「数珠丸恒次」 2
「? どうしたの、美月。なんか変だよ、今日の声」
「……うむ、その、な。気付いておらんのか。顔じゃが……」
美月の指摘に、何だろう? と宗近は自分の顔に手を遣り、次いで部屋の手鏡を覗いてみる。そして何気ないように、さして驚くこともなく、口を開いた。
「ああ…………。うん……。これ、私の、涙か…………」
納得し、得心がいったことも、彼女にはさして意味をなさなかったかのように、宗近は力なく腕をおろす。美月を視る瞳は、果たして何を思ったのか。しかしそんな彼女を、腫物のように扱うことをせずに、美月は気を取り直して告げる。
「魘されておったようじゃが、まあ睡眠中のことなど深く取り合うでないぞ。それより、どうする? 今朝の稽古は。やるんじゃろ? 当然」
下手に甘やかされるよりも、辛いときもよっぽど真っ当であれ、と言う親のような美月に有り難さを感じる。しかしあれから丸三日。江沼神社での一件から時間が経っているにも関わらず、宗近の心は未だ晴れずである。
これまでの朝にも、一応のカタチで早朝鍛錬を行い、汗をながしてはいても、太刀筋に心がこもらずにいるのを、彼女の手の内で美月は感じ取っていた。学校にも休まずに出席してはいるが、彼女に普段の穏やかな笑顔はなく、問題の長光と会話をすることもない。
彼自身も、別段宗近に構わずにいたが、しかし部活動の時間ではそういう状態にも無理があるのは確実で、今の彼女にはそれが耐え難かったのだろう。この三日、放課後は早々に下校していた。
「今日は…………、いい…………」
力なく漏らす宗近に、美月は静かに溜息をつく。
かける言葉も、また叱りの言葉も持つべきでは無い時である気がしたのだ。
宗近はもとより生真面目な性格の子である。ならば清く正しくをどんな時にも強いることが、彼女の為にならない場合もあるのではないかと。美月はそう感じ、彼女を見守る。
布団に寝返り、天井を虚ろに見つめていた宗近が、ふと声を発した。
「なんでだろう…………」
「…………うむ?」
静かに相槌を打って、しかし先を促さない美月。今の宗近のあるままに話をさせる。
「鋒周くんは、なんであんなに、刀を……、妖威刀を憎んでいるんだろう…………」
「小僧はお前と一緒、と言っておったのう」
「……うん」
光と影が宗近の顔を彩った。見ると美月が人のスガタで顕現している。美月は彼女の枕元で胡坐をかくと、伏す宗近を静かな、そして優しい視線を以って見つめた。
「奴の実のところの話じゃが。聞きたいならば話そう。ワシは蒔から小僧の事情を耳にしておるのでな」
「…………そうなんだ」
「まだ時間も許すが、どうじゃ、聞きたいかの? あまり愉快な話ではないが」
数瞬の後、宗近は瞳を閉じ、頷いて返した。
それを受けて美月が語り出したのは、長光の幼少期から至る、長船系の刀工としての家柄と、そして妖威刀との戦いの物語だった。
日本の三名匠にも列せられる、古備前の同胞の一家の生まれであった長光。その名は長船三作に挙げられる名刀工の名を頂いた少年だった。
彼は幼い頃より刀技と刀顕とに親しみ、実家の生業である刀鍛冶の道を、彼も成長して為していくのだろうと、誰もが思っていた。それは彼の他にいる六人の兄弟にも、同様に期待されるところだった。――すべては、順調だった。
だがある時、一本の妖威刀が長光の家の工房に持ち込まれた。そしてその刀の妖威に魅入られた長光の兄は、父と母、そして長光以外の五人の弟たちをすべからく斬り伏せ、斬殺せしめた。その妖威刀は……否。妖威の確かな意識と言葉を以ったそれは、長光に対して告げた。
「己は総ての長船の太刀の頂きに立つ刀たる為に、あまねく其の太刀を殺す。持ち手が阻むのならば、持ち手遣い手をも殺す」
「弱き者たる弟よ。お前がその道を阻むのならば、最強の長船の太刀となって己の前に立て。それまでしばし、その命を残しておいてやる」
闇に紛れて、他の周辺の長船系刀工をも襲った妖威刀。長光の兄。
彼は妖威刀に取り憑かれたのではなく、妖威刀と鏡命して、その意志で一派を葬り去ると言い残し、消えた。それが長光にとって、どういう意味を持っていたのかまでは、蒔は語らなかった。
しかしそれ以来、長光は彼の兄を探し続け、仇を討つ意志と、彼の目的を阻むために、蒔を遣い、業遣師としての道を歩み始めた。
彼の兄は、長船系の所持者と、その妖威刀のもとに現れる。それを先回りして、その土地で待ち伏せ、あるいは目的の長船の太刀を先んじて処理――破壊して、彼の行動を挫く。
長光が業遣師として、そういった働きを繰り返すうちに、日刀會より 『壊し屋』 とそしられることになるが、それは長光の意志に対して枷にすらならない、矮小事であった。だが確実に危険視はされていて、それでも長光が業遣師として日刀會より認められているのには、最終的に彼の兄の妖威刀、ただそれ一本を、日刀會の望む管理下に置くことを誓約させられているからだ。
圧倒的なビジネスライクを持ち掛けられ、その当事者の心は昏い情念に突き動かされている。だが長光は鏡命刀と心を通わせている。そこが彼の斟酌困難な心のジレンマである。しかし親兄弟と一族を斬殺せしめた妖威刀に対して、その生業と意志を取り続けている。
それは強い信念と、心を殺す覚悟。
蒔はそんな彼を哀れに思いながらも、彼の心と鏡命をしているからこそ、その意志を介けようと力を貸し続けるのだという。
「しかし、それをお高くとまったあの蒔がワシに告げたのは、どこか辛さがあったのじゃとワシは思うとる」
「辛さ………………か…………」
それは誰にとってのモノなのか。
「宗近……」
「鋒周……、鋒周くん……。鋒周……長光……。鋒周長光……くん、…………か」
先に乾いた頬の上を、また涙の雫がつたった。
美月はそんな宗近の髪を、優しく、優しく、労わるように撫で、梳いた。
宗近は居た堪れない想いで、息を詰まらせ泣いた。