秋はいちいち刺激されるからやめてくれと、一度だけ頼んだことがある。しかしこの方が動きやすいからと、頑として受け入れてくれなかった。

彼女に秋の事情など、知ったこっちゃない。

木から教室の窓枠まで移動しようと足を動かすと、大胆なスリットから白くて瑞々しい太もが丸見えになり、ちょっと角度がよければその奥まで相見あいまみえそうだ。

見たい!という男の本音と、見てはいけないという紳士心に翻弄される秋をよそに、桐子はどうにか校舎の中まで入れたようだ。

ちなみにこの教室は、二度目の東京五輪直前に新設された第二校舎の三階にある。

最上階部分が吹き抜けの構造となっていて、それによって普通の校舎よりも背が高い。

クヌギの木はその三階建ての校舎よりも高く伸び伸びと生い茂り、おいそれと登れるものではないはずだ。

しかし考え直せば、桐子の身体能力は教会の修道女のなかでもトップクラス。

決して不可能ではない芸当なのだろう。

しかしここで、校内にけたたましい警報音と放送が流れた。

『警戒警報、警戒警報!侵入者アリ、繰り返す、侵入者アリ』

「おい、お前がやらかしたことで、さらに面倒臭いことになってきたぞ」

冷や汗よりもため息が出てきたのは、桐子の無茶無鉄砲に早くも慣れてしまった証拠かもしれない。

先ほど桐子がしれっと『撒いてきた』と言っていたが、また警備用ドルチェとひと悶着やらかしてきたのだろう。

破壊してきたという報告がないだけ、前回よりはマシなのだろうか。

「それより任務ですよ、ちゃっちゃとバイク出してください。ハイヤー!」

「誰がハイヤーだ!」

などともはや恒例となった軽口を叩き合いながら、秋は机に載せた荷物を持って、桐子と連れ立って教室を出ようとする。

その秋の背中めがけて、沙也加の慌てた声が投げられた。

「ちょ、ちょっと秋!出欠確認まだじゃない!どーすんのよ⁉︎」

「悪い沙也加、担任には言っといてくれ!」

「もうっ……留年しても知らないんだからね!」

沙也加の最後の言葉は、たぶん秋には聴こえていなかっただろう。

ばたばたと慌ただしく廊下を走る、ふたりの足音。

いまだ物々しい放送が鳴り止まない校舎に取り残された沙也加は、淋しそうにぽつりと漏らした。

「……キレーなヒト、だったな」

白磁の肌、蜂蜜色の長い髪。

唇は熟したさくらんぼみたいに潤んでいて、頬も薄紅がさしている。睫毛も長くて、メイクなんてしなくても完璧に映える顔だ。

切れ長の瞳は、透き通って青く見える灰色。

背は低いがスタイルは抜群で、男の子の理想が詰まった美人ってこれかと、感じざるを得ない。

『ライバル』なんかじゃない。

『強敵』どころじゃない。

勝負にすらならないじゃないかと、認めて、諦めるしかない。

だって。

あんなにも生き生きとした秋の顔は、本当に久しぶりに見れたのだ。

嬉しいはずなのに、どうしてあの表情かおを引き出せたのがわたしじゃないのかと。

悔しくて、憎たらしかった。


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