いつもと同じ、『あなた』と歩きたいから。
「あれ、今日は遅刻ギリギリじゃないのね」
第一高校の生徒たちが使う昇降口で、沙也加は中身のないリュックを背負った秋と出くわして、開口一番にそう言った。
彼とここで会う機会は、ほとんどないと断言してもいい。
いつもの秋なら、朝の出欠確認時間ギリギリで教室に飛び込むか、そもそも登校しないかの二択だからだ。
「……ちょっと、よく寝れなくて、朝早く起きたから来てみただけだ」
そう告げる彼の顔色は、確かにいつもより青ざめているというか、優れない様子だった。
これだけなら沙也加も特段、気に留めることではないと判断して受け流す。たまに一晩眠れないことなんて、誰だってあるはずだ。
「ふーん。ま、いいことだけどさ」
沙也加は自分の名札が入った靴箱からいつもの上履きを取り出し、外履きのスニーカーと入れ替えた。
沙也加が上履きに履き替えていた間も、秋はなんだかいつもに輪をかけてぼんやりとしている。
「今日は神父さんのお仕事ないの?」
いつもの世間話みたいに、なんの気もなく尋ねてみただけだ。
うるさく反対してはいるものの、心配していないわけではない。むしろ心配ばかりで、なのに尋ねようと思うと学校での秋はだいたい寝てる。
しかしこの話題に変えた途端、秋の男子にしては細い肩が明らかにびくりとふるえた。
いつもなら「うるせーな、順調だよ」とか悪ぶって煙たがりつつも、修道士になった実感を持ったかのように頬を染めて答える。だが。
「……あぁ。今日は……休み」
などと歯切れ悪い答えが返ってきて、沙也加もいよいよもって心配になってきた。
「……なにかあった?」
静かに問いかけると、彼は胸のうちでなにか出来事を反芻させたのか、やや少し間があって、返答があった。
「なんでもないよ」
そう言ってようやっと、ブーツを脱いで上履きと履き替えた。
それから授業中も、沙也加はずっと秋の様子を窺っていた。いつもみたいに机に伏せて居眠りするかと思ったのに、ただぼんやりと窓の外を眺めているだけだった。
しかしその瞳に景色など映っていない。明らかな憂いの色を帯びていて、見ている沙也加も苦しくなってきた。
真面目な沙也加も授業などそっちのけで、秋をどう元気付けようか考え込む。教師に問題を答えろと当てられても気づかなくて、隣の席の友人に何度か呼ばれてようやく気づいた始末。
「どうした赤木、朝メシの食い過ぎで眠くなったのか?」などと教師が茶化してクラスメイトたちが一笑しているなかでも、秋は身じろぎもせずただ外に顔を向けていた。
昼休みを迎えても、秋はなにもしないし、なにも食べようとしない。
いつもなら気にする携帯端末の着信も、一切触れようとしない。ただ気のない人形のように、そこにいるだけ。
「なーにボンヤリしてんのよ。ご飯忘れたの?」
友人に誘われたいつものランチも断って、窓際の秋の側まで来た。秋は煙たがる様子も見せず、なにも返事はしない。
「…………」
————っもう!見てらんない!
痺れを切らしたように、沙也加は秋の答えを待たず、彼の腕をひったくってそのまま教室を横切る。
「お、おい……なにすんだよ」
秋がらしくなく気弱そうに抵抗するが、沙也加は一瞬たりとも譲らない。
クラスメイトたちの不思議そうな視線を物ともせず、教室を出て、ランチタイムにはしゃぐ生徒の間を縫うどころか押しのける。
文句を言いたげな生徒もいたが、沙也加のただならぬ気迫に負けて黙り込んだ。
いったい彼女は秋をどこへ連れて行こうというのか。
秋から尋ねようにも、彼女の背中から無言の圧力を感じて、仕方なくされるがままに足を運ぶ。
沙也加に連れられて向かった先は、特徴的なドーム屋根の先にある三階のテラスだった。
屋上というわけではないが、この校舎の構造上は屋上に等しい。
よく漫画の描写にある殺風景な鉄の柵などという無粋なもので覆われておらず、ベンチがあって花壇もある。用務係のドルチェが、そこそこ綺麗に整えたのだろう。
いまはもう人口減少で放逐されたマンションや家々などの廃墟の隙間から、小さく富士山も覗いていて、気持ちのいい風景が広がっていた。
こんなにもいい場所で、いまは絶賛昼休み中にもかかわらず、ひと気はまったく感じられなかった。
ただ生徒たちが奏でる喧騒が、騒がしさを感じさせない程度に遠く聴こえるだけ。
今日はとてもいい天気で、眩しいほどの陽光は、だけどいまの秋には妙に憎たらしく感じた。
「あのね」
しばらくの無言があり、秋はいったいなにを言われるんだろうと、鈍痛のする頭でのろくそと考えていた。
やがて柔らかな風を受けてなびく赤茶色の髪を、沙也加は軽く押さえながら少し早口で切り出した。
「今夜、ウチで夕飯食べない⁉︎」
「……?」
唐突のお誘いに、秋の鈍った頭は追いつけない。
ぽかんとした表情を浮かべる秋に、それでも沙也加は努めていつもみたいに明るく喋りだした。
「お母さんがね、いっつも『秋くん最近どうしてんの?あの子ゴボウみたいにヒョロヒョロだから、死ぬほど肉食わせてやるよ』って言ってきかないの」
思い出したようにくすりと笑い、とりとめもない家の様子をいつもみたいに、でもやはり早口で語る。肩も、ほんの少し緊張しているみたいに堅い。
「それでお肉買いすぎちゃって、困るのはお父さんなんだ。若い頃みたいに一ポンド食べれる!なんて大見栄切って、それでお腹壊すから————」
そこまでまくし立てて、なにかの緊張感から解かれたように、ふぅとひと息。
「……それだけ。ようやっと、言えた」
にこりと彼女らしく微笑むその顔は、しかしなぜか。
いつもと違うように、秋の目には映った。
なにが違うのか、それはまったくわからない。本当はなにも、変わっていないかもしれない。
だけど。
「それだけ……って。そのためだけに、わざわざここまで?」
「だ、だっていっつも勇気が……じゃなくてタイミングが!そう、タイミングが掴めないから!」
火照った顔を冷ますみたいに、沙也加はぱたぱたと忙しく手のひらで扇ぐ。
不思議と風が気持ちいい。
なにもやる気が起きなかったはずなのに、どうしてか。
いまならほんのちょっとだけ、動けそうな気がした。
「……しょーがねーな」
離れていたふたりの距離が、秋の数歩でひと息に縮んだ。
沙也加の柔らかい髪を、手のひらで乱暴にくしゃくしゃと掻き乱す。
その声はいつもみたいに捻くれていて、しかしどこかほんのりと明るさが見えた。
両親があんなことになってから、相変わらず素直に笑ってくれないけれど、それでも彼が元気なら、それでいい。
「今日行くって、おばさんに言っとけ」
「っ……うんっ!」
先を歩く秋の背を、沙也加は足取りも軽く追いかける。
彼の瞳にこびりついていた憂いは、少しだけ薄くなっていた。
————秋。
わたし秋には、小さい頃からなんにも変わらない、『いつも通り』でいて欲しい。
いつもみたいに捻くれて、でも簡単にひとを撥ね退けられない優しいところ。
背伸びなんてしなくていいから、駆け足でどこかへ行かないで。
すぐそばにいさせて。一緒に歩いてよ。




