「大般若長光」 9
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刺突が肉を捉え、抉り、皮を裂き骨肉を貫いた。
そしてその傷口からは鮮血が吹き出し、対象にダメージを負わせたことをまざまざと対峙する両者に見せしめた。
だが傷を負った側は、体を、構えを揺るがすことなく刀を手にする腕に力を漲らせ、再度相手を斬滅せんと猛然と刀を振りかざす。そこに見舞われる再度の一突き。正確に腕部と脚部の筋を狙った攻撃を受けて、流血しながらしかし彼は怯むことがなく、その目にはギラリとした彩が微塵も薄れることがなく灯っている。
その彩は――妄念、執念、怨念……恨念。
何が彼をそうまで駆り立てるのか、周囲の彼を目にする人物には判然とはしない。けれども、この場に駆け付けた宗近は、瞳に映る血を流した躰の人物を視て、声を漏らさずにはいられなかった。
「鋒周くん……何をしているの…………?」
長光は構えていた。
確かな鍛錬の程が窺える 『正』 の太刀を発動させる霞の構え。しかして彼はその身に一筋の傷も負ってはいない。
身を裂かれ、真っ赤な鮮血をだくだくと迸らせているのは、妖威刀に取り憑かれた、宿主の肉体だった。
「なんじゃあれは。宿主の躰に刃を通して。相手は妖威刀に乗っ取られておるにしても、無辜の一般人であるというに。あの小僧は何を考えておる」
美月の言葉に同意を持つ宗近は、痛々しい表情で長光に訴えかける。
「鋒周くん、駄目だよっ 妖威刀相手とはいえ、取り憑かれているだけの人を斬りつけたりしちゃ! 苦戦する相手なら、私が加勢するから止めてあげてっ」
その叫びに、しかし長光は鼻で笑って返す。――冷たく、痛烈な内容のセリフを。
「馬鹿が。こうした方が妖威刀本体を楽に叩けるだろうがよ。それに何より、こいつは長船の太刀を所持していた点で運が悪かったのさ。なに、それでも一応一般人だ。怪我をさせても殺しやしねぇよ。だが、勘に障るから大人しくさせているのさ」
構えを崩さずに、じり、と相対する妖威刀――大般若長光に迫る長光。
「このクソ刀をよぉ……、ばっきりと打ち砕いて、あのウスラボケ野郎に思い知らせるためになァァ……!」
「打ち砕く、って…………⁉」
「壊し屋、という訳か」
美月の卓見に、宗近も悟る。長光は、相手が妖威刀であるのならば、一切の容赦も慈悲もなく、委細構わずに、相手への躊躇いもなく――取り憑かれた 『人間』 も、そして荒ぶる魂が宿った妖威刀である 『刀』 をも、自らの鏡命刀と刀技で斬り、截ち、打ち壊す者なのだと。
そういうつもりで闘い、刀を振るう業遣師なのだと。
「駄目ッ! 鋒周くん‼」
「宗近! 待てッ」
長光が更なる一撃を繰り出さんと躰を躍動させ、宗近が彼を止めようと走り出した、その時。妖威刀、大般若長光の、黒い光を纏った刀身がその闇を増大させた。渦を巻いて乱れ、また内側から衣が膨張するように、昏い光が大きさを増し、そして増大がピークに達したと思われると同時に、その中心に二つの白い面が現出した。それは 『仙人』 と 『般若』 の相をした能の面に酷似していた。次いで二つの面の境で闇は二つに裂け、断割した像はやがて二体の能装束の男女のスガタへと顕現した。
「能面か。大般若長光とのシャレが利いているじゃねえか」
顕現した妖威刀に、しかし長光は不敵に嘲笑って構えを正す。
「鋒周くん、この妖威刀は大般若長光なの? 国宝じゃない。それもすごく高値がついたことで知られる名刀。そんな刀を壊そうって、そんなの絶対駄目だよ!」
