「妖雲邂刀」 6
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近隣の小学校を横目に自転車で走り、愛宕橋を渡り川幅のある大誠寺川を超える。
まだ早朝も早い時間帯の大誠寺の中心街は、行きかう自動車こそ数は認められたが、歩道を歩く人の姿はまばらだった。
半袖ブラウスの学校指定夏服に身を包んで、両の肩にはオフィシャルの場でも通用する刀ケースと、自前の刀袋の二振り。愛刀の美月と、非常用である刀袋に納められたのは陀羅尼勝家である。
荷物を背負っての自転車漕ぎではあったが、慣れたモノなのか、割と危なげなく車体を走らせている。
十数分前、自宅を出発した宗近は、自転車にまたがりペダルを蹴った。刀の目利きと修繕を行ってくれる人物の住まう目的地は、大誠寺でも宗近の拠点とは真逆の方角にある。宗近の通う高校までは、道のりにして大した距離でもないので、時間に特別の余裕がない場合を除いて、彼女は平素徒歩で通学している。だが、今回の様に永川という人物を訪ねるに際しては、片道にもそれなりの距離がある。彼女も身が一つの忙しい時もあり、時間の制約もあることから速い足が良いのは確かであって。また市街には周遊バスも走ってはいるが、独り身で色々と物入りである (それは刀に関する用具も含めて) 宗近は、しっかりと節約を心掛けてもいる。そういう理由と選択での自転車。自分の力での移動である。
それに今日は、自転車で走る軽快さを助けて余りあるように天気も晴れ空であり、心が透くように気持ちが良い朝だ。
昨日の鉛のような、重く立ち込める空模様とは対照的に、である。
しかし北陸の空というのは、年中を通してそういった色合いをしている節がある。程度の差こそあるものの、地元の人間の印象が占めるのは、まず大体の意見で、重い雰囲気であることはざらであるのが実際だ。この地方で年間において最も降水量が多いのは、梅雨時ではなく十一月から一月過ぎの冬場である。だが今の時期とて、一般の日本風土に見られる梅雨のイメージに即して、雨がそれなりに降る季節なのだ。空模様が鈍色であるのは致し方のないことだ。
また地域的にパッとしない空というのは、この地方でよく口にされる定例句で……また格言ともされる 「弁当忘れても、傘忘れるな」 という言葉で表現されている。このように雨の心配を要される空模様であることが多い土地である。また雨だけではなく、冬は雪によって交通もある程度の不便を強いられ、明治以前などは冬場は雪によって閉ざされる土地、との印象もあった。
古く、多くの歌人や文人によって、その様子は情緒豊かに描かれてきた。
しかしその内実というのは、消極的の顕現であることがほとんどだ。
それだけ北陸の風土や空模様とは、人の沈鬱な心に寄り添っているのだろうか。
(過去にそう唄う人が多かったとしても、私はそういう風には受け応えるのが好きではないな)
宗近は清々しく温かな陽光を身に受けて走り、そんな今迄に何度となく自己内で繰り返した感想を反駁する。
(自分の心境と、今ある環境の不具を重ねて、皮肉めいているのはある種諦観だよ)
そして人は、そこに捉われていては……捕われ、精神の虜囚に甘んじていては、何も掴めないのではないか。掴めないし、望みに対して己の取り巻くモノたちを変えていくことも出来はしないのではないか。
それは年若い宗近の感慨でありながら、概ね正鵠を射ている。
そして、だからこそ宗近は思う。
(それでは、駄目なんだよ)
人は。
そして私自身も。
(だってそれは、私の大切に想う人達――お祖父ちゃんやお父さんたちを蔑にする行為に他ならないから)
(だから、私は自分に今できる最善を行ってゆこう。地道に、積み重ねて、成してみせよう)
――宗近はそう決意している。
平坦な道路を滑るように駆け抜けて、大誠寺本町に入る。ほどなくして寺院の屋根が連なる道を抜け、町名を示す青看板が目に入る。
目印にしている梅の木を見つけて、宗近はペダルを漕ぐスピードを緩める。
到着した家屋は、この地方にしては新しい部類に入るモダンな黒い建物で、表には“彫金工房 『華月』” と流麗なフォントで書かれたプレートが掛けられていた。
自転車を停止させ、建物の脇に立てて施錠をした宗近。右肩の刀ケースを左肩に移すと、自転車のカゴに押し込めていた学生鞄を右手に取って、宗近は梅の木を見上げながらその脇を歩いて行く。通り過ぎて、家屋の中の住人を訪ねようとしてふと見ると、朝日と風を受けてさざめく木漏れ日を身に浴びながら、目当ての人物が木のたもとに立っていた。宗近はそれを認めると声を掛けた。
