触れた体温で、君を感じる。
「やはりダメですね。そう簡単にはいきませんか」
最初からあまり期待していなかった。
ほんの少しの落胆に、浅めのため息をこぼす。
素手で格子を破壊できないか試みて、何百回と殴り続けたが、こちらの手が先に壊れそうだ。鉄を殴った手は内出血だらけで紫色というより、黒っぽく見える。
不自然すぎるほどなにもないこのガレージに閉じ込められて、すでに桐子のなかで時間感覚が狂っているかもしれない。
陽の光で朝と夕の判別はできるが、囚われてから今日で何日目を迎えたのかは、だんだんとわからなくなってきた。
くう、と可愛らしい控えめの音で、空腹を訴える。
「……お腹、すきました」
なにか薬の類が仕込まれていないか危惧して、これまで出された食事はなにも手をつけなかった。
水にすら疑いをかけて飲んでいないものだから、喉もからからだ。
窓の外を覗けば、爽やかに空が晴れている。
目映い陽光を浴びながら、静かに瞼を閉じた。
このまま私は、ここで死ぬのだろうか。
————まぁ、別にいいか……。
私の帰りを待つひとなんていない。
誰も————
そのとき。
ばたばたと騒がしい、慌てたような足音が聴こえた。印象で藤のものとは思えない。
「⁉︎」
閉じていた瞼を開き、格子の隙間から外を窺うと、見覚えのある第一高校の黒い制服を着た少年が庭園を走り抜けようとしていた。
「黒澤秋⁉︎」
思わず呼び止めると、秋はわずかに聴こえた声の方角を懸命に探し出した。
ガレージからだということはすぐに認めたらしく、ガレージのどこの窓から聴こえたのかを探そうとしている。
桐子が鉄格子の隙間から腕を出して合図を送り、ようやっとふたりは再会を果たした。
「お前、やっぱここにいたのか!よかった……いま、どうにか出してやるから」
どことなく気分が優れない顔をしながらも、秋は桐子を見つけた喜びを示す。
最初にここへ来たときから、秋はガレージのことが気になっていた。
人を隠すのに絶好の場所はここ以外に見当たらなかったし、屋敷の中には人の気配がなかったからだ。
鉄格子をどうにか壊せないものかと、とりあえず手を掛け始める、その間際に。
「……いい、です」
桐子の小さくて弱々しい返答に、秋は怪訝な表情で一瞬だけ格子を握る手を緩めた。
しかし早いところ桐子を連れてここを出ないと、いつ藤が追ってくるかわからない。
再び格子を握り、どの程度の頑丈さなのか確かめる。腕で揺らせば壊れるものか、体重を掛ければ兆しは見えるのか。
「はぁ?なにアホ抜かしてんだよ!こちとらオメーが行方不明だっつーから、わざわざ探しに来て」
「いいんです」
秋の言葉を遮るほど頑なな返事に、鉄格子を揺らしていた腕が今度こそ止まった。
「…………」
「私……考えてみたら、居場所なんてどこにもない」
実家では厄介者、教会でも腫れ物扱い。
『青柳』の家名があったからこそ、修道女としていさせてもらっただけで、自分自身にはなにもない。
————「お前が『青柳桐子』だからじゃない、『黒澤秋のパートナー』だから、だ」
兄の言う通りだ。『青柳桐子』個人になど、欠片も価値がないんだ。
父も母も、兄じゃなくて私が狂って消えればいいと思っているんだ。
生きるだけで罪にされる私は、疎まれるこそあれど、歓迎はされない。
きっと私がいなくなっても、世界は何事もなく平然と廻る。
私が消えてしまっても、淋しがってくれるひとなんていない。
放っておけばいつか自然と消える運命と命は、しかし惜しまれることはなく必要とされないのだ。
神さまの存在を信じたことなんてない。でも。
本当にいてくれたらいいのに、とは思った。
だって無条件で愛してくれるひとであれば、誰でもよかったの。
私が欲しいものをくれるひと、誰でもいいから『私』を見てください。
「生きること」を赦されるそのときを、罪人の私はただ立ち止まって待っている。
無い物ねだりの《ロザリオ》に、心臓を捧げて祈り続ける無為な日々。
どうか、どうか。
そのサインに気づいてくれますように。
「お前……自分が女だから必要ないって、言ったよな?」
桐子の声は無視して、秋は再び鉄格子に手を掛け、破壊しようと転がっていた石を握る。
秋が初めて彼女自身の想いを聴いたときに、桐子は確かにそう言ったかもしれない。
