信じてみたい、それだけです。
この場で秋の名が出たこと自体が疑問だったが、彼の父親と兄がどういう糸で繋がっているのかが桐子には想像がつかない。
秋と桐子は互いの家庭環境などの個人情報については、書類上に記された情報でしか知らない。だから彼の父がどうのと言われても、当然のことかもしれない。
さらに兄が思わせぶりに口にした〈その筋〉とは、どういう意味合いを含んでいるのだろうか。
兄の指摘を真に受けたわけではないが、表情に出さないよう気を引きしめ、それでいて情報を引き出そうと当たり障りのない言葉を模索した。
「……いえ」
余計な情報を与えてはいけないだろう。
それでいて桐子が『本当は怯えて言葉も出ない』などと藤が判断して油断するなら、逃げる隙ができるかもしれない。
「ほう!なんとなんと」
案の定、藤は頓狂な声を上げてあからさまに上機嫌になり、サンドイッチの最後の一切れを丸呑みした。
ごくり、と大袈裟な咽頭の音が聴こえて、藤の伸び上がった喉元が大きく歪む。
「残念だなぁ、悲しいよ。ここまで素晴らしい逸材は、そうそういないというのに」
白い手袋に付着したパン屑を払いながら、藤は妙に芝居掛かった調子で気を落とした素振りを桐子に見せる。
まるで、この先を訊いて欲しい、みたいだ。
「彼の父親がどうだとおっしゃるのです?」
藤が言って欲しい言葉を、悔しいが桐子は言ってやる。
すると藤の整った顔立ちが、まるで哄笑の仮面に覆われたみたいに、不気味でどこか人形じみた表情に変わった。
「ききたいのかい?知りたいのかい?この先は地獄への入口だよ」
「……っ」
ハーメルンの笛吹きみたいに、軽やかで、不気味。それでいて眠りながら強力に惹きつけられる抗いがたいなにかに、桐子は気圧された。
その音色を聴いてはいけない。黒き森に連れていかれてしまうよ。でも。
藤の甘い声音には、昔からそんな蠱惑的な魅力があった。
その効果を知っているのだろうか。
藤は桐子の揺れる内心を見切ったみたいに、ほんのりと満足の微笑みを浮かべる。
「ふふ。そうだね……桐子も知ることで、より状況はよくなる。むしろ好都合ということさ、いいだろう」
大好きな物語をたっぷり語る前準備というべきか。
藤は桐子の食事としてサンドイッチと一緒に持ってきた水を、これから酷使する予定の喉を労わるようにゆっくりと干した。
「黒澤秋の父親……黒澤泰介は悪魔に魂を売った男だ」
「悪魔に……魂?」
コツ、コツ、コツと。
藤が履いている革靴のヒールが、コンクリートの床をリズムよく叩いて無味乾燥に響いている。持ち主の潤んだ声とは、まるで正反対に。
「彼の事業が成功したその裏には、〈レザークラフト〉が関与していた……いや、彼が〈我ら〉に力を貸してくれた、という方が事実かな?」
十二年前のその頃。
〈レザークラフト〉は悪魔の研究を進めていた。
悪魔に対抗するための研究であれば教会が徹底的に研究してきたが、悪魔を呼び起こすための研究は、いまだ非科学的でお遊びのような『まじない』の域を超えない。
しかし〈レザークラフト〉はその悪魔を呼ぶ儀式を、科学化して人類に革命をもたらそうという、壮大な計画を立ち上げていたのだ。
だが彼らは【レザーフェイス】という殺人鬼の狂信者であったにもかかわらず、その頃は実際に人に牙を剥くことをしない。
しかし〈レザークラフト〉が本格的に組織化してから、とうに十年以上の年月が流れていた。
構成員の入れ替わりで、当初の指針と変わってしまうことは、組織であれば充分に起こりうる年月である。
彼らは躍起になって研究を進めるが————それでも遅々として進まないことも、一端となったのだろう。
当時〈レザークラフト〉の構成員だった秋の父が発端人として、少しずつ改革という名の事件が起こる。
藤はまるで翼を得た喜びを表現するがごとく、両手を大きく大きく広げる。
「そうだ、【神】が欲した血肉を捧げようっっっ!……なんて。こんなに狂った発想、むしろ革命的だよね」
ぞくり、と戦慄が走るほどの、その笑顔は。淫靡すら感じるほどに甘い声は。
桐子がよく知っている藤のものとは、ほど遠い危険な香りを発していた。
血と肉を求めてやまない唯一神である【レザーフェイス】に捧げる供物として、最初に選んだものは死体だった。
幸いにして、旧奥多摩の墓都市には【レザーフェイス】が殺した人々の遺体が多くある。