「うるせぇぞ、ムネ子。かまやしねえよ、どうせ 『写し』 だ。ぶっ叩き斬って、その腐れた魂もそこらの塵クズ同然にしてやるのが、こいつらにゃあ相応しいのよ!」
「そんなの! 刀はもっと大切にしなくちゃ。たとえ写しでも、長光の名を持っているのなら歴史のある刀なんだろうし。文化財破壊、駄目! 絶対!」
やいのやいのと遣り合う二人に、美月が忠言を飛ばす。
「言い合っとる暇はないようじゃぞ。来る!」
二体の妖威が宙を滑るように移動し、能装束の裾を蹴り上げ宗近と長光、それぞれの前で止まり、次いで顔面を前方に突き出した。その怒りや憎しみ、恨みに満ちた相の口元がざくりと裂け広がり、その奥の暗闇から突然にして、鋭く、太い針のような刃が突き出て――襲い来た。
その一撃を躱して、妖威と間合いを取る長光と、寸でで美月の刃の腹で斬撃をいなして、凌ぐ宗近。
「分断されたのう……」
見ると、長光と般若面の妖威の一局と、宗近と仙人の面の男妖威とで距離ができ、二人ともに局地的な戦場として成立していた。
「本体の刀は小僧の方か。これはシテが向こうの般若であるといった処かのう。宗近、あの大般若長光の太刀を破壊させん為にも、ここは一刻も早く、目の前のこやつを祓い鎮めねば」
「うん…………。承知しているよ」
そうして専心集中。宗近は眼前の敵対者に気を向けて、美月を構える。正眼の真っ直ぐな構え。
今の宗近は、当然焦りはあるだろう。それでも心は静かに、悠然といつもの刀技を顕わそうという気構えをつくる。
――気構えをつくろうとしているのだ、宗近は。しかし彼女は思う。何故彼……長光はああも罪のない宿主を傷つける事を厭わず、そして 『刀と心を通い合わせている』 筈の業遣師でありながら、刀を砕き壊すという所業を行おうとするのか。そこには躊躇いもなく、感情もないのか。何故そんなことをするのか、彼は? と。
宗近にはまったく理解が及ばなかった。及ばなかったし、だからこそ問い詰めたい気持ちがあった。今の宗近の長光との対し方とは、理解しようと努めることを放棄しない程の、歩み寄りの心を以って成っているのだから。
「……宗近よ、聞いておるのか⁉」
思考の波と闘いの集中の狭間で、美月の声に耳を傾けることさえ一瞬の間、宗近は疎かにしてしまっていた。
「何? 美月」
「何って、お主、ワシの話を聴いておらんのか? あの妖威、大般若長光がどういう所以で妖威刀として成ったかが解ったんじゃよ」
「写しの刀でも魂がこもっていて、鏡命刀や妖威刀になる理由は知っているよ?」
――日本書紀の記録にもある。崇推天皇が天目一筒神の後裔に、草薙の太刀を模造させた。そしてその太刀は、神性を以って顕現し、祀られた。そうした伝承にもあるように、その刀が名を冠すべく鍛えられたという時点で、刀匠の意気と魂が刃に宿り、力を持つということが確かだとされるのだ。正真ではなくとも正真に近しい在り方として。これは過去幾多の業遣師によって確認された、刀顕の実体である。
「そうじゃの。ただし写しであって、その名そのものの魂を宿しておる訳ではない、ということがこやつのミソじゃ」
「というと……?」
「来る‼」
敵の挙動を察知した美月の声に応じて、緊張を強める宗近に、男能面の妖威は轟と身を走らせ、顔を突き出すと刺撃を繰り出してきた。これも危う気なく、刀をながして躱す宗近だったが、
「さっきよりも速いね…………」
「うむ。次は勝負を決めに来るやもしれぬな」
それでも苛烈を極める勢いの刺突に対応できているのは、これは長光との対戦経験があったことが有利に出たか、と宗近は頭の隅で考える。