目を逸らすな、抗え。
「あいつと連絡が取れない?」
放課後を待たずして、秋は教会の本部に呼び出された。
ルカがいるはずの『指導室』に向かうのは、とても気が重かった。しかし無視すれば余計に行きづらくなると、自分に言い聞かせて半ば無理矢理にここまで来たのだ。
そしていま、ルカの補佐役であるシスターカナコから説明を受けている。
ルカはこちらに背を向けて、ただ黙って窓とにらめっこしていた。
「シスタートウコの携帯端末に埋められたGPS反応も、一昨日から途絶えました。自宅アパートを訪ねたものの応答はなく、管理人の了解を得て中を窺ったところ、数日間は帰宅していない様子だったそうです」
秋も言われて自分の端末で電話してみたものの、『電波の届かないところにいるか、電源を切っているので』というお決まりの電子アナウンス。
「どーせゲーセンに入り浸ってんだろ?」
終話ボタンをタップしてスラックスのポケットに突っ込みながら、秋はやれやれと相棒の自分勝手さにため息と肩を竦めた。
桐子と連絡がつかないのはいつものことだし、ゲームセンターに入り浸ってたなんて結果も、いつものことである。
しかし。
シスターカナコはいつも以上に深刻な表情で、秋の安易な想像を真っ向から否定する。
いつも冷静な彼女の、殊更に慎重さを帯びた低めの声音で、事態の大きさをようやっと呑み込めた。
「いえ、そのような目撃証言はないとの報告が————いかがなさいますか、アスカリ中級司祭」
しかしそのような緊迫したやり取りのなかにあって、ルカの背中はぴくりとも身じろぐことはなかった。いつもだったら口に咥えているはずの煙草も、今日はどうしてか一本も手をつけていないようだ。
いつもなら見えるはずの顔が、秋には見えない。
ルカがいま、なにを思い考えているのか、なにもわからない。
それが、たったそれだけのことが、秋の不安と不満を生んだ。
秋の隣に立っているシスターカナコも、寡黙を保ってるもののほのかに不信感を抱いている様子だ。
やがてルカは変わらず秋たちに背中を向けたまま、秋に向けて淡々とした硬質の声で事務的な指示を送る。
「……黒澤秋下級輔祭、お前に一任しよう」
「!」
「それは彼女を捜し回るも、放置するも自由、という意味でしょうか」
秋に代わってシスターカナコがやや厳しく問い詰めると、ルカはやはり岩みたいに背を向けたまま、硬い声で答えた。
「————そうだ」
そんないつもらしくない非情な彼の一言に、シスターカナコも堪りかねて抗議の声を上げようとした。
「お言葉ですが中級司祭、」
「そんなの納得できない!なんであいつを見捨てるみたいなこと言うんだよ⁉︎」
しかし彼女よりも先に、秋がルカを怒鳴りつけた。
彼はいまにも飛びかかりそうなほど前のめりになって、いつになく真剣に怒っている。
秋の強い怒りを感じ取ったからか、これまで背を向けていたルカがこちらに振り向いた。
しかしその表情はいまの声音と同じように硬く、いつもの人好きのする柔らかさは感じられない。
『私情を挟まない冷徹な司令官』といったところか。
「これは未確認の情報だが、彼女の失踪には《青金の人形遣い(ドール・プレスティジャトーレ)》……青柳藤が一枚噛んでいるようだ」
と言って秋に差し出したのは、一枚の写真だ。
どこかの監視カメラから無理矢理に引き出したのか。解像度が荒く、ところどころがモザイクみたいな模様になっている。
ボロボロのビルが乱立している『闇市』、その街中の一角を撮影したようだ。
一見して、いつも通りのちょっとアウトローな雰囲気は変わりない。
しかしその右端に、明らかな異変があった。
そこには改造された修道服を身に纏う小柄な女性が写っている。髪の色からして桐子だ。
彼女らしき女性は四肢に力なく、スーツ姿の男に抱えられている。男は細くて筋肉などなさそうに見えるが、桐子を両腕で軽々と抱えていた。
男の髪の色は、桐子の髪と同じ色だ。
桐子が語った過去の話が自然と思い返され、秋は歯を軋ませる。
「っ!あいつの、兄貴……」
