圧倒的な【黒】
学校なんてとても行く気になれなくて、秋はおもむくままに原付バイクで旧横浜横須賀道路をぶっちぎりの最高速度で走破。
『あんまりソレやると、エンジン焼けつくぞ』なんて、ルカの忠告が聴こえた気がしたが、いまは無理矢理に頭から追い出した。
海風に吹かれているうちに、苛んでいた頭痛が和らいで、思考も徐々にクリアーになっていく。
ルカがどう思って動いているにしろ、桐子のパートナーは暫定的にも自分だ。
彼女がなにを思っているか、どう感じているのか、どうしたいのか、知るべきことだと思う。だが。
『「ご安心を。私もあなたみたいなクズには、気を許したりしませんので」』
という昨夜の別れ際にきいた彼女の言葉を思い出し、せっかく膨れ上がってきた気持ちがほんの少し縮んだ。
そこまではっきりと人に拒否されるのは、生まれて初めてのことかもしれない。
これまではずっと、自分から他人を遠ざけてきた。
大切だった家族との凄惨な別れを経験し、秋の心はいままで、ぎゅっと固く閉ざされたままだった。————彼女と出会うまでは。
青柳桐子は不思議な少女だ。
いつもは人を否定するみたいにむすっとしていて、それでいて誰かと繋がるためにインターネットの世界にのめり込む。あの笑顔が、その気持ちの一端だと思う。
人を撥ね付けておきながら、それでもなお、誰かの温もりを感じていたい。
大きく矛盾したその気持ち、願い。
どこか自分と通じるところがある、そう感じざるを得ない。
沙也加のことを撥ね退けておきながら、本当はいまでもそばにいてくれること、嬉しかったんだ。
そんな彼女がもし離れていったら、という不安があったから、自分から触れるのが怖かった。
学校をサボったことで、たぶん今夜にも秋の自宅に突撃してくるだろう。
————そのときに……ちょこっとだけ、ほんとにちょっと。謝ろう。
桐子を捜すのも、もうだいぶ慣れっこの作業だ。いまさら、大した苦労じゃない。
彼女がいる場所は常に、インターネット環境が十全に整ったゲームセンター。
そんな場所は、現代じゃ限られている。
目星をつけた店内を歩き回ってほんの三分で、透明感のある蜂蜜色のおさげを見つけた。
「珍しいですね、あなたが自発的に私を探すなんて」
なんて言いながら、桐子はシューティングゲームの銃器型コントローラーを構えている。
幸いにもまだコインを入れてプレイしていないらしく、古そうなブラウン管のゲーム画面には煩いフォントで『NEW GAME』と表示されていた。
「青柳藤……お前の、兄貴のことをききたい」
「私たちがお互いに不干渉でいたいこと、よくわかっていらっしゃるでしょう?」
否定的な文句だが、桐子は秋が突然に自分の兄について尋ねることを、まるで知っていたみたいな風だった。
おそらく秋と一緒に渡された資料のなかに、『青柳藤』の名前を見つけたときから想定していたのだろう。
『青柳』なんてそこいらに溢れた苗字ではないし、なにより優秀な修道士を輩出する名門だ。桐子と関連づけるのは不思議なことではない。
しかしいつもなら桐子にちょっと言われただけで怯む秋が、今日ばかりは積極的だ。
「パートナーだから、ききたいんだ」
と極めて真剣な表情で言うものだから、どきりと心臓に妙な鼓動が加わる。
「興味ないって、言ったくせに……」
「あ?なんだって?」
桐子の不満が詰まった呟きは、しかしゲームで盛り上がる若者たちの声で掻き消され、秋には届かなかった。
この鈍感童貞野郎が、と口中で散々な罵りを吐き捨てて、桐子はわざとらしい咳払いで了承した。
「……いいでしょう。今回の任務にも関係ありますし、少しお話しします」
ゲームセンターの店舗内は人声とガンガン響くゲームエフェクト、それから意味があるのかわからない店内BGMで騒がしくて話にならない。
ふたりは一旦外に出て、真向かいにあったファストフード店の跡だと思われるガーデンテーブルを陣取った。
遠雷の音がかすかに不穏を表すように、聴こえた気がする。
