女王の水薬
涙ぐんだ瞳は、とろんと微睡んでいる。
熱を持った吐息が、薄紅色の唇から漏れ、彼女のしなやかな手が、水差しに伸びる。水差しには薄青色の液体が入っている。
薬師は水差しを取り、その細長い飲み口を、女王の口に持って行った。
女王は目を半ば閉じて、薄青の液体を小さな力で吸った。
「ありがとう」
女王の言葉は優しく、頼りなかった。
「王様は、怒っていたでしょう」
「困っておいででした」
「貴方には、迷惑をかけますね」
「いいえ、これが私の、仕事ですから」
「貴方は国一番の薬師と聞いています。頼りにしていますよ」
季節の塔の天辺には、季節の女王が暮らすための部屋がある。
晴れていれば、塔からは都の街並みや王宮の金に光る球塔が見えるが、今は降り積もる雪のために、どこまでが空で、どこからが地上なのかわからない。
分厚い灰色の雲は、この冬の間に降らせた雪のように、どこまでも重なり合って、空に沈殿している。
「毎日雪の中、ありがとう」
「おはようございます、姫様。――雪は、もう慣れました」
「町はどうですか?」
「甘水屋が儲かって、子供が喜んでいます」
「それは、どうして?」
「かき氷が空から降って来るんですから」
女王は汗ばんだ体を起こし、服を脱いだ。
真っ白い背中や、腰が露わになる。薬師は、湯につけた柔らかい布を絞って、それを、女王の背中に押し当て、優しく滑らせた。
女王は両手で、二つの女性らしいふくらみを隠しながら、自分の体が薬師によって綺麗になってゆくのを感じた。薬師は、このときはいつも何もしゃべらない。女王も、何かに耐えるように、じっとしている。
――雪は静かに降り積もってゆく。
「近頃は私も、熱に慣れてきたのよ」
「それは、あまり良い傾向ではありません……」
「貴方が、雪に慣れてきたのと同じよ」
「今日は吹雪ですね」
「吹雪は嫌い?」
「ここから眺める雪は、どれも綺麗です」
寒さは日に日に厳しくなり、降る雪も次第に、冷たさを増していった。
しかし薬師は、毎日必ず、薬を作って、女王の元に届けたのだった。
「しもやけになってるわ」
「姫様、そんな――」
――ハァー、ハァー。
「少しは温かくなった?」
「はい、とても……」
「良かった」
ちゅるちゅる……。
女王が水差しの液体を飲み、喉がこくんと動くのを見て、薬師は安堵と、同時に後ろめたさを感じるようになっていった。
「春の女王は、まだ見つからないのね」
「はい。一体どこに行ってしまったのか――王様の騎士たちもこの雪で、探しに行けないようです」
「彼女は、きっとここが嫌いなのよ」
「そうなのですか?」
「彼女に言わせるとここは、『牢獄』なのですって」
「『牢獄』、ですか……」
一面を雪の海に囲まれた孤島の塔。
確かに『牢獄』のようだと、薬師も思った。
「姫様も、ここから早く出たいですか」
冬の女王は微かに微笑みを見せて、言った。
「貴方が治してくれるのだから、心配していないわ」
雪は、朝も夜も絶え間なく降り続いた。
木にできたつららは、積もった雪の中に落ち込み、それにまた雪が積もって、氷のオブジェか、または、化け物のような姿を見せ始めた。
女王の熱は、日に日に上がっていった。
「熱いわ……」
「はい」
薬師は水で濡らした布を女王の小さな額に乗せた。
ケホケホと小さく咳込んで、女王は水差しに手を伸ばした。薬師は女王から取り上げるように、先に水差しを手に取った。
「お願い、飲ませて頂戴」
「しかし姫様、薬はさっき飲んだばかりです」
「お願い、苦しいの」
薬師は、飲み口を女王の唇に持って行った。
冬の女王は、重たい体を起こして、手紙を書いた。
女王には、国王から手紙が来ていた。女王の体が良くならないのを、国王も知っていた。今の薬師を辞めさせて、別の薬師に薬を作ってもらうよう、女王を説得する内容の手紙だった。
手紙の返事を書き終えた女王は、雪鳥の頬袋にその手紙を詰めて、窓を開けた。雪鳥は羽音のしない柔らかな翼をはためかせて、雪の中を王宮に向けて飛んでいった。
「――姫様、私は、自分が信じられません」
「どうしてそんなことを言うの?」
「姫様はどうして、私を辞めさせないのですか」
