「大般若長光」 5
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湿り気を帯びた空気と、極薄く一面を覆う白い雲が彩る、そんな日曜の午前早く。
宗近は自宅を出て、目的に適した例に従って自転車に乗り、大誠寺本町へとペダルを漕いでいた。今日の服装は、肌の露出を抑えたシンプルな恰好だ。それは言ってみれば、年相応のオシャレ心に欠けている姿であり、現役の女子高生である宗近でなくとも、この服装のチョイスには多少の躊躇いを抱く心はあるだろうことが察せられる。
しかし本日の宗近は、別段これより、駅からJR線に乗って、金沢の繁華街に遊びに行こうという訳ではないので、百歩譲ってもこの出で立ちを了承しているのだ。
話が移るようだが、その宗近というティーンの少女は、年相応のファッショや髪型や、化粧といったスタイル事に対して、その実まったくの関心がない、という訳でもない。自分が出来うるオシャレとして、自身の黒髪にはそれなりに手入れをしているし、道着などの武道派の衣類も多いとはいえ、清潔感に気を配った服のチョイスが常だ。
しかし今日いま現在、日曜日に至る一週間ばかりは、彼女の心を占めるファクターにそれ相応の起伏の波があったようだ。この格好はその事に対する一種の撫慰であるのか。
ともあれ、さもありなん。
元来が最大の関心事は日本刀であり、それにまつわる武術刀技である宗近のこと。そして連なる祖父と父への想いと、業遣師の生業が彼女の生活の大半を占めるのだ。そこに来宗近を揺るがせ悩ませているのは、険のある美丈夫――鋒周長光、その人である。
ファッションの話も移り気に、自分の中でセンセーションな “彼” の事を思い出してみる。
(お前の獲物を横取りするぜ、とか言って、それって対立宣言に他ならない筈なんだけれど……)
それで昨日の部活ではどんな顔をするのかと思えば、拍子抜けするほどに何ら変わりなく、挨拶のように口が厳しい様子である。宗近も、彼と一度のみならずの太刀合い試合で遅れをとっている手前もあり、必要以上に強気に反撃をしたりする気もなかったが、それにしても鋒周長光という男には、人らしい心の機微というモノがないのだろうか? と訝しくも思うのである。
昨日も宗近は長光と刀を交える際には、他の総刀部部員たちとは格別に、違う緊張を抱いて対峙したものだが。それもまるで独り相撲であるかのようで。本当によくわからない男子である。
(そのくせ、ことあるごとに人の気分を波立たせてくれるんだから、本当に鋒周くんは、私の要注意人物リストの筆頭に躍り出るね、これは)
と思ってみたりする宗近。しかしかといって、彼女が身近で、本当の意味で危険視する人物などほとんど皆無であるのだが。武人に真からの敵は常在しない、をその性格の穏やかさと可憐さで体現している少女である。本人は無自覚なことであるけれど。
「でも、彼も業遣師なら、何も仕事の奪い合いをしなくても、協力だって出来るんじゃないかな」
緩い起伏を登りながら、宗近が息を短く継ぎつつ口に出して言うと、
「ふむ。まあ、あやつにはあやつの目論見があるのじゃろうて」
と美月が肩のあたりから相槌を打った。
「ううん。ところでそれは、美月は彼が業遣師だって気付いていたって言うけれど、それで私に黙っていたのは、鋒周くんの出方を窺っていたという事なのかな」
「あやつが最初にお主を助けに入った時から、すでに手にする刀の錵は感じておったのよ。ワシの感知が鈍い方だといっても、感じ得る時にははっきりと判るでな」
今は刀ケースの中で、太刀の形状である美月が、まるで腕を組んで唸っているような声音で言った。
