声
その当時は確かに秋は単純に年齢が幼く、いっときは学校に通っていなかったこともあって、ものを知らなかった。
父の仕事がどんなものか把握していなかったし、どうしてあんなにも追い込まれたのかわからなかった。
しかし現在は十六歳、高校二年生で新人だが修道士だ。
仕事柄である程度の情報は入るし、なんとなく、こういうことだったとか、こうじゃないかとか。
想像ができる環境に置かれているのは事実。だが。
藤は床にばら撒かれたままの資料の、その一枚を手に取る。
「君のご両親は幹部として〈レザークラフト〉の潤沢な支援を受けていながら、ある日突然に破産した。僕が思うにそれが発端で、彼らは悪魔に取り憑かれたのだろうね。だが」
秋が〈レザークラフト〉の存在を知ったのは、つい先日のことだ。
それもおかしな話だと、いまなら疑問に思える。
不勉強だという自覚はある。
それでも教会にとって最大の敵の存在そのものを知らないのは、ちょっとばかり出来過ぎではないか。
試験勉強はルカに見てもらった。叙任試験にも〈レザークラフト〉の話題は欠片も出なかった。試験官は、幸か不幸かルカだった。
どうしてこんなにも、『なんにも知らない』のか。否。
藤の言葉ひとつひとつが言霊みたいに、秋のこころを掻き回してさざ波を立てる。
「あの日、教会はどうして真っ先に君の家に駆けつけることができた?手際が良すぎやしないかい?」
————『俺にだけなにも知らされなかった』のだとしたら?
不安が、疑念がよぎり、膨らんでいく。さざ波は少しずつ大きくなり、やがて津波となって押し寄せる。
あの日のことが、秋のなかで再び鮮明化されて再生された。
阿鼻叫喚の黒澤家、そのリビングルーム。
荒れ放題の部屋で互いに傷つけあい、殺しあう、狂った両親。
駆けつけて来たルカは、やはり秋にとってヒーローだった。
そのはずなのに。
両親の奇声はいつも通りで、近所の人たちは誰も通報なんてしないで諦めていたはずだ。
だからこの家の惨状を知る者は誰もいないし、だから助けなんて来ないんだと、秋自身も覚悟していた。
なのになぜ、ルカたちは黒澤家を目指して来た?
黒澤家の内情をすべて把握し、事後処理もすべて手際よく用意できたのは。
秋の深まる疑念、そして悪い予感は、むくむくと煙のように広がっていくばかり。
藤の言葉は、まるで揺れる秋のこころを見透かしているかのように的確に詰めていく。
「果たしてただの資産家に、教会が目をつけるかな?」
「っそ……」
「『ルカ・アスカリ中級司祭』」
必死に抵抗しようとした反論の言葉は、しかし秋がもっとも信頼を寄せていた人物の名が出てきたことで、止められた。
「彼は本当になにも知らなくて、あえて君を保護したのかな……?」
「……⁉︎」
とどめの一言、というのだろうか。
秋がずっと無理矢理に避けていたその疑惑を、藤は無遠慮にも突き刺した。
桐子だけに飽き足らず、秋の絶望した顔も面白いと思ったのか。
「裏の顔がない人間なんて、絶対にいないものだよ」
くすりと嗤う藤の言葉は、確かに的を射ているものだとも、秋の冷静な部分がはっきりと頷いている。
だけど。
ルカのことを信じたい。
こんなの全部勝手な憶測だって、悪い冗談だなって笑い飛ばしてくれ。
ルカのちょっとくしゃっとした微笑み、その分厚い手のひらの感触、煙草の匂い。
全部が嘘じゃないはずだと。
「っお前の言葉なんて……信じないっ‼︎」
濃厚に漂う不安、灰色の空気に堪りかねて部屋を飛び出した秋を、しかし藤は追いかけやしない。
ただ黙って見送って、くすりと悪魔の嗜虐的な微笑みの色。
「禁断の果実を喰らうのは————果たしてエヴァか……アダムか」
ズキン、と。
「……⁉︎」
胸が頭が、急に痛みを訴えたことで、藤の体が揺れた。
不意に痛むこれは、なんだ?
感情が二つに割れる、不可思議な感覚が広がる。
もうひとりの自分がいて、子供みたいに陳腐な悲しみを叫んでいるみたいだ。
————助けて。
誰でもいいと、願うこころと裏腹に。
『君に振り向いて欲しかった』と想う気持ち。
『君の憧れた僕でいたかった』という後悔。
決して届かない、輝く君には理解できないであろう、仄暗くて痛みを伴うその祈り。
「……『僕』を、見てくれ」
漏れ出た掠れ声は、彼の本来の『声』だった。