秋の猛る感情に一切沿うことなく、ルカは組織の一員としての非情な宣告を下した。
「いまの教会……シスタートウコが戦力として抜けた現状では、残念ながら決定打に欠けると、上の判断だ」
「どうして……っ⁉︎」
秋の問いかけに、ルカはほんの少し言葉を溜め込んだ。
しかしやがて、秋の気迫に押し負けたかのように、ため息ひとつの後に答える。
おそらく彼は、このことにもう気づいているかもしれない。否、いずれわかることだ。コイツはこういうところでは、バカじゃない。
ルカは心中で、自身にそう言い聞かせる。
「……青柳藤が悪魔に取り憑かれているとしたら、その殻を破れるのはもっとも近しい存在だった、妹の桐子しかいない」
「‼︎」
桐子の過去を聴かされていなければ、きっと気づかなかった可能性に、秋は息を呑んだ。
悪魔に取り憑かれた人は、精神病の罹患者。
それは一般人にも周知の事実である。
藤が罹患者であるのなら、その心を解くためのトリガーは、きっと大切にしていた桐子のはずだ。
使用人も両親も傷つけた彼が、たったひとり彼女に手を出すことができなかった。傷つけたくなかった、としたら。
「だったら尚更、あいつを助けに行かなきゃいけないだろ⁉︎」
桐子を見捨てるということは、彼を救える可能性をひとつ潰すことに等しい。
その可能性を捨ててはいけない。修道士が誰かを救うことを諦めてはいけない。
ルカが教えてくれたことだ。
藤も、桐子も。————どちらも救うために。
しかし。
「悪魔が祓えたとしても、青柳藤はいまや申し開きのない殺人鬼だ。断罪を受けてもらわなければならない」
「それが……『殺す』ってことかよ⁉︎」
先日のルカとの言い合いが、秋のなかにまざまざと甦る。
彼らの間に生まれた溝が、少しずつ少しずつ、浸食していく。
「仕方がないだろう、それしか赦しはないんだ」
「『生きて償う』ことは、間違ってるのか?」
「……!」
秋の一言に、ルカだけではなくシスターカナコでさえ言葉を失った。
ルカとの言い合いのあと、秋なりに一生懸命に真剣に、ずっと考えていた。
こんな世の中だから、つらいことから逃げたいと、『死』を選ぶ人は多い。
自分を殺す、憎い相手を殺す。
傷つけたい、痛みを感じたい。すべてを消し去りたい。
————本当に『それ』で合ってるのかな?
確かに『死』というものの概念の中には「残酷性」と、「虚無」がある。
教会の教えでは、『死』というものは穢れたもの。
それは地上に送られたヒトが原罪として、神より『死』を与えられたことに始まる。
教えを守る者には神より死後の復活を約束している、というのも、ゾンビとしてではない。あくまで「生者」であることが前提だ。
宗教的な概念であっても、『死』そのものは恐怖の対象としている。
では現実的な話をしよう。
死ぬことは痛みやつらさを伴うもので、通常であれば誰もが体験したくないと考えるはずだ。痛覚というものは、人類の進化の過程で生み出したもっとも優秀な「生命の危険信号」なのだ。
その『死』が恐怖に感じる根源は、いったいどこにあるのだろう。
単純に痛いから、だけじゃない。すべてを失うから、だと秋は考えに行き着いた。
これまで生きてきたその証を、『自分の印』を消してしまう。
秋は自分が『黒澤秋』でなくなる、自分が作り上げたものがすべて消える。その未来を想像して身が竦んだ。
黙っていてもいずれは『死』の時が来るのだと、わかっていたつもりだ。
交通事故かもしれない。病気かも。誰かに殺されることだって、絶対に可能性ゼロじゃない。
あるいは両親みたいに死ぬかもしれない。
両親と暮らしていた立派な一戸建ての家は、一家の事件があってから更地になって売り出されたと聴いている。
母と暮らしていたときの物は、今ではなにも残っていない。
エネルギー問題を抱えた昨今では土葬が主流だが、唯一残った家族が幼い秋だったものだから、処理は教会に任せてしまった。
黒澤家は辿れば江戸時代以前から続く家系だが、親戚から疎まれた両親に、入ることが許された墓地はない。
彼らの肉体は、一人息子の秋があずかり知らぬ場所に、教会の手で葬られた。
