届かない。或いは
「おいっ……どこに行ったんだよ、ちくしょー」
秋は雨が降りそそぐ街の中で、先ほど別れたばかりの桐子を捜していた。
たったいま教会本部から、緊急の連絡が秋の携帯端末に来て、桐子とともに〈レザークラフト〉討伐任務に正式参加が決まったと知らされたのだ。
秋たちに振り分けられた討伐対象は幸か不幸か、《青金の人形遣い(ドール・プレスティジャトーレ)》————青柳藤。
「くそっ、おいっ!……っ桐子っっっっっ!!!!!!!!」
初めて呼んだ彼女の名は、どうしてか。
悲しくて淋しくて、どこか愛おしさすら感じられたような気がした。
何度も読んだ小説の題名、何度も聴いた曲のワンフレーズ。
他人にとってはありふれた名称、ありふれた言葉。
どうだっていい、どうでもいいと思うかもしれない。嫌いだって思う人も、いるかもしれない。
だけどどうしても、秋にとっては大事に思える、譲れない『なにか』。
声に出してみたらもしかしたら、少しだけ近づけたかもしれない。
ほんの一ミリでもいいから、近づきたかった。
『罪人』が触れた木に実った毒々しい赤の林檎みたいに、触れてはいけないものではないはずだから。
初めて見たときからずっと、彼女の瞳の色が気になっていた。青みがかった灰色の瞳。
とても綺麗なはずなのに、くすんで濁って見えてしまう。彼女の淋しさが鏡みたいに映っている。
人を思いきり撥ねつけて「近づかないで」、「触れないで」、「わたしを汚さないで」。
なのにたまに、こそっとこちらを覗きこんで様子を見るんだ。
まるで誰か、触れているその硝子を割って側に来てって、言っているみたいに。
「…………なんで、届かない、のに……あいつの名前、呼んでんだ?」
届かない声は雨の中に消えて、その役目は果たしてくれなかった。
彼女に掛けるべき言葉も、伝えなきゃいけないことも、伝えてあげたいなにかも、わからないまま。
気がついたら携帯端末に手を伸ばして、電話の履歴をタップ。
何度も掛けたときと同じように、ろくろく画面を見なくても『ルカ・アスカリ』の文字列で自然にピタリと止まり、しかし。
最後に見たあの背中を思い出して、親指は鉛のように重くなる。
あんなに近くにいて、ようやっと届きそうだった広い背中が、なんだかとても小さく老けたように感じた。
結局端末をスラックスのポケットに仕舞って、自棄になったみたいに雨に好きなだけ打たれた。
なにもかも。
この世界は、音も光もなく真っ黒だ。