名前は、まだない
「お嬢様、おはようございます。」
「おはよう、ナターシア。」
今日からはちょっとだけ豪華な部屋で、違う景色の中で朝が始まる。
「お嬢様、今日はコレにしましょう!この前買ったばっかりの淡いピンクのドレス!」
アリスが喜々として服や靴を選ぶ。
アリスはこういうのが好きだ。
町ではこの柄が流行っているとか、斬新な形の帽子が出来たとか、若い女の子らしく元気で可愛い。
見ていて私もウキウキしてしまいそうになる。
嬉しくなり幸せな気分になる。
とっくに精神的年齢ははしゃぐような時期を過ぎているのだけれども。
「お嬢様、今日の髪型はそのドレスに合わせて軽く結って毛先だけ巻いてみましょうか。」
普段は無表情に近いのに、この時だけは必ず少しだけ微笑むメイ。
「今日のお嬢様は、誰よりも可愛いです!」
「私もそう思います。」
「ありがとう、アリス、メイ。」
毎日そう言って二人は私を着飾ってくれる。
だけど私は思うの。
そんなことを言うアリスとメイが一番可愛い、って。
「お嬢様、今日は旦那様と会う予定になっています。」
「えええ・・・・ナターシア、私会うの嫌だわ。仮病でも使おうかしら。」
「そんなに嫌そうな顔をされても予定は変えられません。
それにいくら避けても必ずいつかは会わなければならないのですから。
さっさと済ませたほうが気が楽でしょう。」
「そうだけど・・・ちなみに呼ばれているのは私だけなのかしら?」
「お嬢様だけです。奥様とカナタ様は朝から出かけていますので。」
「そういえばそうだったわね。どこへ行かれたのかしら。」
「買い物か友人の誰かのところでしょう。」
「ふーん。いいわねぇ、私もそんな日々が送りたいわ。
好きなものを買って好きな人だけに囲まれた生活、羨ましいわぁ。」
そしてお母様は、目障りな私は隅へ追いやり、見ないふり、いないふり。
コンコン。
「お父様、私です。入ってもよろしいでしょうか。」
なんとなく緊張でしてしまい声が震えてしまった。
何分、この歳になるまで数回しか会ったことのないお父様だ。
そりゃあ緊張もする。
「ああ、入りなさい。」
男性にしては少し甲高い声がドアの向こうから聞こえた。
「お久しぶりですわ、お父様。」
「ああ。ひさしぶりだな。元気にしていたか?」
「ええ、おかげさまで。お父様もお元気そうで何よりですわ。」
また少し肥えられたご様子で、と心で思った。
最後にあったあの時よりも太っていた。
お父様は背が低く丸顔で、今ではその顔も二重顎になっている。
マシなのは剥げていないことくらいだろうか。
お母様は背が高めでモデル顔、ちょっとキツめに見えるが美人。
残念なことに私はお父様似。
背が低く丸顔だから幼く見えてしまう。
油断したらきっとこのお父様のように太ってしまうだろう。恐ろしい。
そしてカナタは羨ましいことにお父様の遺伝子を一切受け継いでいないようなスラッとした美形だ。
きっとお母様の遺伝子100%で出来ているじゃないかと思うくらい。
「お父様、私にご用って何かしら?
ご挨拶の練習でしたら昨日から始めたばかりですので、まだお父様にお見せできるレベルではないわ。」
「いや、それは分かっているから良いんだ。
お前が一日で完璧に出来るほど優秀じゃないことくらい分かっているさ。
カナタならば出来るかもしれんがな。」
若干イラっとした。
嘘でもいいから期待していると言ってほしかった。
「それじゃあ何かしら。」
「お前、まだ名前がないだろう?」
「はい?」
そういえば、生まれてから今まで一度だって名前を呼ばれた記憶がない。
いつだって私の呼ぶ声は「お嬢様」「あの子」「お姉様」だった。
名前を呼ばれなくても全て別称で済んでいた。
昨日のご挨拶の練習だって形式だけを学び家柄や名前の口上はしていなかった。
あら、本当。
「・・・私、まだ名前がない」
青天の霹靂のようだった。
自分の名前がないことを今まで疑問にも思わなかった。
最初に名前の話が出たのは生まれた直後だけ。それ以降、一切なかった。
私の名前を聞くような人もいなかった。
別宅から外出するな、と暗黙のルールがあったから知らない人に出会う機会も一切なかった。
「そうだ、お前にまだ名をつけていない。」
「だ、けど、」
これから付けてくださるのでしょう?
ご挨拶で口上を述べなければお父様の野望は果たされないのだから。
「いやぁ、名前を付けていなくて本当に良かったよ。
俺はな、良いことを思いついたんだ。
もしかしたらお前の価値が何倍にも跳ね上がるような可能性がある。」
「何を・・・。」
何を企んでいるの。ニヤニヤと悪役のように笑うお父様。
「王様にご挨拶の場で名付け親になっていただこう。
大切な愛娘の名を王様に名付けてもらう栄誉を与えるために、してこなかったのだと。
面白い趣向だろう?
そうだ、あと誰の目にも触れさせたくないほどの愛娘だと噂を流そう。
お前の容姿は・・・あー、美人というほどではないか。
普通だが、着飾ればそれなりに見えるだろうから誤魔化せるだろう。
馬子にも衣装でいくか。」
豚のようなお父様に言われなくないわ。普通の容姿で悪かったわね。
私が馬子にも衣装というのなら、お父様は豚にも衣装よ。
ぱっつんぱっつんにきつそうな服が可哀そうだわ。
「・・・そういうことですの。
お父様は私を大事な箱入り娘だと噂を流し目立たせ、そこで面白がった王様から名を私が賜り
私の存在を、価値を高めた後、高値でよその家へ嫁がせたいのね。」
「ただの娘より箔がつくだろう。
良い考えだと思わないか、お前が役に立つ日がやっとくるんだ。
運が良ければ上の方と縁が出来たり、資産が倍に増えるチャンスが出来るかもしれん。」
私は、まだ、名前がない。
ふと私は久しぶりに前世を思い出した。
前世でこんなような一文から始まる有名な物語があったきがする。
そうそれはたしか黒猫の物語。