「私は実家で、望まれない子でした」
桐子は怖いくらいに冷静で、感情を排除した他人の物語を紡ぐかのようにとつとつと語り始めた。
「私よりもずっと優秀な、年の離れた兄がいました。誰もが皆、兄に期待し、褒め称え、大切にしておりました……両親も、私なんかより兄のことを優先していたと思います」
青柳家がどれほど優秀な人材を生み出してきた名家か、秋は直接は知らない。
想像でしか補えない苦労だが、きっと桐子にとって、実家などといっても心安らぐような場所ではなかったのだと、感情を削られていても言葉の端々からそう感じる。
「たぶん私の存在は、ほとんどいないも同然だったと思います。私がいくら優秀な成績で修道女になっても、褒め言葉ひとつかけてくれなかったのですから」
彼女の孤独感を生み出したのは、こういった背景があったからだろう。
健在だった頃の両親には無限の愛をもらい、両親が亡くなった後はルカに不器用な愛を注がれた。沙也加の一家にも、よくしてもらっていた。
そんな秋には、本当の孤独などわからない。
そう言われているような気さえ、感じてしまうのは秋の考えすぎだろうか。
「兄は修道士としてはとにかく早熟で、しかし一辺倒ではなく機械工学の勉強もしていたようです。実家の部屋にそれらしい書物が置いてあったので、おそらく」
彼のコードネームとその由来を思い出し、だから武器が機械人形なのかと納得。
もしかしたらその頃から、〈レザークラフト〉の構成員と接触していたのかもしれない。
「そんな寄り道をしても、しかし兄は修道士として最高だと評価されていました。しかも人格も完璧で、哀れな妹にさえ兄として優しく接してくれました。私はあの頃、どんなに両親に蔑ろにされても、お兄様がいてくれればそれでよかったんです」
その頃の桐子にとって、兄がどれだけ心の支えとなっていたのか、幼い彼女の安心感が強く感じられる。
きっと兄としての藤は、とても穏やかで優しい青年だったはずだ。
「しかし家督を継ぐ、という話が出てきた途端、彼のなかのなにかが狂ってしまったのでしょう。兄はナイフで当時の使用人たちを次々と殺害し、助けに入った父と母をも切りつけ、最後に————」
ここにきて初めて、桐子の言葉が詰まった。
そのときの記憶が、思い出すのも恐ろしい光景が、脳裏にまざまざと甦ったのか。
じっとりと手に汗を浮かべ、青ざめた顔で、桐子は過去と向き合うための覚悟を決めたように続きを口にした。
「妹の私にも、手をかけようとしたのです」
「でも、」
「えぇ。どういうわけか、兄は私だけは見逃して、その後は行方知れずに。家督を継ぐ者は私となり、めでたしめでたし……といったところでしょうか」
あの日、どうして藤は桐子だけは手にかけなかったのか。彼のなかでどういった心境が渦巻いていたのか。
それは本人にしかわからない、説明できない理由で、ここで秋と議論を交わしたところで正答など出るはずがない。
知りたかったら、藤本人に当たるよりほかないことだ
藤に関する情報は、これで締めくくられるのかと思われた。
しかし彼女の物語はまだ続く。
「しかし付け足すとしたら、それが私にとっては幸運などではなく、連続した不幸の渦中なのです」
それから先は、当時の彼女が見ていたもの、成長したいま思うこと、いまだこびり付く世間の悪しき風潮、悲痛な主観で語られた。
声にはいまも感情など載せられていないはずなのに、秋の前には幼い桐子がいて、自ら語っているかのような錯覚さえ感じる。
「家督を継ぐのは男と、どこにでもある昔からの因習。それは青柳家も例外ではありません。よりにもよって女に家督を継がせるなんて、と大きな問題になりました」青柳家の嵐を表しているかのように、現実の空模様も次第に怪しくなっていく。
「兄に与えられた深い傷の中で運よく助かった両親は、しかし歓迎されることはなく、親戚中から厳しい非難を浴びます」
『あんな狂人を育てやがって』