「ツバメさん、おはようございます。何されているんですか?」
宗近の声にやんわりと首を向けた女性――永川鳦は一目見て “たおやか” という印象が嵌る女性だった。
束ねて肩前にふわりと垂らした黒髪と、優しそうな瞳。薄手の柄の着物を着こなして立つ姿は、美人と言ってしまうことに首を横に振る者はいないだろう。ただ、年の頃はそれなりを感じさせる、若くもなく、年寄りでもない。そんな女。
「ああ、宗近ちゃん。もうそろそろ来はるかと思っとったよ。待っとったで」
微笑みとともに出たのは京都訛り。
地方の町では目立つ人物かもしれない。しかし宗近にしてみれば、付き合いもそれなりの長さになる人物なので、別段気になりもしない。もしこの街で彼女の在り方を気に留める人間がいるとしたならば、それはツバメがこの地方に越してきたばかりの時の人達だけだろう。今はもう、ここの地元に根付き、彫金工房の主として認知されて久しい彼女だ。
それに妖威刀の件で地元警察にも顔が利くというのが、ちょっとした裏事情である。
「例の刀を持って来ましたよ。……あれ、早く着いたつもりだったけれど、鷹衛くんはもう小学校に?」
「まあねえ。宗近ちゃんが朝に来るなんて事前に言うたら、あの子それこそ遅刻してでも宗近ちゃんを待っとりそうやったんでな。黙っとったんやけど、味気なかった?」
「いえ、美月が少し警戒していたんで、それだけです」
「それはそれでつれないなあ。あの子、宗近ちゃんの胸に顔をうずめるのを、えらい好いとるみたいやのに」
「……んえ⁉ 美月を触りたいんじゃなくて、ですか」
そう言って、思わず宗近は自分の豊かなふくらみを両腕で隠す。
「あはは。冗談や、冗談」
「…………もうっ」
ぷりぷりとした表情に、かすかに笑う声が耳に入る。美月の声だ。すかさず宗近は肩にかけた刀ケースをゆすって反撃する。
「……ところで、もしかして剪定ですか? そろそろ」
頷いて、ツバメは梅の木の枝葉と実に目を遣る。
「そやね。今年は色々ばたばたしとったさかい、少し遅いくらいやわ」
「じゃあ、今回は梅干しですかね? 私、作業を手伝いに来ますよ」
「お裾分け目当てを隠そうともしんあたり、宗近ちゃんやねえ。ほな、頼もうかな」
「果実酒じゃないんかい。つまらんのう」
刀ケースに納まったまま、美月がぼやいてくる。
「鏡命刀も意外といける口なんは、どこも同じやねえ。ほな、今回の刀はどんなモノか、ちぃと見定めさせてもらおうかな。宗近ちゃんも学校前なんやろし」
どこか瞳の彩に鋭いモノを宿らせて、ツバメが言うのに、宗近が頷いた。
「お願いします」
彫金工房とひと口に言っても、刀工でもあるツバメの作業場は、工程によって場所を切り替えるスタイルを採っていることもあり、それなりの部屋数を持ち、また敷地面積に対してスペースを割いていた。
今いる一室は土間であり、炉や鞴、金床に火床が備えられ、壁には大小の木槌が数本並んでいる。この部屋の他には、アクセサリーや加賀工芸の品を作る教室として机を並べる一室などがある。その工房で宗近はツバメと差し向かい、刀を差し出した。
ツバメは陀羅尼勝家を受け取ると、早速慣れた手つきで鞘から刀身を抜くと、その刃地を一瞥する。ふむ、と気を吐き、次いで目釘を抜いて、茎を引き出す。
刀の外見で持ち手にあたる柄。そこは鋼の刀身が抜き差し状になっているのが、刀本来の造りである。柄の部分に納まっている金を 『茎』 と呼称する。
「おっ、在銘やね。ふむふむ。確かに陀羅尼勝家の正真の銘打ちやね」
また刀の作者である鍛冶師の名を刻んだ 『銘』 はこの茎に刻まれている。長い刀顕の歴史の中では、この銘が消されていて、作者の判別に難儀する場合が多々ある。そういう時に刀の銘を鑑定するのも “鑑定士” の仕事である。
「これを闘いの最中に当てるんやから、美月ちゃんは大したもんやね」
「ふふん。もっと言って良いぞ、ツバメ」
「感知ももう少し冴えてくれると、言うことはないんだけれどね」
「…………くっ」
調子づく美月に、珍しく宗近が皮肉った。
だが宗近のその言葉には、ツバメも反応をしめした。
「それやけどね、宗近ちゃん。聞いとるよ。今回も打ち損じのマネをしてもうたそうやね」
「…………はい」
宗近は委縮したように俯いてしまう。そこに美月が
「あれはワシがよくよく妖威刀の錵を見測らんかったせいじゃ。こやつは悪くはないぞ」
とフォローに入るが、しかしツバメは能面のような顔をしてピシャリと告げた。
「美月は黙っとりなさい。うちは宗近ちゃんの身を案じて言うとるんよ」
「………………」
「………………」