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「数珠丸恒次」 9

          5

 ――暗闇に一振りの抜き身の太刀が浮かんでいる。

 刃と反りを下にして、美術館に展示されているかのような、ほのかな灯りを浴びて浮かび上がる日本刀。

 それを視る意識の主は思う。自分の身が今どこに居るのか――天地は今感じているこれで正しく合っているのか、自分の手足とは確かにつながって、ついているのか。感じる匂いは本物か。痛いほどの静寂から、聴覚器官が正しく機能しているのかが判然としない、と。

 だが、網膜に映っている眼前の太刀は、それはそれは幽玄めいて不確かで、不鮮明で、漠とした存在感とを感じさせながら……しかし不可思議な現実感を以って、自分の瞳が確かに捉えている。


(あの太刀は……誰のモノ? ……誰の、何という銘を持つ刀……?)


 あるのかどうかも不確かな意識が、そう心底から湧き上がるように言葉を紡いだ。

 それは宗近という少女に他ならない。

 彼女は自身を自覚するとともに、眼前の太刀のことを容と理解する。


(ああ、これは三日月宗近だね……。写真で観たのと一緒だ)


 東京国立博物館蔵の太刀。日刀會による観覧の禁止。

 宗近はこの太刀のスガタも煌めきも、直に目にしたことはない。

 と、意識に割り入ってくる音――声。


「――正真のこの太刀を手に取って目にしたいか」

「――天下の五大刀。先祖が打った名刀に対する憧れと畏れ」

「――こんな刀を自分も打ちたい。それがお前の真実からの願いか」


 胸が高鳴り、視界が熱くなる感覚。

 声は続ける。


「――それには祖父と父の名誉を取り戻さねば」

「――枷を取り払わねば」

「――繋がりを重んじてはいても、己の道を阻む者へのわだかまりがあるな」


(何? 何なの? 私はお祖父ちゃん達のことを枷だなんて思っていない。お祖父ちゃん達に対して悪くなんて思っていないし。私の想いを汚すことを言わないで!)


「――隠すことは無意味」

「――刀は人の心を映す。我はその権現」

「故にお前の真実を顕わす」


(真実……? 真実だなんて……。違う…………)


「――模造刀造りの祖父と父。名誉を自ら汚して何故それを選んだのかと」

「――お前は刀を愛し、心を通わせる程に、 『ニセモノ』 を打った祖父と父に疑念を抱いていった」

「――お前は心の隅で、祖父と父とを恨み、憎んでいたな」


(違う……、違うよッ 違うの! 違う違う違うッ!)


「――祖父と父の名誉を取り戻すとは口実か」

「――それを果たした先にある、自らの真の願いの為の手段」

「――浅ましく、慾の為に、己の為に鏡命し、刀を振るう。それがお前か」


 三条小鍛冶宗近の子孫としての名を取り戻し、その名に恥じぬ名工となる。

それが確かな、宗近の腹の底の願いか。その為に日刀會に、自分の家の格と名を認めさせる必要があった。その為の業遣師としての闘い。妖威刀の祓いの生業。


「だがそこにある宗近の気持ちは、必ずしも負のモノに占められておる訳ではない。人の心が示す指針とは、力とが、そんなだけのモノならば、ワシは心を映したりはせん!」


 耳に聞き慣れた声が微かに響く。しかし、途端に飄風が巻き起こり、暗く重い雲が辺りを覆う。そして障りを感じてならない声が、耳を聾する程に宗近の聴覚を占める。まるで満ち貫き、凌辱するかの如く。


「――人の為と、鏡命と和と繋がりを重んじて、その真の心根は慾にまみれている。己が望み、願い、欲するモノの為にお前の刀は在るのか!」


(いやぁ!! みないでえぇぇぇえええええぇぇえええッ!!)


「む……ちかッ」

「――お前は本当は、そうした己に痛み、傷んでいる」

「――お前は本当は、そうした刀を忌んでいるな」

「――お前は本当は、戦うことを拒んでいるな?」


 逆巻く風に流れる黒雲の狭間に、昏い眼を象った虚が現れ、宗近の瞳を――顔を――髪を――口唇を――首を――腕を――乳房を――腹を――腰を――尻を――肢を――、ありとあらゆる躰の隅々まで凝視し、見通し、彼女の内側を浮き彫りにする。その軋みが織りなす痛みと辛苦に、己の真実だと囁かれる言葉に対しての、否定の意思がかすかに揺らぐ。そのちょっとした、ある意味必然ともいうべき(たわ)みは、精神の弱い部分に一気につけ入り、決壊を押し進める。


(私は、戦うことが、嫌なのかな……)

(それは、自分の刀に対する想いが欺瞞であるということ……)

(私は、刀を、本当は愛していない………………)


 声は応えない。

 しかし宗近は、それが確たる肯定であるかのように知覚した。


「…………ッ…………ち…………!」

「…………ち…………かッ!」

「――今楽にしてやる」


「……宗近ッ!」


 瞳は、空を映していた。

 渦巻く暗雲が一瞬、彼女の認識をここが幻か現かを正しく判別させない。次いで頬に当たる空から降る大粒の雫に気が付き、手にする太刀が重く、強く前方に引き寄せられる力を受けていることを知る。

そして意識は眼前に向けられる。

 宗近の身と手にする太刀――美月に、妖威の怪僧が放った黒く長い数珠が鎖のように絡まりついて、そしてじりじりと妖威の側に引き寄せられている。


「宗近ッ!」


 息を呑み、自分の名を呼ぶ声に意識を遣ると、美月が懸命に彼女に呼びかけていることに気付いた。しかしその声は、いつもの鏡命している時のような、意識を共有しているそれとはかけ離れて小さく、弱いモノだった。

 今にも消え入りそうな、酷薄さ。

 そして宗近は認識する。

 美月の刀身が、その鏡命の煌めきを半減させ、明滅をさせていることを。状態としては、既に打ちのけの光の粉は舞わず、刃文の美しさは影り、刀身の煌めきも徐々に消え入らんばかりである。


 ――鏡命が、切れかけている。


 宗近の心が、美月の心と映し合うほどに澄んでいないのだ。乱れた水面は、モノを映しはしない。像は乱れ、煌めきの光は散々にかき消える。


「…………美月…………」

「……いかん、前じゃ!」


 見ると前方で、僧衣の顕現に重なるように、宿主が数珠丸恒次を大上段に構えて、その黒い刃を今まさに宗近に目がけて振りおろすところだった。

 反射的に身を竦めた形が、刀身を盾に受け太刀する格好になった。

 美月が一度大きく震えた。

 剛然と繰り出された、宿主を操った妖威の一撃は、美月の刀身を捉えた。

 刹那、金属が爆ぜる音。

 数珠丸恒次の追撃はない。宗近の躰に、斬りつけられた傷はない。


 だが――。

 ポロリと、あっけなく。

 ポキリ、と簡単に。美月の刃は腹のところで二つに折れ、その刃先は軽い音を立ててアスファルトの地面に弾み落ちた。軽く、乾いた音がした。

 残された宗近の手の内の刃は、まったくの煌めきを失った鉄片であった。

 模造刀が折れて、そのまま在るかのような、そんな存在感。


「……………………………………うそ」


 瞠目し、目を疑う宗近。

 手が震え、脚に力が入らない。目頭が熱く脈打っている。


「美月ッ…………いや…………、いや……ぁ…………」


 現状を省みず、取り乱し、宗近はその場に尻をついて折れた太刀をかき抱いた。





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