自分が女だったばっかりに、両親は親戚から罵られた。
桐子よりも兄を優先し、大切にする両親は、桐子の存在をないものとして過ごしていた。
兄が出奔してからそれらはますます強まりを見せ、だから居場所を求めて独りで暮らすことを決めた。
でもどこを探しても居場所はなくて、淋しさは募るばかり。
だけどインターネットの世界だったら。
顔も本名も知らない誰かは、『青柳桐子』を認めてくれた。
桐子がインターネットと動画配信にのめり込むのに、それ以外の理由はない。
きっと誰かと関わりたかったのだろう。
誰かに関心を持ってもらいたかったのだろう。
「女だから、修道女がいるから、俺は戦えるんだよ」
腕の力では壊せないと諦めて、秋は格子に思い切り体重をぶつける。
鉄の格子に当たる肩が遠慮なしに痛いけれど、それでもここで諦めようとは思わない。
諦めたところできっと、後悔するはずだから。
桐子が張っていた硝子を破るつもりで、全力をもって体当たり。
彼女と本気でぶつからなかった自分のことを、嫌いになってしまわないように。
「必要ないなんて言うな。俺のパートナーは……っ」
体当たりを始めて十回以上。ついに鉄格子は隙間を見せた。
そこからはたぶん、『火事場の馬鹿力』というものが働いたのか。
できた隙間をこじ開けて、格子は破られた。
窓の向こう、もう硝子もないそこにいる相棒。
彼女ならきっと、超えられるだろうと信じているから。
手を差し出そうとはしない。
いつだってここで待っているから。
「……俺のパートナーは、お前だけなんだよ————『桐子』」
「……っ!」
どうしてか。
こんなに嬉しくて、泣きたくて。いますぐその胸に飛び込みたい衝動に駆られる。
秋に名を呼ばれたのは、これが初めてのことだった。
いつも『お前』で不満だったのは、きっと彼だから。
他の誰かなんて、どうでもいいんです。
「私……」
私はいつも、誰かに名前を呼んで欲しかった。
硝子の向こうをそっと窺うのは、『誰か』に割ってもらいたいから。
割って、一歩だけ踏み込んで。
悪魔の《真名》を言い当てるみたいに、鋭くも優しい瞳で。早く私の名を呼んで。
この心臓を射止めてください。
「私も、あなたがパートナーでなくちゃ……ダメみたいです、『秋』」
硝子も格子もなくなった窓の向こうに、桐子は降り立った。
踏みしめた土の感触が久しぶりで、柔らかく撫でる風は気持ちいい。
こんなにも泣きたいのは、どうしてなのか。
こんなにも嬉しいのは、なぜなのか。
この景色が懐かしいと感じるのは、どうしてだろう。
世界が美しいと初めて思えたのは、どうしてだろうか。
————あなたが破ってくれた硝子の向こうは、綺麗で澄んだ夕焼けの空でした。
「抱きしめてください」
不意に桐子から頼まれた想定外のことに、秋は激しく狼狽した。
「は、はぁ⁉︎なんで?」
「いいから!余計なことはつべこべ言わず、私を抱きしめてください!」
と、言われましても……と躊躇う。
別に桐子が嫌とかではなく、沙也加以外の女子に触れたことなど、生まれてこのかた一度たりともないことだ。
その沙也加とも、最近はほとんどスキンシップなどという行為はない。
思春期の男子としては、この由々しき事態をどう乗り越えるべきか、ゆっくりと逡巡したいところだが。
桐子の真っ直ぐな瞳が、『早よせいやボケっとすんなタマ抜かれたいのか』とヤーさんみたいな鋭い光で訴えている。
「こ……こう?」
ぎこちなく抱きしめると、柔らかくて温かい感触が秋の各所を刺激した。
石鹸なのかシャンプーなのかわからないが、花のような甘い香りが鼻をくすぐる。
彼女がとても小柄だからか、体格がいいとはいえない秋の体にもすっぽりと収まった。
「……あったかい」
秋の胸に埋もれながら、桐子はようやく安堵が混じった声を漏らした。
秋も、久しぶりにひとの温もりを感じて、思春期のドギマギよりも安心が勝ったらしい。
「うん……あったかい」
気がついたらどちらともなく抱き合っていたのは、どうしてなのか。
こんなにも溢れそうな想いの、行き先はどこなのか。
芽生えたのはたぶん、パートナーの絆だけじゃない。
禁断の赤い果実が、ふわりと香る。蛇に唆された、そんな予感がした。