いまでは彼らが生きていたことを知る術は、なにもない。
両親が生きていた証なんて、こんなにも簡単に消されてしまう。————きっと秋が死んだときも、同じようになにも残らないだろう。
だから『死』というものを、ヒトは恐怖する。
だからこそ『死』はもっとも惨いものであると、殺人は許されないのだ。
死罪とはその命をもって罪を償うこと、と考えられている。
だが、と立ち止まろう。
「死ぬことですべてが解決できる、罪が償われるなんて極論みたいな道理。俺は認めない!」
本当に、命で清算できるものなんて、存在するのか。
命というものは、そんなにも簡単に代替できるものなのか。
生きてなにかを成し遂げること、なにかできることがあるはずなんじゃないか。
「いま」が苦しいから死ぬと、自殺して失敗して生きてみて、よかったことだってあるはずだ。
死罪が決まったどうしようもない犯罪者にだって、きっとなにか出来ることがある。
死ぬということは、それらの可能性すら消してしまうということ。だから。
「生きて償うことで、解決することの方が多いんだって……俺は信じたい」
ルカに救われる前は、秋だって死にたいと思ったことくらいある。
こんな地獄で生きるくらいなら。
————でも。
生かされて、生きてみたら。
馬鹿でガキな俺にも出来ることがあるんだと、信じていたくなった。
だから、『死』を与える者ではなく、『生』を守る修道士になりたいと。
俺が憧れた『絶対無敵のヒーロー』になりたい、と。
ルカがいてくれたから、思えたことなのに。
「っ秋くん⁉︎待ちなさい、どこに行くの!」
「放っておけ」
指導室から乱暴に飛び出していった秋を、ルカは少しも引き止めようとしなかった。
ただ黙って、俯いて。
もう我慢ならないと、シスターカナコはルカに不満を爆発させて訴える。
「っ!ルカ、あなたもいつまで意地っ張る気なのです?あなたはいま、秋くんの保護者なんだから」
「これは『黒澤秋下級輔祭』の問題だ。あいつがひとりの修道士としてどう決断を下すか、それは俺が上役として任せたことだ」
こんな捻くれたことを言っているが、要約すれば簡単なこと。
ただ、ひたすらに。
秋のことを、信じている。
秋ならこの詰まった状況の突破口をこじ開けてくれる。手前勝手で他力本願もいいところだが、ルカにはそれしかできない。
人のことを、想うなんて。信じるなんて。
俺には難しくてできなかったことを、秋は簡単にやってのけちまう。
そんなお前だから、神様よりずっと信じられるんだ。
お前は俺のことを『ヒーロー』だと強く信じてくれている。
だからいまは俺もお前のこと、おんなじくらい信じるさ。
いまはそれだけしかできない、そんなちっぽけでロクデナシの俺のこと、いつか許してくれ。
シスターカナコは、浅めのため息を吐いた。呆れとか、諦念ではない。
安心からだ。
「あなた達は本当に……似ているわ。意地っ張りで、不器用で、いつだって真っ直ぐな馬鹿なんだから」
こころの奥の奥は言葉にしない、全部を行動で表す。本当に不器用なひとたち。
でもこんなにも、強く繋がりあっているのだから。
きっと、いつか。いつもと同じ元の日常が戻ってくると、それだけ頑なに信じると決めている。
「うるっせぇぞ、加奈子」
「はいはい。秋くんを見守るって、あの日から決めたんですものね」
いまになってようやく、ルカは煙草の箱に手を伸ばした。
愛用のライターで火を灯してから、やっぱりいつもみたいにライターを手で弄ぶ。
「…………もう見守ることしか、できねぇのかな?」
その声はひどく淋しそうな、突き放されていじけた子供みたいな響きを抱えていた。
自分でも、本当はどうすべきだったかわからない。
もしかしたら、この選択は間違いだったかもしれない。
信じることを教えてくれたルカの『神さま』は、案外と遠くへ行ってしまったのかもしれない。
いつまでも、ずっと近くにいられるんだと疑うことはなかった。
巣立ちの準備を始めた子の『父親』というものは、こんなにも苦しい想いをしなくてはいけないのだろうか。