『どうして跡継ぎ候補が女しかいないんだ』
『早く男児を産みなさい。年齢が問題なら、人工授精でも試験管ベビーでも、なんでもすればいいだろう』
「まったく……神に仕える修道士たちの言うことだとは、とても思えませんよね。いえ、教典の内容を鑑みれば、らしいのでしょうか」
いつもの桐子とは少し違う、嫌味というよりは呆れ果てたため息。
古くから受け継がれてきた教会の教え……『教典』には、男女平等が主流となった現代では男尊女卑ともとれる教えがある。
神が創りたもうた最初のヒト、名はアダム。彼の肋骨から生まれたエヴァ。
禁断の果実を口にしたことで、ふたりのヒトは楽園を追放され、地上に送られた。それこそが人類の始まりである。
男の一部で作られた女は、男の一部分である。
その教えの本当の意味合いを知らない人々は曲解させ、男尊女卑の風潮はそこから生まれた。
青柳家のように古くから教会に属する家柄で、一際その気が強い理由のひとつでもある。
「あなたは一般的な男性ですから、現状に疑問や不満など抱かないでしょう。それが当たり前の世の中ですから、あなたおひとり責めても仕方ありません」
それでも桐子は、ひたむきに修行を重ね、努力の結果として修道女となった。
ただ一心に、両親に自分を見てもらいたいから。
『よく頑張ったね』
そのたった一言が、欲しかっただけ。
たったそれだけのために、どんな仕打ちにもじっと耐えてきたのだ。
しかしどれだけ強い修道女になってもなお、その腐乱した教えが鎖のように、桐子をきつく縛り付ける。
「女というだけで、戦ってはいけないのですか?女だから、前に立ってはいけないのですか?女だから、跡継ぎにはならないのですか?」
これまで桐子が組んできた修道士は皆、教典の教えを男尊女卑と捉えてやまない人ばかりだった。
シスターはすっこんでろ、ここからは神父の仕事だ。神父にしか人のこころは救えないんだ。女はなにもできやしない。しょせん女は。
————女だから、私は必要ないのですか?
「女だから、誰かを助けてあげられないのですか……?」
だから修道女はパートナーとして必要ない。
秋はそう言いたかったのかと、桐子はずっとひとりで悶々と考えて、いつのまにかそれが彼自身の答えだと思い込むようになっていた。
いつのまにか、『思い込み』ではなく『本当のこと』だと、そう思ってしまうほどに。
「っ……それ、は……」
秋は考え、しかし言い淀む。
秋は当然、桐子のような苦労は経験したことがない。
幼い頃に観ていたヒーローショーのヒーローたちはいつだって男ばかりで、だからこそ秋には自分と重ねて見ることが容易だった。
その夢に、憧れに、曇りない瞳を向けて、なんの疑問もない。
彼女に伝えるべき言葉なんて、いまの秋には見つかりっこない。
「別にあなたから答えが欲しいなんて、これっぽっちも期待していません。私の手前勝手な独白だと思ってくださって結構です」
秋が困るのを見越していたようで、一瞬も答えを待つことなく、彼女は自分に対して嘲弄するみたいに短く苦笑した。
「私が知る『青柳藤』という人物像は、これで以上です。……なんだか全然ためになりませんでしたね、申し訳ありません」
と珍しく秋に素直な低頭をして、桐子はそのまま緩やかに踵を返す。
「さて。仕事が詰まっていますので、この辺で失礼します。ごきげんよう」
「え?仕事って……俺なんもきいてないし、ゲーセンはここだし……」
思わずスラックスの尻ポケットに手を伸ばすが、ルカから着信が来てないことは知っているし、桐子が歩いて行った先にはゲームセンターはひとつもない。
しかし彼女を引き止める理由などなにもなく、秋はただ遠くなっていく桐子の背中を見送る。
たれこめていた重い雲から、堪りかねたようにとうとう雨が降り出した。
五月のはずなのに、雨は冷たくて体温を徐々に奪っていく。
まるで凍てついていたはずの桐子のこころから、ほんの少し流れた水のように。