「小僧が現れてからこっち、奴の刀にこちらから鏡命の振動を送ったりもして、会話をしてみようと試みてはおったんじゃ。それでこの前、お主らが道場で鍛錬をしておる隙に、あやつ……『蒔』 といったの。あの長船に直接声で話し掛けてみたんじゃが」
「どうだったの?」
「見事に無視された。遣い手と同じく、どうにもお高くとまりよった刀じゃよ。まあしかし、年功序列で言ったらワシの方が下手も下手なんじゃがな」
「……長船といったらどのくらい前だっけ? 室町以前なら軽く400年以上は前だものね」
……大先輩じゃないですか。
そうして、一人と一振りが揃って頭を悩ませる。
「じゃが、お前も自分の目的の為に、おいそれと妖威刀祓いの手柄を奪われる訳にはいかんのは確かじゃろ。気を引き締めて行かねばならんという事じゃの」
「……まぁ、そうだね」
それは至極もっとも、その通りではあるが、長光に対しての感情が波立つ自分というモノは、どう落ち着けたモノか。と宗近はなおも考える。
そうこうするうちに、永川のツバメさんが住まう彫金工房 『華月』 に到着する。
世間は休日という事もあり、日曜日を利用して、華月には彫金細工の手習いに人間が幾人か訪れている。それを周知の宗近は、工房の方ではなく自宅側の玄関に向かい、インターホンを押す。ややあって、玄関扉を開けて現れた人間に、しかし宗近は絶句し、そして硬直した。
まったくのフリーズ状態。
温泉郷の氷室の雪とて、ここまでの凝結具合を見せないだろう、見事な固まりっぷりだった。
「何しに来やがった。そんなクソダサい格好して、ムネ子」
鋒周長光が玄関先に立っていた。
「いやもう、そないに二人が険悪な仲やとは露も知らんもんやから、悪いことしたなあ。いうか悪気はない、偶然やったんやよ、宗近ちゃん。かんにんしてな」
刀鍛冶用の工房に場を移して、ツバメと宗近、そして長光が顔を揃えて談を交えていた。椅子に掛ける客扱いの二人に対して、ツバメが飲み物を淹れてくれている。
「俺は大誠寺署の宮坂って人が、業遣師のサポートをしてくれている人が居るってんで、紹介されて来ただけだ」
「私だって今日は、ツバメさんと梅の木の剪定の作業をするっていう約束をしていたから、それで来ただけだよ」
そっぽを向いて唇を尖らす宗近に、長光はつまらなさそうにあくびをする。両者を見てツバメが手を叩き微笑む。
「まあまあ、せっかくの美男美女がふくれっ面してたらあきまへんえ。同い年で、しかも活動地域の違う業遣師同士がこうして顔を合わせることも、本来滅多にないことなんやさかい。仲良うしいな」
「同業者というだけでは仲良く出来ないことって、たまにはあると思いますよツバメさん。私、最近それを学びました」
「俺もこいつみたいなぬるい業遣師と同業者とか言われても、こっちの格が低く見られそうで勘弁して欲しいね」
険を戦わせる宗近と長光に、彼女たちの手にする刀までもが、にわかに低い音を立てて牽制し合っている。
「あー、もうっ 鏡命刀まで唸り出しはるし。 宗近ちゃんがこないにツンケンしとるのは、ほんまに珍しいわ。同じ業遣師でも、正宗ちゃんとは仲良うしとったように思うが」
「赤刃隅さんは良い人だもん。鋒周くんは……その……、もうっ! はっきり言って感じ悪いんです!」
珍しく本人の前で不快感を吐露する宗近。その動機が、服装を貶された事だというのは、年頃の乙女の機微として察してあげよう。
「初めて会った時だって、突然現れて何も言わずに居なくなるし。転校してきたと思ったら、態度が悪いし!」
「正宗? 相州伝の業遣師にそういう名前の奴がいたな。そいつの話は俺も聞いたことがある。知り合いかよ、ムネ子」
人の話をスルーするし。
いつの間にか愛称で呼ばれているし。馴れ馴れしくも。
それも併せて宗近は、そっぽを向く顔に勢いを増す。といって、これ以上はそっぽの向きようがないけれど。一周して正面から向き合うのならどうぞご自由に、である。