狂った神を信じていても、やはり殺人に抵抗感が生まれるのは、まだ人間としての理性が多少は残っていたのだろう。
〈レザークラフト〉たちが墓荒らしをいまでも積極的に行なっている、その理由。
すべては【神】のために、悪魔をこの世に顕現させるために。生け贄を捧げるのだ。
彼らの凶行の、彼らを〈レザークラフト(悪魔の下僕)〉たらしめる確固とした存在として知らしめた、その要因。
「つまり彼は!黒澤秋は悪魔の子!我らが【神】に近しい存在だ!こんなに素晴らしいことが、この世にまだ起こるなんて!」
現在の〈レザークラフト〉を作ったという点では、確かに秋の父は大きく貢献したかもしれない。
胸糞悪い〈レザークラフト〉の歩みを聴かされて、だが桐子は逆に冷静になれたようだ。
恐れていたはずの兄の言動も、いまは不思議と怖くない。どうしてだろう。
「……あなたという人がどうしようもないクズだと、頭痛がするほど改めてわかりました。しかし」
気をしっかりと保つように、桐子はすっと立ち上がる。
先ほどより悪化した肉親への侮蔑と、落ち着いた自分のこころに向けて、桐子はひとつため息を吐いた。
淀みなく、はっきりと、これだけは言ってやりたい。
この馬鹿兄に誤解されたままなのは、釈然としないから、言ってやるんだ。
「黒澤秋————彼自身の人格や人柄とは、まったく関係ありません」
「…………はい?」
桐子が言いたいことが、藤にはまるで理解できない。
違う次元の話で、だからこそ言葉の意味合いや解釈だって違うもの。
宗教でも解釈の違いは頻繁にあることだが、それと近しい厚い壁が、ふたりの間に隔たっている。
「彼は馬鹿で間抜けで、要領が悪くて筋力はモヤシで運動神経も悪いしスケべだし、最低の男です」
悪口が溢れんばかりに湧き出てくる。
修道士なんかじゃない、最近までただの高校生の彼がここまで未熟なのは、当たり前のことだ。
これから訓練なり勉強なりで変えていけばいいし、きっと化ける余地がある。できないことは、少しずつ桐子が教えていけばいい。
————そういうことじゃなくて!
自分のこころの中でさえうまく表現できない、そんな自分がもどかしい。拳がきつく、握りしめられる。
そうじゃない。彼の本質は、もっと深くて、しかし透き通ったものでできている。
彼が変えた桐子の気持ちも、きっとそれと似た色をしているはずだ。
「それでも、彼は私が信頼する唯一の修道士です!その事実だけは、絶対に揺るぎません!」
なぜこんなにも熱く燃え滾り、泣きそうなほど瞼が痛いのか。
喉が千切れそうなほど、怒り、叫んで、彼への侮辱とも感じる言葉を強く否定したかったのか。
そう思わせるほどに、黒澤秋という少年は、不思議な魅力に溢れている。
信じていいと、思い切り背中を預けてもきっと、彼は応えてくれる。
どんな『私』であっても、受け入れてもらいたい。
————その背中を、私はそばで見ていたい。彼の隣で、一緒に歩いてみたいの。
まだごちゃごちゃと鬱々とした不安を垂れ流す自分を押しのけて、桐子は黒澤秋のことを信じてみると、信じたいと決めた。
だってこんなにも、彼を侮辱された怒りと、助けに来て欲しいと願う叫びが交じり合うこころ。
早く、早くどうにかして。この嵐を鎮めてくれるのは、あなたしかいないんです。
「……桐子ぉ、お前もしや」
と藤は首をひねりながら、ほんの少しだけ苦々しく瞳を歪めている。
いまの藤にはあまり理解できない感情を、妹は持っているようだ。
「彼に懸想しているね?」
などと言い当ててみせると、桐子は顔を茹で蛸のように真っ赤に染めて、必死に両手も振り回してまで全力で否定する。
「そっ……そういった邪な気持ちはっ、一切ありませんっ!ありえません!」
「別に構わないさ。『悪魔に恋する堕ちた聖女』というのも、なかなかいい絵になると、僕は思うよ。でもね」
くすくすと嗤う藤の顔は、やはり同じようで違和感を覚える気がした。
さらりと、桐子の髪を撫でるその手の柔らかさと温かさは、しかし彼女が記憶していた感触と変わらないようにも感じる。
違うのに、『同じ』。
だから戸惑う。期待してしまう。
『お兄様は悪魔に取り憑かれているだけ。きっとこれも全部、悪い夢なんだ』
その甘い幻想を打ち砕くように、藤は悪魔のように残酷に醜悪に微笑んだ。
「お前は僕の人形として生まれ変わる。人形に恋なんて……おや、できないねぇ。くく」
「……どういう、意味ですか?」