「辞めさせる必要がないからよ」
「必要ならあります。私の薬は、効いていないじゃないですか」
「貴方は、国一番の薬師なのでしょう?」
「わかりません……」
「私は、そう信じています」
女王はそう言って、水薬を飲んだ。
あっ――と、薬師は声を上げたが、すぐにその口を閉じた。
苦しそうな息遣い。
女王は、半分眠り、半分は覚醒した状態で、ベッドに横たわっていた。たまに、吐息よりも鋭い声を漏らし、その声で、女王は目を覚ました。
「薬を、ちょうだい」
うわ言の様に、女王は薬師にお願いするのだった。
薬師は、「さっき飲んだばかりです」と拒むが、「お願い、お願い」と頼まれるので、最後には仕方なく、薬師は女王に水薬を飲ませるのだった。
薬を飲むと、女王は落ち着いて眠りにつく。
熱はいっとき下がるが、少し経つとまた上がって、今度は薬を飲む前よりも、女王の体は高熱を帯びるのだった。
「お願い、薬を――」
その頃になると、薬師は一日中女王の傍にいて、額の布を取り替えたり、汗を拭いたり、そして、薬を飲ませたりしていた。
薬師は、都の外れに住んでいた。
一軒家の木の建物で、家の周りはいろいろな草香の入り混じった、独特の匂いがするため、人間も、犬や猫も、そしてたまに現れては農家を脅かす熊や狼も、彼の家を敬遠した。
夜、雪の中、薬師が家に帰ると、家にはすでに、鼻の長いこげ茶の肌をした妖精がいて、居間のテーブルに、ランプを灯して座っていた。
「上手くいってるのかい」
妖精は、薬師に訊ねた。
薬師は、「上手くいってるとも……」と、元気なく応えた。
薬師は、約束の金貨を一枚、妖精に渡した。
「どうしたね、元気がないじゃないか」
薬師は、薬草の入った鞄を放り投て、妖精の質問に応えた。
「もう、材料はいらないよ」
「どういうことだい?」
妖精は、ぎょろっとした目をさらに大きく見開いて、薬師に質問した。薬師は椅子に座ると、首を振った。
「熱が、どんどんひどくなってる……」
「それはそうだよ。でも君は、そうすれば、ずっと姫と一緒にいられるんじゃないか」
「ずっとじゃない。このままじゃあ、姫が死んでしまう」
「じゃあ、どうするんだよ?」
「全部、打ち明ける」
「君の悪巧みを、全部かい?」
薬師は頷いた。
妖精は、嘲笑を混ぜた声で言った。
「できるわけないよ。君は、冬の女王に毒を飲ませていたんだ。それを、薬だと信じ込ませて。ただ自分が、女王と一緒にいたいがために!」
薬師は、泣きそうな目で妖精を見つめた。
妖精は、毒薬の材料になる薬草が入った袋を薬師に投げつけた。
「君はもう戻れない。――打ち明けてどうするんだ。許しを請うのか? それとも、逃げるのか? 無理だよ。君は、妖精王の王冠を賭けてもいい――処刑される」
「もう見てられないんだ……姫が、弱っていくのを」
「いいじゃないか! どうせ叶わぬ恋さ。打ち明けてみろ、女王はお前に失望するぞ。そしてもう二度と、女王の心はお前に戻らない。永遠に、雪の奥に埋まっちまうんだ!」
「僕は姫を愛してる」
「知ってるさ。だから――」
「だから、僕は間違ってた。姫が苦しむくらいだったら、死んだ方が良かった」
「馬鹿げてるよ! 違う、君には僕が必要なはずだ!」
「僕に必要なのは、毒薬じゃなかったんだ!」
薬師は、毒薬の袋を、妖精に投げ返した。
「馬鹿な人間め! きっと後悔するぞ! 知らないからな!」
妖精は、両手に拳を作ってカンカンに怒ると、それだけを言い残し、家を出て行った。薬師は、明日全てを冬の女王に打ち明けようと心に決めたのだった。
その頃冬の女王は、雪鳥の運んできた一通の手紙を読んでいた。
雪鳥は、そのしっとりした羽毛の頭を、熱を持った女王の額に押し付けた。
「心配してくれるの?」
女王は雪鳥を撫でながら、呟いた。
「大丈夫よ。彼は、本当は優しいもの」
――クルル。
雪鳥が、薄青い液体の入った水差しをつつく。
女王はそれを取り上げた。
「いけませんよ。これは毒なんだから」
女王は微笑し、水差しの液体を飲み干した。
その手に持った手紙には、春の女王の名前が、蒲公英の花のような温かい文字で書かれていた。
随分と回り道をしていた春の女王は、もうすぐそこまで来ていた。