「ふうん。宗近ちゃん、長光くんと以前に逢うとったんやね。いつのこと?」
「…………この前、陀羅尼勝家の妖威刀を祓ったときです。一度静まった妖威が、不意に刃を振りかざしてきたところを、その……助けてもらいました」
「そうなんや」
と楽しそうに微笑むツバメ。
「ハッ。あの時はこの街に来て早速、妖威刀の錵が彷徨っているのを感じてよ。追ってみたら馬鹿な業遣師が死にそうになっていたから、ほんの気紛れで手を出しただけだ。つまらない事をしてしまったものだぜ」
「こんな人と分かっていたら、助けて貰ったりなんかしませんでした!」
二人の様子に仕方ないな、といった面持ちでツバメがやんわりと言う。
「仲良くできんでも仕方ないいう時期は、人間色々やさかいにたまにはあるもんや。けど、人の生いうんは愛し愛されたが重要や。あんまし人に対して歯ぁ剥いてばかりおったら、自分の気持ちを見失ってしまうよ。それは若いうちには在りがちなことなんやし」
「私の気持ちは、偽らざるがはっきりしていますよ。それ以外は皆無です」
「ふん、気が合うな。俺も意志ははっきりしている。それ以外は絶無だ」
(……これは対処ないなあ)
ヒートアップしてブレーキ知らずの二人の、そんな不毛な掛け合いに、ツバメは取り成すことに見切りをつけて、話題を変えることにする。
「そうや、宗近ちゃん。件の陀羅尼勝家やけれど、昨日に修繕を完了してなあ。大誠寺署のおひとに受け渡しが済んだんやけどな、その際に耳にしたんやけれど、前々から言うとった例の件。あと十日ほどでこっちに来るそうなんやわ」
仏頂面をしてむくれるという誤謬を体現していた宗近が、ツバメの話を聴いて表情を変える。切り替えの出来る女の子である。
「それって、例の国宝の……」
「そうや。あの破邪顕正の太刀は、定期的に妖威刀化することで知られとる一振りや。今回も十二、三年振りといったところで、また顕現したようやね。それを祓い鎮める仕事は、はっきり言って宗近ちゃんの悲願のために、大きな前進になるやろな」
宗近の瞳の彩が、先程の表情の変化よりもなお一層際立って、目に見えて変わるようだった。
彼女の隣で、その様子を視るともなく視ていた長光が、嘆息を以って呟く。
「亡くなった人間の為に何かをしてやりたい気持ちは、まあ良く分かるがな。だがお前、今みたいな腕で、それを成し遂げられると本気で思っているのか?」
辛辣な長光の言葉に、しかし宗近は彼を睨むでもなく、意志の宿った瞳で美月を握る手に力を込める。そして半ばまで刀身を抜きさらす。『美月』 は臨戦態勢でもないのに鏡命の錵の煌めきを帯びていた。
「備前の小僧よ。こやつはそんな言葉では揺るがんよ。宗近はな、自分の甘さを十分に分かったうえで、尚それを変えずに己の道を征く強さを持っとる」
美月が己の遣い手を誇るように言い切るのを、長光は口元をニヒルに歪ませて応じる。
「まあ、抱えるモノが多いいうのは、傍で視とる者からしては心配になるんやとは、耳に入れておいて欲しいけどなあ」
ツバメの言葉に、宗近は頷いて返す。
「ふん。しかしこいつに宣言した通り、俺もその件の妖威刀を狙ってみようかと思うが……国宝かよ」
「そやね。“壊し屋” として知られる長光くんは、手ぇを出さん方がええ案件やねえ」
「壊し屋…………?」
会話の中に含まれた、耳慣れない――ともすれば不穏な単語に、宗近は反応を示す。しかし、
「なんでもねえよ。永川さん、余計な話をするなよ」
「余計ねえ。業遣師同士、お互いのスタイルを知っておいてもいいんと違う?」
今度は長光がそっぽを向く番だったが、顔を反らした彼は、一人の人物と視線が合わさった。
それは利発そうな顔つきだが、口元は楽しそうににんまりと笑っている、可愛らしい少年。彼はいつからだろう、工房の扉の隙間から顔を覗かせていた。