彼の優しさに、甘さに、呑まれてはいけない。私はそれでも、修道女としてこの身を削っても戦うと決めたのだから。
「……さて。私も相当に人気者ですね、本当にストーカーされるなんて」
と、ひと気のない路地に入ったところで、ぽつりと桐子が言った。
桐子以外は誰もいないはずの、雨雲のせいで薄暗い路地。しかしそこに。
ひとり、男が佇んでいた。
背が高く、痩せてはいるが筋肉質。
真っ直ぐに伸びて姿勢のいい佇まいは、どこか育ちの良さを感じさせる。脚もすらっと長くて、モデルのようだ。
この薄汚れた街には似合わない仕立てのいいスーツを、仕立て屋が泣いて喜びそうなほど上品に着こなしていた。色合いも、自前の蜂蜜色をした髪とよく合っている。
しかし顔を横半分に覆っているデスマスクのような白い仮面が、彼の不気味さと奇怪な雰囲気を前面に押し出している。
「そうだね……桐子は我らの中でもとても人気だよ。美しく育って、僕も鼻が高い」
男はくく、と笑いながら、形のいい指で仮面を外した。
仮面のしたの瞳は切れ長の、青みがかった灰瞳。
女性のような線の細さがあり、物語に出てくる王子様のような美青年だ、と誰もが恍惚の声を漏らすだろう。
その美しい、自分とよく似た顔を認めて、しかし桐子の表情も声もひどく引き攣った。
「っ……お、おにい、さま……?」
「あぁ、そうだよ。久しぶりだね、桐子」
相変わらず温かくて穏やかそうで、聴いているこちらが溶けてしまいそうな柔らかい声音の兄に、だが桐子は全力の警戒心を露わにする。
腰のポーチからナイフを素早く取り出して、右手にしっかり構えた。
太腿に巻かれたホルスターのなかの、銃の弾をいくつ補充しておいたか片手間に考えながら、ふと兄の影になにかいたような気がして目を細めた。
「……そちらの女性は?」
藤の背後に、ちょこんと小柄な女性が立っていることに、桐子は今更ながら気がついた。
気配が希薄で、感情というものを持ち合わせていないような無表情。
上品で可愛らしいフリルたっぷりの、純白のドレスを身につけていた。
自然、先日見たばかりの夢が脳裏に繰り出される。
懐かしい、お気に入りの着古したドレス。
もうサイズが合わなくて捨てられてしまったが、いまでもサテンのあの滑らかな触り心地は覚えていた。
彼女の柔らかそうな栗毛を、藤はくしゃりと優しく撫でる。かつて桐子にしてやったように、髪の色を眺めるみたいにほんの少し引っ張った。
「あぁそうだね、彼女もいずれ桐子に紹介しないと。でも、その前に」
という藤の声と同時に、女性の姿は桐子の視界から消えた。
桐子が反応するより先に、女性はその細腕に見合わない怪力で、桐子の首を絞め上げる。
そのまま、桐子が意識を失い、女性が力の抜けた桐子の体を担ぐ。
さらりと流れる桐子の濡れた髪を、藤がひと束摘んだ。花のような柔らかい香りが、藤の鼻腔をくすぐる。
「おやすみ、僕の人形。これから君を、いまより美しくしてあげる」
汚れた街の景色は、しかし冷たい五月雨のなかで、水彩絵の具を溶かして描いたみたいに淡い色彩だった。
その景色のなかには、なににも染まらない黒があった。
黒のスーツみたいな洒落たブレザー、ワインレッドのワイシャツに、首元にはグレンチェックのネクタイ。
スラックスもブレザーと同じ黒で、靴もほとんど同色の編み上げブーツを履いている。
彼の髪は、まさに墨を流したような真っ黒。瞳も、夜空をそのまま閉じこめたみたいに澄んだ黒。
ここまでの黒は、死神とか悪魔など悪いもの思わせるはずなのに、どうしてか彼にはそんな陰を感じられない。
それが藤には、ほんの少しだけ不満だった。
もっと、もっと美しい、純粋な【黒】を見たい。どんな色も塗り潰す、圧倒的な【黒】。
我らが【神】様が塗りつぶしたみたいな————
きっとモネなんかより、最高の絵になるだろうさ。
彼はどうやら、誰かを捜しているようだ。必死に彼女の名を呼んでいる。叫んでいる。
しかしその声は、彼女には届かなかった。